瀬崎祐の本棚

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詩集「毛のむしられたエスキース」  赤木三郎  (2013/02)  書肆夢ゝ

2013-02-06 21:09:40 | 詩集
 40年ぶりの詩集とのこと。92頁に23編を収める。
 見えるもの、そして思われるものがくっきりと輪郭をあらわにしているのに、その有様はどこか頼りなげだ。言い切っているのに、どこかにためらいのようなものが感じられる感覚が魅力的である。軽い言葉のうしろになびくものがあるようなのだ。
 「深みから」は海が舞台となっている作品。浜には「こころのつづきを/たしかめに」来る人がいて、ただ黙って座っている。

   たしかに
   あなたの
   腰を降ろすこの砂は 海からのつづきでもあるしあのうみのほうだってまた うしろからの きりたつ崖のつづきといえるわけだし
   その崖のはるかうえには
   大きな木星がかかり
   これらすべての影にひかれて あなたの目の前の波は/もりあがるよね

 こうして「しずかな荒れた浜で」波を見ているだけなのだが、その海の深みには沈んでいるものがあるわけだ。それは「深さのなかを傾く客船や 軍艦」なのだが、海を見る人にはこうして次第に見えてくるものがあるわけだ。
 「無停車行」では、ぼくは汽車に乗っている。その汽車の客は「かなしみは首までつまっているというふうで/汽笛のなるたびいっせいにくびをふる」のだ。そこで、「先方につくまで夕焼けばかりのかるたををしましょうよ」ということになる。

   汽車はひめいのトンネルをくぐる
   「一回で百日 というのもいいものなのですよ」
   くばられてくりかるたは暗い絵ばかりで
   読みときかたがわからない
   「あなたの負けです
   おもいきりかたがかんじんなのです」

 この奇妙な名前のゲームが、どこかへ行こうとしている人々がなんとも侘びしい存在であることを示唆している。そんなゲームでもしているほかはないような汽車の旅なのだ。どこにも止まらない汽車はどこまで走りつづけるのだろうか。人々がたどりつく”先方”など、本当にあるのだろうか。
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詩集「エンドルフィン」  小島数子  (2013/01)  フランス堂

2013-02-02 22:18:44 | 詩集
 B6判、ソフトカバーの63頁に9編を収めるという、軽やかな感じの詩集。
 作品にも、事物にまとわりついているはずのしがらみを潔く切り落としたような軽やかさがある。眼前にあらわれる具体的な事物はもとより、それらに呼応して提示される見えない事物にも、引きずるものがない。それは言葉に余分なものが付いていない潔さだ。
 詩集タイトルとなっている”エンドルフィン”は肉体的苦痛に陥った時に分泌される脳内活性アミンの一つで、ランナーズ・ハイをもたらしたりするとも言われたりしている。そのタイトルの作品「エンドルフィン」では、外部にあったものが話者の内部へ入り込み、話者を操っているようだ。そこに今の自分がいる。

   時計の針が止まってしまい、
   今が何時ごろなのか、
   わからなくなると、
   やわらかな気持ちになる。
   カボチャを切り分けるとき、
   包丁に入れる力は黄色くなる。
   木の葉が風に吹かれてたてる音は、
   不安を昼寝させるための子守唄だ。

 先に、引きずるものがないと書いたが、それは未練や迷いがないためだろう。ここには自己が置かれた状況をすべて受け入れている覚悟のようなものがある。それが潔さを感じさせる所以だろう。
 詩集最後には、それぞれ8章、9章からなるやや長い作品が2編おかれている。
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