瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

ぽとり  14号  (2009/05)  和歌山

2009-06-17 17:38:11 | 「は行」で始まる詩誌
 武西良和の個人誌。少年を題材にした作品が幾編も並んでいるのだが(武西は少年たちと接する日常を送っているのだろうか)、彼らの無垢とも言える心情に迫っていて、いいなあと思えるものだった。「歯科検診」は一年生の男の子が歯の健診を嫌がっている作品。

   自分の見えないところを
   見られる
   怖さから逃げ出したのだ
   どんなケガ
   をしても泣かなかった子が
   歯の健診
   を怖がっている

 こんな純粋な気持ちがあるのだろうかと、はっとさせられる。いつの間にか、世間の見えないものには気がつかないふりをして安楽に生きていくすべを身につけてしまうと、そのうちに自分の中の見えないものにまで気がつかなくなっていた。そんなことを改めて考えさせてくれた作品。
 「トカラ山羊」は首に縄を巻かれるのを嫌がった山羊を詩っている。山羊は野生の象徴で、山羊が縛られると、「縛られた野生なら近寄っていける」と、子ども達が近づいてくる。子ども達を教育するとは、どんな意味のことなのだろうと作者が自問しているようだ。最終連は、

   教室は野生から
   どれくらい離れているのだろう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地平線  46号  (2009/05)  東京

2009-06-16 19:37:44 | 「た行」で始まる詩誌
 「馬族」秋元炯。7連からなる散文詩。蒼黒い疲れきった男が語る物語という体裁をとっているのだが、これがすこぶる面白い。父親は馬族に貪りつくされて、わずかに残った左足の小指を母親が飲み込んで、その男は生まれたのだという。

   ある夜 馬はもう帰ったと思い 油断してい
   た俺が寝床に入ると 寝床の下に隠れていた
   馬が 覆いかぶさるように顔を覗きこんでき
   た 巨大な濡れた目を近づけ まばたきもし
   ないで俺の目の奥を見つめている こんなに
   見つめられたら 吸いこまれてしまう そう
   思った瞬間 吸いこまれたのは馬の方だった

 それから男は、父親を貪り食べた残りの馬を殺すための旅に出たのだった。古より伝えられる出生譚には、自分のルーツ探しの意味合いがあるのだろう。そして復讐譚には、どのような試練を経たときに自分のアイデンティティーが確立されるのかといった意味合いがあるのではないだろうか。しかし、この作品ではそんな理屈は不要にして、この物語自体の奇妙な面白さを堪能すれば良いのだろう。馬が俺の顔を覗き込んできたときの描写には、映画を観ているときのような臨場感があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「暁暗のトロイメライ」  池田 實  (2009/05)  思潮社

2009-06-15 15:30:20 | 詩集
 個人誌「ポエームTAMA」でそれこそ持続する志を提示し続けている著者の最新詩集で、132頁、21編を収める。非常に硬質な雰囲気をまとった詩集である。それは、概念や理念といったものを言葉の対象として扱おうとしている作品が多く見られるところからきている。
 そのなかでは「未来の記憶」は受け取りやすいイメージを持った作品。未来の記憶が匂う町で、見知らぬ居酒屋にはいる。現れたり消えたりする人影があって、バーテンは何も聞かずに私の好みの酒を出してくる。彼はもう何年も前に亡くなっていたのだ。

   私は何か変です
   いつここへ来たのか分からなくなりました

   誰でもそうですよ
   生前の記憶はみんな消えてしまうのですよ
   だから誰でもついさっき来たと思うんですよ

 するとここは、いつの日にか私が訪れるはずの酒場だったのか。やがて自分に訪れるそんな日のことを、今の自分が書いているという捻れた構造が面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴亀  3号  (2009/04)  兵庫

2009-06-10 23:27:17 | 「た行」で始まる詩誌
 「仮面」中堂けいこ。「やあやあと囃し立てる水霊ら」で始まるこの作品のチーフとなっている仮面は、同時に収録されている紀行文から推察すると、ヴェネチアの祭りの時に使われるあの妖しげな仮面であろう。表情を隠した人々が集まったカーニバルのざわめきが伝わってくるような作品である。

   人いきれ ひときれの陽射しさけて わたしはおまえの内側に逃れよう
   しらふもまた付け替え可能と気付くとき わたしたちは主語を失うといういいぐさ

 内容はなんのことを言っているのか、実はよくわからない。まるで生身の自分を仮面の奥に隠してしまっているように、肉声は消えている。そのうえで、舞台の上に役者を勢揃いさせて無言劇を演じさせているような趣である。仕草の意味を追わずにいればよいのだろう、そこでは架空の物語が美しくくりひろげられているのだから。

   真っ白い缶おしつけ 本日は満員御礼と からからさみしい音をたてよ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「マルティバース」  万里小路譲  (2009/06) 書肆犀

2009-06-09 21:53:10 | 詩集
 第6詩集、184頁に55編を収める。「緑の森の恋人たち」は、なんともベタなタイトルであり、内容も一見は絵のような風景の中での恋人たちの様子を詩っているように見える。しかし、ここで面白いのは、そのような恋人たちの有り様はこうして書き留めている時点では過去のことで、どこにもありはしないという意識である。この作品は3節から成るのだが、その1節目の終連は、そこまで書かれてきたものの確かさをすべて否定している。

   --そういう夢を見た
   (という一行を消すことだってできる)

 さらに第3節ではそれをもう一度ひっくり返している。

   --そういう詩行を想定した
   (という夢を消すことはできない)

 このように、この作品は書かれたものの存在を問い直しており、それは書くという行為の意味を改めて見直しているわけだ。こんなことを言い始めたら何も書けなくなってしまうわけだが、この詩集ではこの作品のあとに50編もの作品がつづいている。面白い。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする