はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道8回目-2

2011-09-14 14:04:48 | ウォーキング
             宮宿へ(七里の渡し)

     

鳴海宿 ― 笠寺一里塚 ― 笠寺観音 ― 伝馬町一里塚 ―
 10:00     10:30       10:50       11:40

宮宿 ― 七里の渡し
11:45    11:55

 鳴海を過ぎて道にも迷わず快調に進む。歩道にある東海道の絵は前方からは見ることが出来ないので、道しるべの役には余りならないが安心材料にはなる。と思っていたら太い通りに斜めに合流した。交差点の名前は「三王山」になっていて、太い通りの前方の道は今まで歩いてきた道とは角度が違う。では太い道を進むのか? 車両用の案内板はあるが熱田とか神宮の表示はない。
道を横断して東海道の絵を確認すればよいのだが、それも面倒だ。タイミングよく歩行者が来たので聞いてみた。すると
「旧東海道の道は分らないが、この太い道は東海通りと呼んでいる」東海通り?分らない、では
「熱田神宮に行く道はどっちですか?」と聞くと
「どっちの道でも行けますよ」ときた。こりゃあ駄目だ。
諦めて道を横切り前方の角度の違う道に行くと、有りました。有りました。東海道の絵が歩道にありました。
こんな事なら悩まずに道を渡れば良いのにと思うでしょが、それが中々面倒に感じるのですよね。


     
      笠寺一里塚

 右にカーブした道を曲ると前方に大きな木が見えてきた。そろそろ一里塚があっても良さそうだと思っていたが案の定一里塚だった。案内板には日本橋から88里目の一里塚で、名古屋市内で唯一残っている一里塚とあった。

 この辺りが笠寺なら笠寺観音もあるのかなと注意しながら進んでいくと、右側に堀のあるお寺があった。笠寺観音?いや違うようだ。更に道を進むと、今度は左側に寺の名前なのか「玉照姫」と彫った石碑のある。これも笠寺観音ではない。

     
      笠寺の西方院

 次の角にまた寺がある。覗き込んで見ると今度は間違いなく笠寺観音だった。
後で調べてみると、最初の堀のあった寺は、笠覆寺(りゅうふくじ)と言い、笠寺観音の正式な名称でこちらが山門だった。
次にあった玉照姫は観音様が野晒しになっているのを見て、近くに住んでいた長者の下女が哀れに思い笠を被せてやった(まるで六地蔵)下女を祀った寺。最後が観音さんを祀ってある笠覆寺の裏門?のようだ。

     
      笠寺観音

 ところでこの結構有名な笠寺観音のご利益なんだろう?調べてみたが良く分からなかった。
野晒しになっていたお地蔵さんに笠をかぶせてやった女性は下女だったが、その行為を見た貴族に見初められ妻となり、名前を玉照姫と名乗ったとある。
それでは笠寺観音は玉の輿のご利益のある観音様なのだろうか。

名古屋市の中心に近づいたようで地下鉄の駅が現れだした。正面の道は国道1号線で空港の案内も表示されている。
大きな交差点は横断歩道がなく歩道橋になっているのでいやだが、ここ松田橋交差点も長い歩道橋になっていた。
歩道橋を渡ると、その下に石碑と案内板がある。

     
      八丁畷の案内板

そこには「八丁畷(なわて)と松田橋」の説明があり、この辺りは
「田と田の間を通っていた八丁畷といわれていた。北から南に横断していた用水に架けられていたのが松田橋である」とあり、松田橋の親柱を展示してあった。
今、渡った歩道橋には名古屋市瑞穂区と書いてあるが、昔はこの辺りは瑞々しい稲穂の実る田園地帯だったのだろう。
そういえば浜松宿と舞阪宿の間にも八丁畷の地名があった。確か長い直線でうんざりした思いがあるが、ここも直線の道が続いている。だが歩道橋やビルが視線を遮り余り長くは感じなかった。

 前方の道は高架になるのか徐々に上がっている。その道の左右にも道はある。さてどちらの道を行けば良いのか。
また上った歩道橋の上で前方を覗き込むようにして確かめるが良く分らない。エイ!こうなれば山勘で行くしかない、と歩道橋を渡って左側に出る。ピンポン!正解でした。熱田橋という橋が架かっていました。もう熱田神宮は近いだろう。

 橋から直に名鉄の高架を潜った所に宮地区の案内板があった。それによると一里塚はこの案内板の近くにあるようだ。だが見当たらない。他の姥堂や裁断橋跡、都々逸発症の石碑はあるのに一里塚だけは見当たらなかった。
 あとで考えてみると、この案内板の後が花壇になっていたが、それが一里塚跡だったのだろう。

 姥堂とは死人の衣服を剥ぎ取る強欲な老婆が、死んだ僧の服を剥ぎ取ったため狂い死にをしてしまった。その老婆の霊を鎮めるため堂を建てたとある。
ヘーそんなあくどい老婆のために堂宇を建てるとは信じられない。他にも理由があるのではないか?

 裁断橋は秀吉の小田原攻に従軍し戦死した我子の供養のため橋を架けたという。でも何故裁断橋というのかは分らなかった。

     
     姥堂、裁断橋、都々逸発祥の地

 都々逸はここ尾張熱田のコーチンの鳥飯屋で歌ったのが発祥だとか。私には考えられないな、酒も無いのに歌を歌うなど。
尤も鳥飯屋だって酒は飲めただろうが。

そうそうこんな都々逸がありました。
「この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい」
まさに気の弱く、酒好きな私にピッタリの都々逸です。

     
      焙烙地蔵

 姥堂から注意深く歩いた積りなのに本陣や脇本陣は見当たらないまま焙烙(ほうろく)地蔵に着いてしまった。右奥を見ると森と鳥居の一部岸が見える。
あれは熱田神宮なのだろうから宮宿のメイン通りは既に終りで、後は七里の渡しに行くだけだ。
今更戻って本陣跡を確認するのも馬鹿らしい止めにしよう。

 そうそう焙烙地蔵とは、焙烙(素焼きの鍋)を商う聖人が、肩に担ぐ天秤のバランスを取るため持ってきた河原の石を捨てたところ、それが地蔵様だったという話だ。

 太い通りの歩道橋を渡ると白塀の所に何人もかの人が立っている。ガードマンも出ているようだ。何だろう?
好奇心の強い私は早速立っている人に聞いてみると「ひつまぶし」の蓬莱軒だと教えてくれた。

     
      ひつまぶしの蓬莱軒(本陣跡)

ひつまぶしとは細かく切った鰻をご飯と混ぜ、お櫃に入れる料理くらいの知識はある。でもそれは関西方面の食べ方で名古屋が名物とは知らなかった。
でも折角の鰻を細かく切ってしまうなど、私の発想にはない食べ方だ。
(後日宮宿を調べていると、この鰻屋が本陣跡だと分った。何か書いてあったかな?)

 遂に七里の渡しに着いた。地図の無い歩きで道こそ間違えなかったが、途中の見所は随分見落としてしまっただろう。次回からは準備の時充分注意しなければ。

     
      七里の渡しの時の鐘

 七里の渡し公園には時の鐘や常夜灯が復元されていた。
時の鐘は大井川の川越の時の鐘のように一番舟と終い舟のとき鐘を打ったのだろうか。
また常夜灯は霧や曇ったときは灯台の役割もしたのだろう。

 七里の渡し公園の近くは埋め立ててが進んで、海はズート後退してしまっている。そのため海上の渡しといっても川の渡しのように見える。
今も渡しの乗り場ははあるが渡し船は運行していないようだった。1日中歩いてもすれ違う旅人は一組居るか居ないかの状態では、余りにも採算が合わないのだろう。

     
      七里の渡しの常夜灯

 江戸時代の旅人は、ここから約4時間の七里の船旅で桑名宿に渡ったという。渡しの無い現在の旅人の私は、これから佐屋街道を陸路で桑名を目指すことになる。

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