はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道11回目-3

2011-10-06 15:32:29 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」11回目-3      2011.9.10

               水口宿へ(馬子唄)
 

     
土山宿 ― 大野一里塚跡 ― 旅籠跡 ― 水口宿 ― 水口石橋駅
14:40       15:30       15:55     17:00      17:15

 土山宿本陣跡を出て暫く行くと高札場跡の標識があり、その横には大黒屋本陣跡の表示もある。土山宿は鈴鹿峠を控えていたので大名行列や旅人で賑わった事だろうが、峠と宿の間が長すぎるような気がした。
坂下宿から鈴鹿峠まで約2.5km。峠から土山宿までが約8km、計10.5km以上になる。一番の難所の箱根峠は峠には箱根宿があり、小田原側には間の宿の畑宿もある。日坂の中山峠では金谷・日坂間が7.4kmしかないのに菊川間の宿がある。
なのにここには間の宿は無かった。そこで気になったのは鈴鹿の馬子唄で歌われている「あいの土山」だ。この言葉が枕詞のように使われているのだが「あい」が平仮名のため意味が分らない。
そこでネットで調べてみると「道の駅あいの土山」のHPに色々な説が書いてあった。代表的なものをあげると
○間の宿説 :宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される前は、間宿であった。
○相の土山説:鈴鹿峠を三重県坂下宿と相対する土山宿
○藍の土山説:藍染が盛んであった。
○鮎の土山説:鮎漁が盛んであった。
○あいのう土山説:「間もなく」という意味の「あいのう」という方言。

とあったが、どれもが土山に拘ったものばかりだった。
一つ思い出してください前回紹介した箱根馬子唄を。あれには
「三島照る照る 小田原曇る 間の関所は雨が降る」となっています。ここでは三島と小田原の間に関所があり、それを「あいの」と歌っています。確かに東海道が箱根を通るようになった時は箱根宿は無く、幕府は三島と小田原の住民に依頼して宿場を作った経緯もあり、間の関所はあながち間違いとは言えない。
一方鈴鹿の馬子唄は
は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」の「坂」を注目すると、一見坂道に陽が射すとなる。これを坂は「坂下」の略だとすると坂下と鈴鹿峠の間に土山がある事になる。
しかしあるのは洪水で消滅した旧坂下宿があるだけだ。これでは私の仮説は成り立たない。
ならばこれならだろうか。この馬子唄を作詞した人は地元の住人でなく、土山が坂下と鈴鹿峠の間にあると思っていた。余りにも強引な説だが、こうでもしないと最終電車に乗れなくなってしまう。でも坂下宿と土山宿の距離が長すぎことの解決にはならないが。

     
      土山宿の高札場と本陣跡

 垂水頓宮(とんぐう)御殿跡の標識がある。頓宮とは天皇が即位すると伊勢神宮参拝の名代と遣わした皇女達(斎宮)が宿泊した社のことらしい。ただここの御殿跡とは斎宮が泊った所ではなく頓宮に関連した施設があった場所となっていた。
しまったな!以前に斎宮の事を題材にした小説を読んでいたので、頓宮を見てみたいと思っていた。なのにここは頓宮ではなかった。頓宮はもう大分通り過ぎていた。

 
頓宮御殿跡          大野の一里塚跡

日本橋から110里目大野の一里塚跡は頓宮御殿跡から暫く行った所にあった。

 生垣の後に石柱の頭が見えていたので覗いてみると「従是東淀領」と刻まれた領界石だった。いくら土地感の無い私でも、ここが京ではないことは分る。きっと淀藩の飛び地だったのだろう。

 屋号を掲げた家が出はじめた。東海道を歩いていると屋号を掲げた宿場が多いのに気がつく。お金も余りかからず手軽なので真似するのだろうが、一つ注文がある。
例えば「伊勢屋」の表示があっても、これでは何を商っていたのか分らない。出来たら「油屋(伊勢屋)」としてくれれば興味はもっと増すのだが。

     

 写真は明治天皇の立寄り地の記念碑ですが、その左にある小さな石碑には「旅籠 小幡屋跡」となったいた。明治天皇がこの小幡屋で休憩を取ったとある。
旅籠があったなら水口宿は近い。気がつかなかったが既に水口宿に入ったらしい。この分だ終電前の電車にも充分間に合いそうだ。
しかし予想に反して水口宿は中々出てこない。途中の屋号には旅籠は何軒もあったのに何故だろう。
江戸時代の東海道の宿は宿場内だけで、間の宿を含めて宿場外では営業できないはずだ。ならここは水口宿のはずだ。

 少しイライラしてきた。旅籠跡はあるが一向に宿場の町並みが出てこない。交差点の手前に石碑と大きな常夜灯が立っている。石碑には「東海道土山 今宿」となっていた。
ナニ!土山?一体ここは土山なのか水口なのか。しかも今宿とは何だ。
イライラしたまま合流した1号線の先を見ると、右側には白線を引いた歩道があるが左にはない。それならそのまま右側を進もうと、1号線を直進した。だが白線の歩道はすぐ先の橋の手前でなくなってしまった。幸い右に下りる細い道があり、その先は1号線に沿って先に延びているようなので、その道を下りる。1号線と田圃の間の道を進むが街道マップにはある民家は無い。丁度稲刈りをしていた家族が居たので聞いてみた。
「この辺りに浄土寺というお寺はありませんか?」「一里塚が知りませんか」と聞くが分らない。
「今郷公民館は分りますか」と聞いてやっと答えが返ってきた。
「あーそれなら、この1号線を越した南側になるから次のガードを潜ればいい」と教えてくれた。
そこでもう一度街道マップを見直すと完全に私が感違いしていた事に気付いた。地図には先ほどの交差点の所に「横断歩道で左の道に移る」と書いてあった。それを無視してしまったのだから。
イライラしたお陰で随分遠回りをしてしまった。
やっと東海道に戻ったが今在家の一里塚はとっくに通り過ぎていた。これから戻るか?でもこの調子だと水口宿に何時着くか分らない。諦めよう。折角復元されている一里塚なのに残念だが。
しかし旅籠が何軒もあったのは何故だろう。江戸から遠く離れたこの辺りに来ると江戸幕府の威光は薄れてしまうのか?

      
      水口宿東見付

 17時水口宿東見付に到着。電車は17時20分と最終の17時56分の2本だが最終には何と間に合うだろう。

     
      水口宿 この辺りに本陣跡が
 
 この辺りに本陣跡があるはずだが探している余裕は無い。次回歩く時もう一度戻って紹介しますので今回は写真だけ。

     
     東の三叉路 高札場跡

 水口宿は宿場内が三筋の道に分かれている。今日は少しでも早くと中の道を直進した。特に見るものなく駅を目指して進む。途中にからくりをあしらった時計台があるところを見ると、ここはからくり人形が盛んだったのか、次回は事前に調べておこう。

 17時15分近江鉄道の水口石橋駅に到着。プレハブの小さな無人駅で当然売店も無かった。今回も乾杯は見送りだ。今日は最後の青春18切符だったので飲みたかったのにな。

     
      水口石橋駅

 次回の東海道はまた青春18切符が売り出された歩き出そう。それまで東海道とはお別れだ。