天城越え1-3
右内神社~左内神社~広渡寺
バス停「中島南」がある。この辺りに三嶋大社の御門の守護神の右内神社と左内神社があるはずだと、バスの案内板を見ると右内神社が載っていた。どうやら次の交差点を右折すれば良さそうだ。。信号「中島南」を右折して殿川の橋の袂から辺りを見ると、殿川を挟んで南西の方角に鎮守の森らしきものが見える。さらに南を見ると一回り小さな森もある。あれが右内神社と左内神社だろうと見当をつけて、まずは右内神社に行ってみた。
適当に歩いているので神社の正門の位置は分からず森をめがけて行ったが、どうやら神社の裏に出てしまったようだ。神社の周りは民家が建っていて入れそうもない。グルリ回らなければならないかな、と思ったとき、家と家の間に細い道が神社に続いていた。ラッキー!今日は勘が冴えているようだ。
橋を渡るときフト北の方角を見ると、薄っすらと富士山が見えていた。今日は富士山は諦めていたのに嬉しい誤算だった。
右内神社の鎮守の森 殿川からの富士山
あるある「頼朝公手洗水址」と新しい石碑の横に、どうと言う事も無いような手水鉢があった。このように有名人が通った近くにあれば、普通の物でも石碑まで建てられて大事にされる。マーそれでも何も無いより張り合いはあるが。
他に三つの石を並べて「力石」と名付けた案内もがある。
「乞食石(32貫) むかし若者が職を求めて村に来た。村人は若者に食を与え3日目に力石で力試しをさせたが、若者は担ぐことが出来ず村を逃げ出した。それ以後この石を乞食石と呼ぶようになった」 ウーン何故こじき石なんだろう?
他にも「女石(23貫) 力自慢の女性が持ち上げた」とか「立石一俵(34貫) この石を持ち上げなくても立てるだけで米一俵を担ぐことができるとされた」もあった。力石は時々見かけたが3個あるのは初めて見た。しかも乞食石とか立石とか独創的な名前が面白い。
境内には倒れた木の根元には案内板があったが、肝心の神社の由緒書がない。折角お参りに来たのにこれでは張り合いが無い。で調べてみるとこんな事が分かった。
「近くの梅名川(殿川)7に連なる「うなぎの池」と呼ばれる池があり、そこには三嶋大明神の使者と言われた鰻が川を下って集まり、冬越えをしたと言われています。それでこの神社は「うなぎの宮」と呼ばれ、氏子は鰻を食べない習慣が明治の初めごろまであったと言われています」 へー鰻と言えば三島名物で、三嶋大社の鳥居の横でも鰻屋を見かけた。それなら「鰻塚」があっても良さそうなものだが。と思ったら境内に「宇米都之池と刻まれた新しい石碑がある。神社のある梅名の地名は、梅津を意味し、宇米都は阿米都から転じたものと考える説がある」 そうかしら? 宇米都之池=ウナギの池 ではないのかな。
更に頼朝の手水鉢には「桐紋と菊紋が並んで刻まれている」だって。さっきは何でもない手水鉢だと馬鹿にしてしまったが、悔しい事をしてしまった。しっかり見てくるべきだった。
右内神社の鳥居の横には「延喜式内 村社 右内神社」の石碑が建っていた。延喜式内社なら古いはずだ。この神社、由緒もあり折角の神社なのに案内板が無いので見過ごされてしまっている。どうか案内板を設置してください。
そうそう延喜式内社とは、延長5年(927年)にまとめられた「延喜式」に、当時の「官社」と書かれていた神社の事で、ようは一種の社格であって、古い神社の代名詞です。
頼朝の手水鉢 力石 右内神社の鳥居
次は殿川の橋まで戻り左内神社に行く。この神社は先ほどの右内神社とセットで三嶋大社の守護神だったいう。なら、下田街道を挟んで右と左にあるべきだらう。それがどちらも街道より西側に鎮座している。神社の間にあるのは殿川だ。若しかしてと思い地図で殿川を遡って行くと案の定、朝歩いた白滝公園に通じていた。なら三嶋大社のウナギがこの川を下ってくるのも不自然ではない。そしてそれを守るための右内・左内神社か?
左内神社で目を引いたのは、石に固定されたて赤く錆びついた旧式の機関銃(?)だけだった。横にあった古い石の案内盤には「沈没船ボヤリン号為大連湾引揚記念」となっていた。
結局この神社にも由緒書など無く、何も分からないまま出るしかなかった。ただ気になったのは神社の向きだ。右内神社は入口も本殿も南向き。左内神社はどちらも東向き。これは何か意味があるのだろうか?
左内神社の事も後で調べてみると、こんな事が分かった。
「旧社地は、現社地から北東300mの手無地区にあったが、明治の火災により焼失。翌年、現在地に遷座した」
左内神社は街道から西に100mの位置にあるので、北東300mなら街道の東がになる。これで三嶋大社の門の守護神の意味が通じる。さらにこんな話も書いてあった。
オッともう止めよう。神社の神様の話になるとチンプンカンプンで聞いてもすぐ忘れてしまう。それより神社の名前の右・左は三嶋大社から見ての右左だったが、川の右岸・左岸は上流から下流を見ての右左。右大臣・左大臣は天皇から見ての右左。しかし野球の場合の右翼・左翼は捕手から見ての右左。分からないのが思想の右翼・左翼だ。フランス議会の右側にいたから右翼と言われてらしいが、それはどちらから見ての右だろうか。知っている人が居たら教えてください。
一体何をやっているのだろう、先を急がなければ。
左内神社 機関銃?
アッ! シマッタ。大場駅の踏切まで来てしまった。
この道は駿河一国33観音巡りの番外札所で十国峠にある東光寺に行くとき歩いた道だ。あのときは無意識に歩いていたら、いつの間にかに下田街道と別れて熱海峠への道に入っていたが、今もこのまま行くと熱海に行ってしまう。
慌てて地図を取り出し確認すると、200mほど手前の「大場」の信号を曲がるべきだった。
戻った交差点の先の道路標識には、間違いなく右折が国道136号線(車の下田街道)となっている。でも変だな、メイン道路は下田に向かう道のはずなのに、下田街道が直角に右に曲がらなければならないなんて。しかも交差点店の名前が追分でなく大場なんて。なんか変だ。
駿河一国で熱海に向かって歩いたとき、この先には「岐れ道」といった風情のある名前の交差点があったが、この交差点も「大場追分」にするべきだ。自分の間違いを棚に上げグズグズ言っている私でした。
新しい道祖神が赤い運動帽をかぶって鎮座している。やけに帽子が似合っていて、後ろに流した髪や優しげな口元を見ると小学生の道祖神ように感じるがどうだろう。ただ石は脆そうな感じで余り長持ちをしそうには見えないが。
大場信号 道祖神
「俠客 大場の九久八之墓所」と書かれた大看板が広渡寺(こうどじ)の前に建っている。
大場の久八の名前は聞いた事があるが、昔のやくざの親分だったという知識しかない。案内板を読むと
「天保10(1839)年には大親分になって、伊豆、駿豆、駿河、甲斐、武蔵、相模に勢力圏があった。乾分の数は3600人で東海随一の大親分だった。品川沖のお台場構築には江川太郎左衛門を助け、見事に完成させ、お台場の親分と仰がれたて明治25年79歳で没した」
いちいちケチを付けて申し訳ないが「東海随一のお親分」といえば「清水次郎長」ではないのか。次郎長も明治26年に74才で亡くなっているので、大場の久八とは同じ時代に生きている。一体どちらが本当の海道一の大親分だったろう。
ネットで検索するが二人が関連する話は出てこない。ただ「次郎長は久八に頭が上がらなかった」とか「次郎長は久八をなめていた」とどちらともとれる表現も載っていた。
こうなると判断は私の妄想的歴史観しかない。ならきっと次郎長は浪花節等の今でいうマスコミが作り上げた大親分で、久八が本当の大親分ではなかったのか。理由? それは久八のお孫さんの話に「久八爺さんは快足の持ち主で1日40里(約160km)は平気で歩いていた。朝食後家を出ると夕方には江戸へ着いていた」と------
歩く人には悪人はいない。エッ!やくざは悪人ではないかって? マーそれはそれとして、他にもある。
久八の戒名は芝浦増上寺から「信礼院義誉智仁徳善居士」を送られたとあった。この戒名は素人の私がが見ても「信義礼儀をつくし義理や誉れも高く智者で仁徳があり善人だった」とくれば仏様の様な人だったろう。一方次郎長のか戒名は「碩量軒雄山義海居士」 これでは素人とでは判断できない。
仏様=大親分では無い事は承知してますが、健脚だったことで許してください。最後にもう一つ看板に「伊豆、駿豆、駿河」とあるが駿豆って駿河と伊豆の事ではないのか。
この広渡寺の入口にも手無地蔵で見た「唯念名号塔」があった。唯念上人は「自らの書による名号「南無阿弥陀仏」を渡した」と説明されていたが「名号」とは何かと思い調べてみると「一般にはすべての仏・菩薩の名前を名号という。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名を指していう」とあった。たしかに広渡寺の宗派は浄土宗だった。
では唯念上人は紙に書いた名号(南無阿弥陀仏)を信者に渡し、信者が寄付を集めてこのような立派な石碑を建てたのだろうか。それとも唯念上人が建てたのか?面白い題材が見受かった。これからは「唯念名号塔」を注意しながら歩いて行こう。だがこの石碑に唯念上人の名前が彫られているのかな? たとえ彫られていても私に読めるかな? それが問題だ。
口紅を付けた石仏を見つけた。東海道でもおしゃれな地蔵を見たが、こんなのが流行っているのだろうか。住民が無関心でいる石仏よりましなのだろうな。処でこの石仏は道祖神?賽の神? 私には書いてないので不明だ。
大場の久八の看板 唯念名号塔 おしゃれ石仏
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昨日(5日)天城越えの2回目に行ってきました。
予定コースは
修善寺駅-湯ヶ島-浄蓮の滝-昭和の森-太郎杉-二本杉峠(旧天城峠)-七滝-七滝バス停の予定です。
記録的な大雨が3日に降ったばかりなのに、果たして予定通り歩けたでしょうか。
右内神社~左内神社~広渡寺
バス停「中島南」がある。この辺りに三嶋大社の御門の守護神の右内神社と左内神社があるはずだと、バスの案内板を見ると右内神社が載っていた。どうやら次の交差点を右折すれば良さそうだ。。信号「中島南」を右折して殿川の橋の袂から辺りを見ると、殿川を挟んで南西の方角に鎮守の森らしきものが見える。さらに南を見ると一回り小さな森もある。あれが右内神社と左内神社だろうと見当をつけて、まずは右内神社に行ってみた。
適当に歩いているので神社の正門の位置は分からず森をめがけて行ったが、どうやら神社の裏に出てしまったようだ。神社の周りは民家が建っていて入れそうもない。グルリ回らなければならないかな、と思ったとき、家と家の間に細い道が神社に続いていた。ラッキー!今日は勘が冴えているようだ。
橋を渡るときフト北の方角を見ると、薄っすらと富士山が見えていた。今日は富士山は諦めていたのに嬉しい誤算だった。
右内神社の鎮守の森 殿川からの富士山
あるある「頼朝公手洗水址」と新しい石碑の横に、どうと言う事も無いような手水鉢があった。このように有名人が通った近くにあれば、普通の物でも石碑まで建てられて大事にされる。マーそれでも何も無いより張り合いはあるが。
他に三つの石を並べて「力石」と名付けた案内もがある。
「乞食石(32貫) むかし若者が職を求めて村に来た。村人は若者に食を与え3日目に力石で力試しをさせたが、若者は担ぐことが出来ず村を逃げ出した。それ以後この石を乞食石と呼ぶようになった」 ウーン何故こじき石なんだろう?
他にも「女石(23貫) 力自慢の女性が持ち上げた」とか「立石一俵(34貫) この石を持ち上げなくても立てるだけで米一俵を担ぐことができるとされた」もあった。力石は時々見かけたが3個あるのは初めて見た。しかも乞食石とか立石とか独創的な名前が面白い。
境内には倒れた木の根元には案内板があったが、肝心の神社の由緒書がない。折角お参りに来たのにこれでは張り合いが無い。で調べてみるとこんな事が分かった。
「近くの梅名川(殿川)7に連なる「うなぎの池」と呼ばれる池があり、そこには三嶋大明神の使者と言われた鰻が川を下って集まり、冬越えをしたと言われています。それでこの神社は「うなぎの宮」と呼ばれ、氏子は鰻を食べない習慣が明治の初めごろまであったと言われています」 へー鰻と言えば三島名物で、三嶋大社の鳥居の横でも鰻屋を見かけた。それなら「鰻塚」があっても良さそうなものだが。と思ったら境内に「宇米都之池と刻まれた新しい石碑がある。神社のある梅名の地名は、梅津を意味し、宇米都は阿米都から転じたものと考える説がある」 そうかしら? 宇米都之池=ウナギの池 ではないのかな。
更に頼朝の手水鉢には「桐紋と菊紋が並んで刻まれている」だって。さっきは何でもない手水鉢だと馬鹿にしてしまったが、悔しい事をしてしまった。しっかり見てくるべきだった。
右内神社の鳥居の横には「延喜式内 村社 右内神社」の石碑が建っていた。延喜式内社なら古いはずだ。この神社、由緒もあり折角の神社なのに案内板が無いので見過ごされてしまっている。どうか案内板を設置してください。
そうそう延喜式内社とは、延長5年(927年)にまとめられた「延喜式」に、当時の「官社」と書かれていた神社の事で、ようは一種の社格であって、古い神社の代名詞です。
頼朝の手水鉢 力石 右内神社の鳥居
次は殿川の橋まで戻り左内神社に行く。この神社は先ほどの右内神社とセットで三嶋大社の守護神だったいう。なら、下田街道を挟んで右と左にあるべきだらう。それがどちらも街道より西側に鎮座している。神社の間にあるのは殿川だ。若しかしてと思い地図で殿川を遡って行くと案の定、朝歩いた白滝公園に通じていた。なら三嶋大社のウナギがこの川を下ってくるのも不自然ではない。そしてそれを守るための右内・左内神社か?
左内神社で目を引いたのは、石に固定されたて赤く錆びついた旧式の機関銃(?)だけだった。横にあった古い石の案内盤には「沈没船ボヤリン号為大連湾引揚記念」となっていた。
結局この神社にも由緒書など無く、何も分からないまま出るしかなかった。ただ気になったのは神社の向きだ。右内神社は入口も本殿も南向き。左内神社はどちらも東向き。これは何か意味があるのだろうか?
左内神社の事も後で調べてみると、こんな事が分かった。
「旧社地は、現社地から北東300mの手無地区にあったが、明治の火災により焼失。翌年、現在地に遷座した」
左内神社は街道から西に100mの位置にあるので、北東300mなら街道の東がになる。これで三嶋大社の門の守護神の意味が通じる。さらにこんな話も書いてあった。
オッともう止めよう。神社の神様の話になるとチンプンカンプンで聞いてもすぐ忘れてしまう。それより神社の名前の右・左は三嶋大社から見ての右左だったが、川の右岸・左岸は上流から下流を見ての右左。右大臣・左大臣は天皇から見ての右左。しかし野球の場合の右翼・左翼は捕手から見ての右左。分からないのが思想の右翼・左翼だ。フランス議会の右側にいたから右翼と言われてらしいが、それはどちらから見ての右だろうか。知っている人が居たら教えてください。
一体何をやっているのだろう、先を急がなければ。
左内神社 機関銃?
アッ! シマッタ。大場駅の踏切まで来てしまった。
この道は駿河一国33観音巡りの番外札所で十国峠にある東光寺に行くとき歩いた道だ。あのときは無意識に歩いていたら、いつの間にかに下田街道と別れて熱海峠への道に入っていたが、今もこのまま行くと熱海に行ってしまう。
慌てて地図を取り出し確認すると、200mほど手前の「大場」の信号を曲がるべきだった。
戻った交差点の先の道路標識には、間違いなく右折が国道136号線(車の下田街道)となっている。でも変だな、メイン道路は下田に向かう道のはずなのに、下田街道が直角に右に曲がらなければならないなんて。しかも交差点店の名前が追分でなく大場なんて。なんか変だ。
駿河一国で熱海に向かって歩いたとき、この先には「岐れ道」といった風情のある名前の交差点があったが、この交差点も「大場追分」にするべきだ。自分の間違いを棚に上げグズグズ言っている私でした。
新しい道祖神が赤い運動帽をかぶって鎮座している。やけに帽子が似合っていて、後ろに流した髪や優しげな口元を見ると小学生の道祖神ように感じるがどうだろう。ただ石は脆そうな感じで余り長持ちをしそうには見えないが。
大場信号 道祖神
「俠客 大場の九久八之墓所」と書かれた大看板が広渡寺(こうどじ)の前に建っている。
大場の久八の名前は聞いた事があるが、昔のやくざの親分だったという知識しかない。案内板を読むと
「天保10(1839)年には大親分になって、伊豆、駿豆、駿河、甲斐、武蔵、相模に勢力圏があった。乾分の数は3600人で東海随一の大親分だった。品川沖のお台場構築には江川太郎左衛門を助け、見事に完成させ、お台場の親分と仰がれたて明治25年79歳で没した」
いちいちケチを付けて申し訳ないが「東海随一のお親分」といえば「清水次郎長」ではないのか。次郎長も明治26年に74才で亡くなっているので、大場の久八とは同じ時代に生きている。一体どちらが本当の海道一の大親分だったろう。
ネットで検索するが二人が関連する話は出てこない。ただ「次郎長は久八に頭が上がらなかった」とか「次郎長は久八をなめていた」とどちらともとれる表現も載っていた。
こうなると判断は私の妄想的歴史観しかない。ならきっと次郎長は浪花節等の今でいうマスコミが作り上げた大親分で、久八が本当の大親分ではなかったのか。理由? それは久八のお孫さんの話に「久八爺さんは快足の持ち主で1日40里(約160km)は平気で歩いていた。朝食後家を出ると夕方には江戸へ着いていた」と------
歩く人には悪人はいない。エッ!やくざは悪人ではないかって? マーそれはそれとして、他にもある。
久八の戒名は芝浦増上寺から「信礼院義誉智仁徳善居士」を送られたとあった。この戒名は素人の私がが見ても「信義礼儀をつくし義理や誉れも高く智者で仁徳があり善人だった」とくれば仏様の様な人だったろう。一方次郎長のか戒名は「碩量軒雄山義海居士」 これでは素人とでは判断できない。
仏様=大親分では無い事は承知してますが、健脚だったことで許してください。最後にもう一つ看板に「伊豆、駿豆、駿河」とあるが駿豆って駿河と伊豆の事ではないのか。
この広渡寺の入口にも手無地蔵で見た「唯念名号塔」があった。唯念上人は「自らの書による名号「南無阿弥陀仏」を渡した」と説明されていたが「名号」とは何かと思い調べてみると「一般にはすべての仏・菩薩の名前を名号という。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名を指していう」とあった。たしかに広渡寺の宗派は浄土宗だった。
では唯念上人は紙に書いた名号(南無阿弥陀仏)を信者に渡し、信者が寄付を集めてこのような立派な石碑を建てたのだろうか。それとも唯念上人が建てたのか?面白い題材が見受かった。これからは「唯念名号塔」を注意しながら歩いて行こう。だがこの石碑に唯念上人の名前が彫られているのかな? たとえ彫られていても私に読めるかな? それが問題だ。
口紅を付けた石仏を見つけた。東海道でもおしゃれな地蔵を見たが、こんなのが流行っているのだろうか。住民が無関心でいる石仏よりましなのだろうな。処でこの石仏は道祖神?賽の神? 私には書いてないので不明だ。
大場の久八の看板 唯念名号塔 おしゃれ石仏
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昨日(5日)天城越えの2回目に行ってきました。
予定コースは
修善寺駅-湯ヶ島-浄蓮の滝-昭和の森-太郎杉-二本杉峠(旧天城峠)-七滝-七滝バス停の予定です。
記録的な大雨が3日に降ったばかりなのに、果たして予定通り歩けたでしょうか。