はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠州33観音5-3

2010-10-26 20:09:03 | 低山歩き
font size="3" color="red" style="line-height:160%;">「駅から遍路」
 遠州33観音5回目  遍路日2010/10/20 距離46.3km 歩行時間8時間27分

豊田駅 ― 31成金寺 ― 弁天島駅 ― 新居駅 ― 22蔵法寺 ― 23礼雲寺 ― 
 6:10      9:00       12:00     12:50      14:20      15:10
          12k       27.1k     30.9k      37.3k      39.4k    
鷲津駅
 16:32
 46.3k
                      22番蔵法寺(白須賀宿)

               

舞阪宿と弁天島駅は一つ橋を渡ればすぐ着いた。今丁度12時でここまで27km歩いている。やっと半分強の距離でしかない。だが舞阪宿まで降っていた雨もあがったので気を取り直して歩き続けよう。

ここ舞阪は潮干狩りの有名な海岸で5月ともなると静岡県の中西部、そしてお隣愛知県の三河の方からも潮干狩りの人が集ってくる。そのため浜松西IC付近は毎年渋滞してしまっている。
私も子供が小さい頃は毎年のように来ていたが、最近はサッパリご無沙汰している。
当時は渡船に乗らなくても、それなりの収獲があったが、今は乗らないと収獲は望めないようだ。根っからのケチな私としてはタダで取れる山菜や貝などを取るのは大好きだが、お金を払うとなると二の足を踏んでしまう。それに子供が大きくなった事もあり今は来なくなっていた。

 

舞阪駅前には潮干狩りや海水浴客を目当ての大きなホテルが建っていた。しかしどのホテルも自動車が停まっていない。2~3日前の新聞に弁天島の大きなホテルが二つも閉鎖したと書いてあったが、その影響だろうか。
一時のバブル景気で調子に乗り大きくなったところで、今回のリーマンショックで潰れてしまった所もある。それはそれで仕方ないだろう。未来永劫同じところが繁栄していたのでは不公平だ。時代によって繁栄すところ消滅するところがあってこそ自然の摂理だ。
「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず」と平家物語に謡われている。娑羅双樹の花は知らないが、土手を赤く染めていた彼岸花の花は今では見る影もない。

舞阪から新居までの国1の歩道は、今年の春、浜名湖一周ビックウォーク55kで歩いた事がある。あの時は既に50k歩いた後のゴール真近かだったの、この歩道が辛かった。特に歩道が側溝に向かって少し斜めになっているのが歩きづらくて嫌だった。今日はまだ28kでそれほど疲れてはいない。だが矢張り歩きにくくて側溝の蓋の上を歩いてしまった。
水捌けをよくすために仕方ないだろうが、もう少し歩きやすい歩道にして欲しい。

鉄橋で釣りをしている人がいる。その人達は保護用の金網の外に出て釣っている。どこから外に出たのか見てみると、金網を止めてあるネジを外し金網をまくってしまってあった。
そんな場所が何ヶ所もあり、金網の外への出入りは自由の状態になっている。これは明らかに器物破損罪に該当すると思うが黙認状態になっている。ただ一見する限り金網の外にも枠があり安全そうに見えるが。
このように不法行為が起きた原因は金網と外枠の間が人が通れるくらいの隙間がある事だと思う。枠と金網をどちらが先か、同時に取り付けたかはしらないが、わざわざお金を掛けて隙間を作り無法を助長さているようなものだ。
金網の設置者が真から安全を考えたら枠との間に隙間を作らないか、金網だけにしたと思う。また金網の外に出た人の安全を考えて枠を設置するなら金網は要らない。
結局役所は事故が起きた時「安全は二重にした」と弁解するため、金を使って地元の無法状態を宣伝しているような物だ。

 

やっと新居駅に着いた。東海道はこのまま真直ぐ新居関所に向かう。私は左にカーブする国1に添って進む。
川の両側に漁船が係留してある。若布だろうか海草を満杯に積んだ舟も走っている。普段見かけないこんな風景を見ると、如何にも旅に出ている感じがしてくる。
「知らない街を歩いてみたい~」を望んでいる私としては非常に満足した気持ちになる。

旧道に入り暫く進むと前方左に大きな木が見える。立派な寺の境内にある槙の木だった。カヤの木とかなら見たことがあるが槙でこれほど大きいのは初めて見た。この寺はやけに大きく立派な寺だった。

アレー前にザックを背負った人が歩いている。あの服装は新居駅の辺りで私の大分前を歩いていた人だ。確かあの人は駅に寄らず関所の方向に向かったので、てっきり東海道を歩いていると思った。なのにこんな所を歩いているなんて何だろう?
立ち止って看板を見ている。アッ歩き出した。
私もその場所で立看板を見てみると「旧東海道の----」(忘れた)と旧東海道の事が書いてある。
何故だろう? 旧東海道は新居の駅から西の関所の方に向かったはずなのに、何故こんな看板があるのだ。
手製の地図を確認するが私が道を間違えたようでもない。幸い前を歩く人の足取りは遅い。追いついて聞いてみよう。
「東海道を歩いているのですか?」
「エーそうです」
「今日はどちらからですか?」
「浜松からです」
「私は遠州33観音を歩いています」
「そうですか」
同じような年頃の男性だったが会話が弾まない。しかし目的は達せられた。矢張りこの道は東海道だったのだ。

考えてみると私の東海道の知識は小田原から浜松までで、その先のことは殆ど知らない。浜松の次の宿場は舞阪で次は新居? ではその次は、となると???だ。
いやいや宿場どころかJRの駅の名前も覚束ない。
浜松-舞阪-弁天島-新居-新所原-程度は思いつくが後は分らない。同じ静岡県でも浜松以西となると殆ど来る事もなく他県の様な感じになってしまう。
因みに正確な駅の順序は浜松-高塚-舞阪-弁天島-新居-鷲津-新所原だった。

余り東海道の事を書くと本番のとき紹介することが無くなってしまうので、今回は少しに留めておこう。ただこの立札だけは紹介しておこう。
「明治天皇御野立所跡」として
「明治元年9月20日東京へ行幸のため、京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居に向かう途中休憩した場所。明治天皇はその後新居の本陣に宿泊10月13日に東京に着いた」と書いてあった。
明治天皇は京から江戸までを23日間掛かり、豊橋から江戸までを13日掛かった事になる。すると私の予定している駿河と遠州の東海道はどの位かかるだろう。豊橋―江戸間の半分として6日か7日。天皇一行はきっとゆっくりだったろうから更に短くして5日。
ヨシ! 5日を軸にして計画を練ってみよう。

「東海道53次白須賀宿マップ」の案内板もでてきた。どうやら新居の宿の次の宿場は白須賀だったらしい。白須賀は余り聞きなれないが、確かこの辺りは潮見坂があったはずだとマップを見てみると、あったあったマップの中央辺りに潮見坂がでていた。
それにしても長い宿場町だ。記載されている距離を合計すると4kmにもなってしまう。何か理由でもあるのだろうか。

 

古い民家もチラホラできた。チョット気になった事があったが、それは本番の時の話題にしよう。

 

露地の奥に開放的な良い雰囲気のお寺が見えた。ここが22番札所蔵法寺だった。山門越しに見える芝生の緑や低い裏山、広々とした境内がこの寺を明るくさせている。鬱蒼とした木々のある境内、所狭しと石仏を置いた境内など色々のお寺を見てきたが。この様に広い空間があった寺はあっただろうか。余り覚えはない。

犬が2匹繋がられているが私を見て一度立ち上がったが、また座ってしまった。私を不審者ではないと判断してくれたのか。オット今度は猫が来た。やけに馴れ馴れしい猫で身体を私の足に押し付けてくる。握飯を飯を食べ始めると私の膝に前足を乗せて「ニャーニャー」泣きながら呉れろとせがんでくる。
どうも生き物は苦手で、猫の目を見ていると今にも飛び掛ってくるのでは心配になる。何処かの札所のように「ワンワン」吼える犬も困るが、こんな馴れ馴れしい猫も困る。

境内に潮見観音が立っていた。その紹介の立札にこんな事が書いてある。
「宝永4年(1707)10月4日大地震が発生して、そのとき起きた大津波によって元町宿は一瞬にして呑みこまれてしまった。そのとき坂の上に逃げてた人で、そのまま坂の上に住んだ人もいる」
そうか白須賀宿が4kも長いのは、この影響なのかもしれない。津波の前は坂の下が宿場町だったが、津波で被害を受けた宿は坂の上で再建した。だから宿場が長くなったのではないか--- 来年東海道を歩く時までに調べておこう。

 

そうそう、この寺を22番札所と書いたが実際は今は札所を返上して、22番は違う寺になっているようだ。遍路を始める前にその情報を知ったので札所霊場会に問合せたが返事が無かった。
ただ私の遍路は信心ではなくウォーキングが主なので、札所ははっきり言ってチェックポイントに過ぎない。だからあまり気にはしていない。とは言ってもそのチェックポイントの雰囲気で満足感は随分変わってくるが。そういう意味でここは札所から外れるのは残念な気がする。

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