はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:掛川3城巡り(掛川城)

2018-01-23 10:37:27 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停
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                                      掛川3城概略図
               

  大井川の河川敷を歩いているときラジオで 「掛川三城物語展を大須賀図書館で開催中です。」 と案内していたのを聞き
早速調べてみると、掛川三城とは掛川城と高天神城と横須賀城の事らく、展示会ではジオラマなどで詳しく案内しているようだ。
最近私は山城跡を巡っていて、旧大東町に属する高天神城と横須賀城と、それに小笠山砦とで “大東城址巡り” を歩こうと
思っていたので、それらの城跡を巡りながら展示かも覗いて見れる丁度良い機会だとコースの検討を始めた。

  掛川城から小笠山を経て高天神、横須賀に出るコースは過去3度歩こう会で歩いていたが、その時のコースは横須賀から
更に法多山に抜けてエコパから掛川城に戻る40kmを越すコースだった。
その時はただ早く遠くに歩くのが目的で、掛川城も高天神城も横断しただけだし、横須賀城に至っては城の下の道を歩いただけ
だった。勿論案内板を読む余裕もなく写真すら写す事ができないので、タイムなどは今回の観歩の参考にはならない。
それに今の私の足では横須賀まで歩けるか不安なのだから横須賀からの帰りはバスを利用するしかない。
なら、帰りは当然バスだと思い、先ず横須賀から掛川への帰りのバスの時間を調べてみた。
最初は横須賀が掛川市なので掛川駅からのバスを調べたが、そんな路線は見つからない。市役所の自主運行バスも調べて
みたが見つからないので、次は隣の袋井駅からも調べてみたが矢張りない。
しかしマピオンの地図にはバス停は表示されていて、横須賀城趾近くには西田町と七軒町の2ヶ所がはっきり出ている。
これなら多分バスはあると思うのだが、内心は心配で普段は持ち歩かない万札を懐に忍ばせることにした。
道はほぼ分かっている積りなので前日にネットで確認するだけで充分だろう。

                           掛川駅から富士見霊園下までの概略図
              

 此の辺りの道は “勝手知ったる他人の家” で適当に歩いても目的地には辿り着けます。

 
               掛川城周辺                                掛川城のジオラマ

  どうせお城に行くのなら大手門から入ろうと、駅前からの道を旧東海道を一区画東に戻り大手門に行く。
折角大手門を再現するのなら城の入口正面に再建すれば良いのにと思ったら、近くにあった番所の案内板に 「本来の大手門の
位置より北に50mの位置に再現した」
書いてある。
なら今曲ってきた信号の辺りにあったのだろう。でも本当かな? 大手門が城の正面にあれば、城が威風堂々と見えるのに・・・・・
なんてその時は思っていた。だが “掛川三城展” のジオラマを見て納得した。
ジオラマは南北を逆に写してしまったので見にくいが、このジオラマを見れば大手門の位置が納得できた。
天守正面の大手門では、敵が攻めてきた時の勢いを、そのまま弱める事も無く城内に向かわせてしまう。
それを枡形上の位置にすれば敵の勢いを少しでも弱める事ができるだろう。江戸時代の城下町でよく見かける “枡形” がここでも
利用していたのだろう。

 
               掛川城大手門                                    油山寺山門

  中々どっしりした大手門だがどこかで見た事があると思ったがすぐに思い出した。それはそうです昨年までは毎年初詣で歩いていた
遠州三山の油山寺の山門です。
油山寺の山門の案内には 「油山寺に保管されている棟札に “掛川城御玄関前二之門” とあります。」 と書かれ県の重要文化財に
指定されたいた。では、ここにある大手門はと、案内板を探したが見当たらない。と、いう事は・・・・
それにしても “玄関前二之門” の二之門とは何だろう? 一之門はどうなったのだろう? 新しい疑問が湧いてしまった。

 
                MHの掛川城                                    掛川城

  掛川のMHの蓋の絵柄は当然掛川城だが、その蓋に似た場所は大手門を出て逆川に掛かる橋の上にあった。
どうですか似ているでしょう。

 
               三日月堀                                  十露盤堀(そろばんぼり)

  三日月堀と聞くと武田流築城法だと思ってしまうが、掛川城は武田軍が入った事はない。案内板には
 「本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mありました。」 とあるが当然武田の事は書いてない。
大体建物の周りに堀を作るとなれば、角形か丸型になるのは当り前なのだから、武田に関係ない城にも三日月型の堀があっても
何の不思議もない事だ。

  三日月堀の上には 「十露盤堀(そろばんぼり)」 があったがその間は狭く、丸馬出のように馬や兵士が整列する場所はない。
しかしここに弓部隊を配置すれば三日月堀から攻めてくる敵を狙い撃ちできるだろう。そして不利になったら本丸に逃げ込んで、
今度は上から三日月堀を制覇し十露盤堀を攻めてくる敵に立ち向かう事ができる。
それにしても十露盤堀と良く言ったもので、角ばった堀の底の岩盤がそろばんの玉に見えない事もない。案内板には
 「本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見える
ことが、その由来と考えられます。」
とあった。 エッ! 私は水の無い岩盤がそろばんの玉に見えたのに・・・・・・

それにしてもここに岩盤があるという事は掛川城は岩盤の上にあるのでしょうか?

 
                  掛川城                                    掛川城

  掛川城も御殿も開園は9時からなのでまだ開いていません。尤も開いていても先ず入場料を払って入る事はないでしょうが。
山城巡りをしている私には掛川城のような立派な城は手に負えません。ただ掛川城は今川氏親の命により築城され、孫の氏真が
武田の駿河侵攻で逃げ込んだ城で、歴史的事実には興味はあります。

  掛川城の写真を撮っていた時は気づかなかったが、掛川城は石垣が無いのですよね。その事に気づいたの横須賀城の石垣を
見ているときです。山城では石垣は無いのは当り前なので何も気づかず通り過ぎてしまいました。
でも天守閣は山之内一豊が城主の時に完成したのだから、石垣が有っても良さそうなものだが?

  ところで掛川城は平城か、それとも平山城なのか?
大崩山塊の城廻りで納得した平山城の定義は 「近くの平らな部分から標高100m以上であるか否かを基準にする。」 だったが、
掛川城の天守閣の標高は35m程度なのでとても100mにはならない。
では平城かと言えば高台に聳える天守を見ると、そうも言いずらい。因みにネットでは平山城に分類してあるものが多かった。
仕方ない私も掛川城は平山城にしておこう。

        
         掛川東高校の案内標識                          ハイキングコース入口

  掛川城を早々に退散して街中を通り小笠山のハイキングコース入口に向かいます。
東名高速のガードを潜って オットここでまた下らに事に引っかかった。
先日読んだ新聞に “アンダーパスを通り 云々” の表現があったが、今は “ガード” と言わず “アンダーパス” と言うのだろうか。
そうなると現役の頃はよく “ガード下の居酒屋で飲んだ” と言うのを、今は “アンダーパス下の居酒屋で飲んだ” と言うのか。
なんか雰囲気が出ないよな。で、アンダーパスを調べてみたら
 「立体交差で掘り下げ式になっている下の道路。くぐり抜け式通路。鉄道や道路の下を通る地下道。」  マー納得。
ではガードはというと
 「道路を跨いで架け渡した鉄道線路の通る橋。道路を跨ぐ高架橋(跨道橋)のこと。 梁(はり)を意味する英語」 でした。
つまりガードはトンネルの事ではなく、その上を通る橋の事で、アンダーパスとはトンネルそのものでした。
なので “ガードを通って” とは言わずに “ガードを潜って” となり “ガード下で飲む” になるのだろう。
そしてアンダーパスは “潜る” のでは無く “通る” になり “アンダーパスで飲む” となるのだろうが矢張り雰囲気は出ない。
ガードという言葉は何となく場末の感じがして、私の飲む場所に適して適していると思うのだが。

 オットまた脱線をしてしまった。こんな事だからダラダラ文が治らないのだ。でも分かっていても止めれないのです。
話を元に戻し、ガードを潜った先に、静岡県立掛川東高校があり、その入口に写真のような案内板があった。
何を言いたいのかって! マーよく写真を見てください。 東高校のある場所の住所は “南西郷” で 東ではない。
なのに名前が東高校ではおかしくないですか。
この学校の建っている場所は、掛川駅を中心とするなら南西方向で、城を中心とするなら南南西だ。
校名にどうしても方角の名前を付けたいなら “掛川西” か “掛川南” だろうが掛川西高校は既にある。
この掛川西の建つ場所だって城のすぐ後ろ側にあり、 “西” とはどこに対して西なのか分からない場所だ。

  どうもこの学校名の方向の基準が分かり難い。藤枝市にも東高、西高、北高、南高とあるが一番北にあるのが東校で
東にあるのが北高。南校は4校の中で一番西でかち南に建つ。そして西高はそれらの真中にあるのだから不思議です。
調べついでに掛川東高をさらに調べてみると分かりました、解決しました。
東高は2004年に掛川市掛川から移転しており、その場所はバッチリ城の東にあり、近くには今も東中学がある。
その時の校名を移転してもそのままにしたので位置関係が変になってしまったのだ。
成程な。 そう言えば掛川西高も間違いなく城の西側にある。

そうそう住所名の “南西郷” とは、国1バイパス西郷インターの上(北)の方が上西郷で、インターの下(北)が下西郷
だった。では本郷はと探すと、有るには有ったが掛川の中心地から遠く北に離れた新東名・森掛川IC近くで、掛川とは
関係ないようだ。
結局西郷の元となる本郷の場所は分らずじまいだったのが残念だが、こうして歩いていればいつかは分るかもしれない。
犬も歩けば棒に当たるだ。

  ハイキングコース入口の案内板辺りで大掛かりな造成工事が行われていた。看板を見ると工業団地を造成中だった。
今は株価は上昇し貿易収支も改善して景気は上向き傾向らしいが、私のような年金生活者には景気の動向はあまり関係ない。
いやどちらかと言えば景気が良くならない方がいいのではと思う。景気が良くなると給料が上がり物価も上がってしまう。
だが年金は減る事があっても上がる事はない。それなら物価は低い方がいいと思ってしまう。
その物価をアベノミクスと日銀は必死に上げようとしているのだから、私が与党に一票を入れないのは当然です。

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2 コメント

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Unknown (松理)
2018-01-23 22:44:07
 掛川に早朝よりようこそおいでくださいました。
 掛川には,無理を承知で言えば「西郷」と「南郷」があります。
 西郷がついた地名には「上西郷」と「下西郷」があります。
 南郷がついた区域(地名としては残っていません)には「南郷」と「西南郷(にしなんごう)」があります。西南郷には,いくつかの字があり,その中の1つに「南西郷(みなみさいごう)」があります。
 こうして書かれただけでは頭が混乱してしまうかもしれません。
 「本郷」は,西郷と南郷とは関連が無い地名だと思います。
 
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松理さん (はぐれ)
2018-01-24 10:08:59
あちこち歩いていると地名や名字に興味を感じてきます。
今回も「東」高なのに地名は「南」と「西」で「東」が無い事が面白く感じました。
本来方位や上下、左右等の付く地名は、元の場所からの位置を表したものだと思っています。
その元となる場所は、神社や城など古くから地区の中心だった所だと思います。
今回も元なる「郷」、すなわち「本郷」がと思ったのですが見つかりませんでした。
それにしても「南西郷」が「南郷」の、それも「西南郷」の分かれとは頭が混乱してしまいました。(笑
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