《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
ところで、千葉恭は賢治に頼まれて蓄音機を買い取って貰うために苦労したと言っているわけだが、そもそも何で賢治は蓄音機を売ろうと思ったのだろうか。
それは、まず前回の〝「宮澤先生を追つて(四)」より(蓄音機売却)〟中に、
それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれま . . . 本文を読む
《1 》(平成31年2月25日撮影)
《2 》(平成31年2月25日撮影)
《3 》(平成31年2月25日撮影)
《4 》(平成31年2月25日撮影)
《5 》(平成31年2月25日撮影)
《6 》(平成31年2月25日撮影)
《7 》(平成31年2月25日撮影)
《8 》(平成31年2月25日撮影)
《9 ミスミソウの蕾やっと色付く》(平成31年2月25日撮影)
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《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
では再び「宮澤先生を追つて」シリーズに戻って、今度は「宮澤先生を追つて(四)」を見てみよう。
◇岩田屋に売った蓄音機
その前半には、千葉恭が蓄音機を売りに行ったというエピソードは以前〝『イーハトーヴォ復刊5号』より〟でも触れたことがあるが、ここにも似た様なことが載っている。とはいえ、こちらのそれは前述のそれとは似ていても違うところがあり次の . . . 本文を読む
《1 胞子》(平成31年2月24日撮影)
《2 ばっけ》(平成31年2月24日撮影)
《3 胎内くぐりの岩》(平成31年2月24日撮影)
何とか通れたので、今年は何かいいことありそう。
《4 頑張っている切断された枝》(平成31年2月24日撮影)
《5 このツルは》(平成31年2月24日撮影)
《6 イワガラミ》(平成31年2月24日撮影)
《7 サルトリイバラ》(平成31年2月24日 . . . 本文を読む
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
ではここでは「宮澤先生を追ひて」のシリーズはちょっと中断し、時系列のことを考えて千葉恭が著した「賢治抄録」の方を先に見てみたい。そこには次のような、大正14年10月20日に豊沢町の賢治の実家を初めて訪れた際のピソード等が語られている。
大正十四年は豊作に近い年で、季候も良いのであつた、晴れ勝ちな日が多い年であつた。十月二十日役所に出勤し . . . 本文を読む
胡四王山の
《1 日時計花壇》(平成31年2月24日撮影)
《2 動物の足跡》(平成31年2月24日撮影)
《3 大きさは10センチはあろうか》(平成31年2月24日撮影)
《4 何者か判らず》(平成31年2月24日撮影)
《5 どでかい犬?》(平成31年2月24日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を . . . 本文を読む
古四王神社の境内から北上川を見下ろしていたならば、
《1 白鳥が飛んでいた》(平成31年2月24日撮影)
《2 》(平成31年2月24日撮影)
《3 》(平成31年2月24日撮影)
《4 》(平成31年2月24日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにし . . . 本文を読む
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》
さて、その後の松田甚次郎はどんなことをしたのだろうか。たとえば、『続 土に叫ぶ』の序で甚次郎は次のように語っていた。
「土に叫ぶ」を出版してから早くも五年になる。その間日本も世界も大きな變動と善き展開を見せた。そして農村と農業はその使命日に重大を加え我等は益々奮勵せねばならなくなつたのである。
. . . 本文を読む
胡四王神社境内からの、
《1 和賀山塊方向》(平成31年2月24日撮影)
《2 上ン平方向》(平成31年2月24日撮影)
《3 紫波三山方向》(平成31年2月24日撮影)
《4 七時雨山、最も白い山並みは八甲田連峰?、西岳》(平成31年2月24日撮影)
《5 姫神山方向》(平成31年2月24日撮影)
《6 姫神山》(平成31年2月24日撮影)
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”みちのくの山 . . . 本文を読む
《1 》(平成31年2月24日撮影)
《2 》(平成31年2月24日撮影)
《3 》(平成31年2月24日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版 . . . 本文を読む
胡四王山からの岩手山である。
《1 》(平成31年2月24日撮影)
《2 》(平成31年2月24日撮影)
《3 今日は鞍掛山も識別できる》(平成31年2月24日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
. . . 本文を読む
胡四王山からの早池峰連巓である。
《1 》(平成31年2月24日撮影)
《2 》(平成31年2月24日撮影)
《3 》(平成31年2月24日撮影)
《4 薬師岳》(平成31年2月24日撮影)
《5 早池峰山》(平成31年2月24日撮影)
《6 中岳》(平成31年2月24日撮影)
《7 鶏頭山》(平成31年2月24日撮影)
《8 毛無森》(平成31年2月24日撮影)
雪嶺の早池 . . . 本文を読む
胡四王山にもマンサク咲く。
《1 》(平成31年2月24日撮影)
なお、胡四王山にはこれよりももっと立派なマンサクの木があったのだが、昨年は花が咲かず、今年は完全に咲きそうにない。すなわち枯れてしまった。下根子桜の朽ち果てつつあるセンノキ(ハリギリ)といい、ここの枯れてしまったマンサクといい、いつのまにか完全に消えゆくことになるということか。
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”みちのくの山野草” . . . 本文を読む
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
では今度は前に戻って「宮澤先生を追ひて(二)」の方を見てみたい。次のようなことが述べられている。
◇千葉恭の帰農と研郷會
先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業 . . . 本文を読む
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》
さて、前回の最後に、その後の松田甚次郎の仕事ぶりを年譜から拾ってみると、
昭和16年1月 『村塾建設の記』出版
昭和16年3月 「新しき生活の建設」山形放送局より全国放送
昭和16年8月 農村演劇講座開催
昭和16年9月28日 共働村塾10周年記念式挙行
昭和17年3月 . . . 本文を読む