風邪で体調を崩しているとき、あの地震に遭遇した。
当地では揺れは大した事はなく、揺れる時間が長く感じた程度だった。
TVをつけると静岡県にも津波注意報が出ていたが、例により大袈裟情報だろうと
思ってしまった。
それがTVを見ていると段々被害の情報が伝えられてきた。静岡県の警報も格上げ
され津波警報に変わった。
更にTVは深刻な映像を流し始めた。車が走っている所に津波が押し寄せてきた。
あの車には人が乗っているのに!何故すぐ逃げなかったのだ!
静岡県の警報は更に大津波警報に格上げされた。
心身ともに快調とはいえない日が続き、ブログも街道歩きもやる気が起きなかった。
あれから半月余り経った。咳も治まり体調も元に戻った。
何時までもダラダラしていても、どうなるわけではない。
今週から元の生活に戻ろう。
---------------------------------------------------------------------------
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-6 2011/2/22
蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
6:30 6:50 8:05 9:20 10:35 11:40 13:25
1.8k 6.7k 11.4k 17.1k 20.8k 29.4k
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
14:00 15:03 16:00 16:50 18:30 19:00
32.2k 36.3k 41.5k 44.9k 51.0k 54.0k
岡部宿へ(宇津ノ谷)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/4f/ab93a2e29426086d81d272fd4018d619.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/59/1c78ea8a533af7902baf0c5c47a89a90.jpg)
国道横の爪先上がりの歩道をただただ歩く。こんな道が一番詰まらないがあと少し辛抱
すれば、今日唯一の山道のある宇津ノ谷峠は近い。
前方にトンネルが二つ見えてきた。これは国道1号の宇津ノ谷トンネルで、上り線と下り
線に分れている。宇津ノ谷には4つのトンネルがあり、明治、大正、昭和、平成トンネルと
呼ばれていて、写真の右が昭和トンネルで左が平成トンネルになる。
更に宇津ノ谷を越えるのには2本の峠道がある。1本は平安時代の蔦の細道。あと1本は
江戸時代の宇津ノ谷峠越えの道になる。今日は当然宇津ノ谷峠を歩くことになる。
トンネル手前の歩道橋を渡って集落に向かうと、道が分岐している場所に出た。
右は大正トンネルに向かう道で、左が宇津ノ谷集落を通る東海道になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/8e/5804f90d342a783614b3af263a948b47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/2e/d96490e6704f113fd4e4775b0d44f10f.jpg)
宇津ノ谷集落は丸子宿と岡部宿の間にある間の宿だったところで、狭い街道の両側には屋号
を書いた看板が下がっていた。中でも目を引いたのは「お羽織屋」の看板で、これはこの家
の先祖が豊臣秀吉の小田原征伐の際、機知の効いた返答をした褒美に秀吉から羽織を与えら
れたことによる。その羽織は今でもこの家に伝わり有料で見ることが出来るそうだ。
集落の道はインターロッキングと言うのだろうか、レンガ状のブロックを引き詰めてある。
傾斜がきつい所は道の真中だけ階段にしてあり、これなら車も通れて便利だろう。
老人が縁側に腰掛けこちらを見ている。挨拶をした後、気になっていた道の事を聞いてみた。
「この道は元は石畳だったのですか?」
「石畳と言うほど大げさじゃなかったが、入口からトンネルまでの間に9ヶ所平らな石を
敷いてあったな。平だから馬力もカタンカタン音はするけど支障なく通れたし、土留めの
役もしていた。昔の人の知恵だな。今の道は国から予算が出て県が造ったのだが、住民は
綺麗で水捌けもいいから暮しやすくなったが、あんたら街道を歩くもんには味気ない道に
なってしまった。工事のとき1ヶ所か2ヶ所石畳を残すように言ったが駄目だった。」
そのあと少し県の役人の悪口が入り、更にこんな話もしてくれた。
「あんたは国道の排気塔がどこにあるか知ってるかね?」
「エー知ってます。トンネルの上の山の頂上にありました」
「そう、あれも県の土木の奴らは、この山の中腹に作る予定だったんだ。ここからすぐそ
こだから排気ガスが年柄年中、の中に漂ってしまう。ここは小さい盆地で風通しが悪
いから、たまったもんじゃない。俺達に一生排気ガスを吸えって事だ」段々興奮してきた。
「土木部長にそう言ってやったら、ここは東の風が多いから山頂に排気塔を建てると、
今度は岡部の人が排気ガスを吸うことになる。と抜かしやがった。馬鹿言え岡部はここと
違って広いから排気ガスは拡散してしまうと言ってやったら、もう何も言えなくなってさ、
お陰で排気塔は山頂に建ったが、金が何億だか余計に掛かって土木部長は左遷させられて
しまったよ」
聞いていると面白く、もっと色々な話を聞きたかったが時間が気になる。仕方ない出発す
るか。ただ山頂の排気塔への取付け道路ができたため、岡部側の旧東海道の一部が消えて
しまってはいるが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a8/51826540244de218127f8f960bc4260c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/3c/51a5cac91a7e88cafc9b903420407c75.jpg)
集落からの坂を登りきって出合った道を、右に行けば東海道の宇津ノ谷峠に、左は明治ト
ンネルに続いている。
明治トンネルは明治9(1877)年に日本発の有料トンネルとして開通した。長さは203mと
長くはないがトンネルの中には照明も付いていて、中々風情がある。
どちらかと言えば伊豆の天城トンネルの小型版と言った感じのトンネルだ。
そうそうこのトンネル、岡部側と宇津ノ谷側から掘り出したのはいいが、少し食い違って
しまい、開通した時は「く」の字の状態だったそうです。
当時の測量技術では仕方なかったとも言えるが、箱根芦ノ湖にある深良用水はそれより
200年も前に完成し、長さも1280mあった。だが殆ど食い違わなかった言われている。
その違いは何だろう。
分岐点から明治トンネルまでは20mもない位です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/01/8c4b072d659c08a0ad77435ebb219187.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/f7/a45106de10bc4459a52ac9f464ca0304.jpg)
チャチナ標識の入口から宇津ノ谷の峠道は始まる。
今まで宇津ノ谷峠が難所なら、いたる所が難所になってしまう思っていた。
だが既に40km以上歩いている足には中々きついものがあった。まだかまだかと峠に着く
のが待ちどうしかった。やっと峠に到着。景観も何もない淋しい峠だ。
この細い峠道を大名行列が通ったのだから、当時はもっと広かったのだろう。
地形から見て峠はここにしか出来そうもない。となると現在の峠は両側の山から土砂が
崩れてきて狭くなったのか?
宇津ノ谷の「うつ」とは渓谷を意味している言葉と言うが、どこを指しているのだろう。
それらしき物はどこにも無い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/61/fa4dc14e8d5894b1e347f346328f7602.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/fd/e999bfd0ec2751c0f6f885a60b7b1f56.jpg)
先にも書いたが宇津ノ谷は鎌倉時代以前は宇津ノ谷峠でなく、ここより南側の蔦の細道と
言われている峠を越えていた。しかし標高の高い蔦の細道は道も細く大変だったので、
当時集落と集落を結んでいた小路を改修して東海道とした。
更に前の奈良時代は、ここよりズート南の海に近いやきつべの道から日本坂峠を越えて
安倍川に出ていた。しかし日本坂峠は蔦の細道より標高が高い難所だったため、こちらに
移ってきた経緯がある。勿論道だけの条件ではなく、宿場の位置も移った条件に入るだろ
うが、昔だって今だって歩きにくいのは嫌に決まっている。歩き易い道に移るのは当然だ。
写真の左は宇津ノ谷峠への道で、右は蔦の細道に行く道の分岐点です。
蔦の細道で思い出すは、伊勢物語の中で在原業平が詠んだ
『駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に 逢わぬなりけり』です。
この歌の中の「うつ」が宇津ノ谷の語源とか。そして「うつ」とは渓谷を意味していた言葉
らしい。ならば蔦の細道には渓谷があるかというと----
残念ながらありません。ただ峠道が合流した地点は蔦の細道公園として整備されていて、
そこを流れている小川があったけど。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/56/7c8d049dc26b1993acdc03e33a0f059d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/29/585d682c6d40189e3b8e91db88466bac.jpg)
岡部の宿にやっと入った。左側の大きな古風な建物が大旅籠柏屋だ。ここは一般公開され
ていて資料館は有料だが他は無料なので、いつもはここで休んで無料のお茶を貰っていた。
だが今日は既に閉まっていたのでそのまま通過し、大旅籠の先の本陣跡の標識のある公園
で一休みをした。辺りは少しづく暗さを増してきている。急がなければ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/82/91f83b9dc80e1b043d8708368a80f8f5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/86/ffb8de63cb74fc62ba0c417d61e8571c.jpg)
旧国道と別れ街道に入る。特に何があるわけではない家並みが続いた先の、小さな側溝の
ような川の橋に案内板があった。
そこには「小野小町姿見の橋」となっていて、小野小町が晩年東国に下る途中、この川に
姿を映して老いの身を嘆き悲しんだと説明してある。
小田原からここまで歩いてきたが、こんな史跡(?)は初めてだ。新しい橋に、姿など映り
そうもない川。そんな物からも千年以上前の人の立ち止った場所が分かるとは、岡部の
人は素晴らしい洞察力の持ち主だ。
右の古くて新しそうな家はサッカーの中山ゴン選手の実家です。
建物は最近の物だそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/50/cd5539b2a3461aab30cad0ea8b37a199.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/6e/2cd9c380c4b8fa77a040a0a147dd9f8d.jpg)
枡形を右に出た旧国1は、電線の地中化を図った広い道で空が広く感じる。
ただ清々はしているが宿場町としてはどうだろうか。広い道で左右の家並みが分断され
行き来が出来なくなってしまっている。これでは観光客はそぞろ歩きをする気も起きない。
観光客誘致のためにお金を使うなら、旧街道の狭い町並みに手を加えて方のが良かった。
と思いたくなる。
観光案内所の場所が御智如来公園になっている。トイレはと探すと鍵か掛かっていて中に
入れない。時間を見ると17時5分。案内所が5時までなのでトイレも5時で終了のようだ。
せめてトイレだけは何時でも入れると助かるのだが。
そうそう文句ばかりでなく五智如来の説明をしなければ。
五智如来とは釈迦、阿閦(あしゅく)、阿弥陀、大日、宝生の五人の如来様の事で、この如来
を五体纏めて祀るのが五智如来らしい。ようは五体纏めてあれば、色々なお願いが一ヶ所で
済んでしまう、誠に便利は仏様のようだ。私も今日の無事をお祈りしよう。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/88/a3442be668c72c41ce236ff8723e781a.jpg)
ここの松並木は綺麗に整備されていたが何か風情が無い。街道と言うより公園の趣が強い。
宇津ノ谷で聞いた話ではないが、国か県の予選が付いたので、慌てて計画を立て綺麗にする
事が主眼になってしまったのではないか。
当地では揺れは大した事はなく、揺れる時間が長く感じた程度だった。
TVをつけると静岡県にも津波注意報が出ていたが、例により大袈裟情報だろうと
思ってしまった。
それがTVを見ていると段々被害の情報が伝えられてきた。静岡県の警報も格上げ
され津波警報に変わった。
更にTVは深刻な映像を流し始めた。車が走っている所に津波が押し寄せてきた。
あの車には人が乗っているのに!何故すぐ逃げなかったのだ!
静岡県の警報は更に大津波警報に格上げされた。
心身ともに快調とはいえない日が続き、ブログも街道歩きもやる気が起きなかった。
あれから半月余り経った。咳も治まり体調も元に戻った。
何時までもダラダラしていても、どうなるわけではない。
今週から元の生活に戻ろう。
---------------------------------------------------------------------------
駅からウォーク 「静岡の東海道」3回目-6 2011/2/22
蒲原駅 ― 由比宿 ― 薩埵峠 ― 興津宿 ― 江尻宿 ― 草薙一里塚 ― 府中宿
6:30 6:50 8:05 9:20 10:35 11:40 13:25
1.8k 6.7k 11.4k 17.1k 20.8k 29.4k
― 安倍川 ― 丸子宿 ― 宇津ノ谷峠 ― 岡部宿 ― 藤枝宿 ― 藤枝駅
14:00 15:03 16:00 16:50 18:30 19:00
32.2k 36.3k 41.5k 44.9k 51.0k 54.0k
岡部宿へ(宇津ノ谷)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/4f/ab93a2e29426086d81d272fd4018d619.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/59/1c78ea8a533af7902baf0c5c47a89a90.jpg)
国道横の爪先上がりの歩道をただただ歩く。こんな道が一番詰まらないがあと少し辛抱
すれば、今日唯一の山道のある宇津ノ谷峠は近い。
前方にトンネルが二つ見えてきた。これは国道1号の宇津ノ谷トンネルで、上り線と下り
線に分れている。宇津ノ谷には4つのトンネルがあり、明治、大正、昭和、平成トンネルと
呼ばれていて、写真の右が昭和トンネルで左が平成トンネルになる。
更に宇津ノ谷を越えるのには2本の峠道がある。1本は平安時代の蔦の細道。あと1本は
江戸時代の宇津ノ谷峠越えの道になる。今日は当然宇津ノ谷峠を歩くことになる。
トンネル手前の歩道橋を渡って集落に向かうと、道が分岐している場所に出た。
右は大正トンネルに向かう道で、左が宇津ノ谷集落を通る東海道になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/8e/5804f90d342a783614b3af263a948b47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/2e/d96490e6704f113fd4e4775b0d44f10f.jpg)
宇津ノ谷集落は丸子宿と岡部宿の間にある間の宿だったところで、狭い街道の両側には屋号
を書いた看板が下がっていた。中でも目を引いたのは「お羽織屋」の看板で、これはこの家
の先祖が豊臣秀吉の小田原征伐の際、機知の効いた返答をした褒美に秀吉から羽織を与えら
れたことによる。その羽織は今でもこの家に伝わり有料で見ることが出来るそうだ。
集落の道はインターロッキングと言うのだろうか、レンガ状のブロックを引き詰めてある。
傾斜がきつい所は道の真中だけ階段にしてあり、これなら車も通れて便利だろう。
老人が縁側に腰掛けこちらを見ている。挨拶をした後、気になっていた道の事を聞いてみた。
「この道は元は石畳だったのですか?」
「石畳と言うほど大げさじゃなかったが、入口からトンネルまでの間に9ヶ所平らな石を
敷いてあったな。平だから馬力もカタンカタン音はするけど支障なく通れたし、土留めの
役もしていた。昔の人の知恵だな。今の道は国から予算が出て県が造ったのだが、住民は
綺麗で水捌けもいいから暮しやすくなったが、あんたら街道を歩くもんには味気ない道に
なってしまった。工事のとき1ヶ所か2ヶ所石畳を残すように言ったが駄目だった。」
そのあと少し県の役人の悪口が入り、更にこんな話もしてくれた。
「あんたは国道の排気塔がどこにあるか知ってるかね?」
「エー知ってます。トンネルの上の山の頂上にありました」
「そう、あれも県の土木の奴らは、この山の中腹に作る予定だったんだ。ここからすぐそ
こだから排気ガスが年柄年中、の中に漂ってしまう。ここは小さい盆地で風通しが悪
いから、たまったもんじゃない。俺達に一生排気ガスを吸えって事だ」段々興奮してきた。
「土木部長にそう言ってやったら、ここは東の風が多いから山頂に排気塔を建てると、
今度は岡部の人が排気ガスを吸うことになる。と抜かしやがった。馬鹿言え岡部はここと
違って広いから排気ガスは拡散してしまうと言ってやったら、もう何も言えなくなってさ、
お陰で排気塔は山頂に建ったが、金が何億だか余計に掛かって土木部長は左遷させられて
しまったよ」
聞いていると面白く、もっと色々な話を聞きたかったが時間が気になる。仕方ない出発す
るか。ただ山頂の排気塔への取付け道路ができたため、岡部側の旧東海道の一部が消えて
しまってはいるが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a8/51826540244de218127f8f960bc4260c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/3c/51a5cac91a7e88cafc9b903420407c75.jpg)
集落からの坂を登りきって出合った道を、右に行けば東海道の宇津ノ谷峠に、左は明治ト
ンネルに続いている。
明治トンネルは明治9(1877)年に日本発の有料トンネルとして開通した。長さは203mと
長くはないがトンネルの中には照明も付いていて、中々風情がある。
どちらかと言えば伊豆の天城トンネルの小型版と言った感じのトンネルだ。
そうそうこのトンネル、岡部側と宇津ノ谷側から掘り出したのはいいが、少し食い違って
しまい、開通した時は「く」の字の状態だったそうです。
当時の測量技術では仕方なかったとも言えるが、箱根芦ノ湖にある深良用水はそれより
200年も前に完成し、長さも1280mあった。だが殆ど食い違わなかった言われている。
その違いは何だろう。
分岐点から明治トンネルまでは20mもない位です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/01/8c4b072d659c08a0ad77435ebb219187.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/f7/a45106de10bc4459a52ac9f464ca0304.jpg)
チャチナ標識の入口から宇津ノ谷の峠道は始まる。
今まで宇津ノ谷峠が難所なら、いたる所が難所になってしまう思っていた。
だが既に40km以上歩いている足には中々きついものがあった。まだかまだかと峠に着く
のが待ちどうしかった。やっと峠に到着。景観も何もない淋しい峠だ。
この細い峠道を大名行列が通ったのだから、当時はもっと広かったのだろう。
地形から見て峠はここにしか出来そうもない。となると現在の峠は両側の山から土砂が
崩れてきて狭くなったのか?
宇津ノ谷の「うつ」とは渓谷を意味している言葉と言うが、どこを指しているのだろう。
それらしき物はどこにも無い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/61/fa4dc14e8d5894b1e347f346328f7602.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/fd/e999bfd0ec2751c0f6f885a60b7b1f56.jpg)
先にも書いたが宇津ノ谷は鎌倉時代以前は宇津ノ谷峠でなく、ここより南側の蔦の細道と
言われている峠を越えていた。しかし標高の高い蔦の細道は道も細く大変だったので、
当時集落と集落を結んでいた小路を改修して東海道とした。
更に前の奈良時代は、ここよりズート南の海に近いやきつべの道から日本坂峠を越えて
安倍川に出ていた。しかし日本坂峠は蔦の細道より標高が高い難所だったため、こちらに
移ってきた経緯がある。勿論道だけの条件ではなく、宿場の位置も移った条件に入るだろ
うが、昔だって今だって歩きにくいのは嫌に決まっている。歩き易い道に移るのは当然だ。
写真の左は宇津ノ谷峠への道で、右は蔦の細道に行く道の分岐点です。
蔦の細道で思い出すは、伊勢物語の中で在原業平が詠んだ
『駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に 逢わぬなりけり』です。
この歌の中の「うつ」が宇津ノ谷の語源とか。そして「うつ」とは渓谷を意味していた言葉
らしい。ならば蔦の細道には渓谷があるかというと----
残念ながらありません。ただ峠道が合流した地点は蔦の細道公園として整備されていて、
そこを流れている小川があったけど。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/56/7c8d049dc26b1993acdc03e33a0f059d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/29/585d682c6d40189e3b8e91db88466bac.jpg)
岡部の宿にやっと入った。左側の大きな古風な建物が大旅籠柏屋だ。ここは一般公開され
ていて資料館は有料だが他は無料なので、いつもはここで休んで無料のお茶を貰っていた。
だが今日は既に閉まっていたのでそのまま通過し、大旅籠の先の本陣跡の標識のある公園
で一休みをした。辺りは少しづく暗さを増してきている。急がなければ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/82/91f83b9dc80e1b043d8708368a80f8f5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/86/ffb8de63cb74fc62ba0c417d61e8571c.jpg)
旧国道と別れ街道に入る。特に何があるわけではない家並みが続いた先の、小さな側溝の
ような川の橋に案内板があった。
そこには「小野小町姿見の橋」となっていて、小野小町が晩年東国に下る途中、この川に
姿を映して老いの身を嘆き悲しんだと説明してある。
小田原からここまで歩いてきたが、こんな史跡(?)は初めてだ。新しい橋に、姿など映り
そうもない川。そんな物からも千年以上前の人の立ち止った場所が分かるとは、岡部の
人は素晴らしい洞察力の持ち主だ。
右の古くて新しそうな家はサッカーの中山ゴン選手の実家です。
建物は最近の物だそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/50/cd5539b2a3461aab30cad0ea8b37a199.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/6e/2cd9c380c4b8fa77a040a0a147dd9f8d.jpg)
枡形を右に出た旧国1は、電線の地中化を図った広い道で空が広く感じる。
ただ清々はしているが宿場町としてはどうだろうか。広い道で左右の家並みが分断され
行き来が出来なくなってしまっている。これでは観光客はそぞろ歩きをする気も起きない。
観光客誘致のためにお金を使うなら、旧街道の狭い町並みに手を加えて方のが良かった。
と思いたくなる。
観光案内所の場所が御智如来公園になっている。トイレはと探すと鍵か掛かっていて中に
入れない。時間を見ると17時5分。案内所が5時までなのでトイレも5時で終了のようだ。
せめてトイレだけは何時でも入れると助かるのだが。
そうそう文句ばかりでなく五智如来の説明をしなければ。
五智如来とは釈迦、阿閦(あしゅく)、阿弥陀、大日、宝生の五人の如来様の事で、この如来
を五体纏めて祀るのが五智如来らしい。ようは五体纏めてあれば、色々なお願いが一ヶ所で
済んでしまう、誠に便利は仏様のようだ。私も今日の無事をお祈りしよう。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/88/a3442be668c72c41ce236ff8723e781a.jpg)
ここの松並木は綺麗に整備されていたが何か風情が無い。街道と言うより公園の趣が強い。
宇津ノ谷で聞いた話ではないが、国か県の予選が付いたので、慌てて計画を立て綺麗にする
事が主眼になってしまったのではないか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます