はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 修善寺温泉

2012-05-20 11:27:47 | ウォーキング
天城越え1-8

修善寺温泉

 横瀬の交差点から下田街道は国道を離れて狩野川沿いの道になる。
しかし今は修善寺温泉に向かうので、街道には向かわずそのまま国道を進んで行く。

 石屋の前にちょっと変わったものが置いてあった。臼のように丸くくりぬいた石の穴の中に、色の付いた大理石の様な真丸な石を置いてある。その石は表面に水が付いて濡れていて、クルクル回っている。触ると手が濡れてきた。
ウーンこれは最新式な手水鉢なのだろううか? 回りに誰もいないので聞く事が出来なかった。
それにしてもなぜ石が水に浮き回っているのだろう? その時は水の勢いで回るのだろうと納得したが、後で考えてみると腑に落ちなくなってしまった。丸い色の付いた石は重そうなので、その重みで下の穴の開いた石から浮くはずがない。では何故回っていたのか?
疲れから何か勘違いしていたのかもしれないし、そもそも手水鉢ではないかもしれない。知っている方がいたら教えてください。

 国道の反対側に「脩善寺道」と彫られた石碑が見える。脩善寺道??修善寺の事だろうが脩善寺とも書いていたのか。いや若しかしたら寺の名前が脩善寺かと思い調べたが、そんな事も無かった。
写真を拡大すると石碑の上の方に「SHUZENNJI」と英語が書かれているので古い石碑ではない。「修」の字を行書で書くと「脩」に似てくるのか? これも意味不明で分からないままになってしまった。

  
  手水鉢??                           脩善寺道?

 「桂谷第二十九番 千手観音 四国摩尼山国分寺」と彫られていて、中央に僧の姿のある石碑が建っていた。
このように図形が入った石碑は珍しいが一体何の石碑か。その隣の案内板には「桂谷八十八ヶ所 第二十九番 本尊千手観音菩薩」とあり、その後に和歌が書かれていた。
これは時々お寺で見かける四国の写し霊場なのだろうか、調べてみると四国の二十九番は間違いなく摩尼山国分寺だった。
この桂谷八十八ヶ所の石碑は、この後も所々で目にした。気になって家で調べると
「昭和5年、修禅寺38世丘球学老師は四国八十八ヶ所の全霊場の土を持ち帰り、その土を修善寺温泉周辺の八十八ヶ所に分けて移しました。そして自らの筆になる弘法大師の像と四国札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立し「桂谷八十八ヶ所」を開きました」となっていた。なるほどあの石碑の僧は弘法大師だったのだ。

    
  桂谷八十八ヶ所第二十九番                     第二十八番

 温泉地に入ったようで道の両側に家が立ち並ぶようになった。小さな町なのに畳屋が近い所に2軒もあったが、これは旅館からの需要が多いからだろう。しかし旅館も徐々に洋風化されてきているので、いつまで2軒で営業できるやら。世知辛い世の中になったものだ。
狭くなった道の両側に旅館やホテルが出始めると、だんだん温泉地の雰囲気になってきた。今日はゴールデンウイークの初日だが江川邸や反射炉は閑古鳥が鳴いていたが、ここ修善寺温泉は観光客の姿も多く頑張っているようだった。

 右手に狭い参道の割に大きな木がある「日枝(ひえ)神社」に着いた。今までも何回か修善寺温泉には来ているが寄った事のあるのは、お寺と独鈷の湯だけだったので今日は覗いて行こう。
案内によるとこの神社は「源範頼(のりより)が幽閉されていた場所」と書いてあるが、源範頼って誰の事ななのだ? さっき横瀬にあった愛童将軍地蔵は源頼家だったが今度は範頼ときた。似たような名前で訳が分からなくなってくる。
境内には浴衣に丹前を羽織った若いカップルが「子宝の杉」の間を手をつないで渡っていた。

 案内板には他にも気になる事が書いてあった「日枝神社は修善寺の鬼門にあたり、弘法大師の建立といわている。元は修善寺の山王社(鎮守)であった」とある。
待てよ!。以前島田の山中にある天台宗の古刹智満寺に行ったとき、その境内に「日吉神社」があったので何故だろうと思い調べた事がある。その結果日吉神社や日枝神社は天台宗の守護神で山王はその別名。また日枝神社の日枝は比叡山の比叡から来ているともあった。
その何が気になるのかって? だって弘法大師は高野山の真言宗で、比叡山延暦寺の天台宗の最澄とは宗敵ではなかったのか。その敵の本拠の守護神の日枝神社を、自分の寺の守護とするだろうか。私には納得いかなかった。

    
  日枝神社参道        子宝の杉              一位樫

 修善寺に3時50分到着。横瀬から40分かかっているが日枝神社に寄ったりしているから妥当な時間だろう。
修善寺の階段を登り境内に入ると境内の中はフリ-マーケット開催中で、何だコリャアって感じだった。だがそんな事よりここでも気になる事が発生した。
修善寺の正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」略して修禅寺と呼んでいるらしい。だがその宗派は何と何と曹洞宗だった。まさにそんな馬鹿な!だ。
ここに来る途中にも修善寺の住職の開いた四国霊場桂谷八十八ヶ所もあったし、寺の前には弘法大師が発見した独鈷の湯もある。なのに真言宗でなく曹洞宗とは恐れ入った。一体なぜだろう?
分かったのは、勿論開基は弘法大師だったので当初は真言宗だった。それが鎌倉時代に中国の僧が寺に軟禁された後、臨済宗に変わって、さらに室町時代に入り伊豆韮山の城主になった北条早雲が曹洞宗にしていた事だった。
宗教といえども、いや生産性のない宗教だからこそ継続していくには時の権力者の庇護が必要だったろう。先の大戦でも日本の宗教者の多くは戦争賛美をしたという。これも生き延びるためには仕方ない事だったろうが何か淋しい。

 修善寺といえば温泉、寺、独鈷の湯そして岡本胡堂の修善寺物語が有名だ。「修善寺物語」は読んだことはないが何となく知っていたが、丁度良い機会だと思い調べてみた。
「源頼家は父頼朝の死後二代将軍となったが、叔父の執権北条時政により修善寺に幽閉されていた。そのころ伊豆修善寺桂川の畔に夜叉王という面作りの名人が、二人の娘と暮してた。夜叉王の名声を聞いた頼家は自分の顔を後世に残すべく、夜叉王に命じて面を注文した。だが夜叉王が幾度打ち直しても頼家の面から死相が消えない。催促する頼家、それを拒む夜叉王の間に入り娘は父親に無断で面を頼家に渡してしまった。しかしその夜に頼家は北条の討手に襲われ殺されてしまった」と。細部を省略すればこんな粗筋です。

 修善寺の境内は幽玄に満ちた物語とは裏腹に、喧騒に包まれいて長居をする雰囲気ではない、先を急ごう。

  
  修善寺山門                       修善寺境内