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《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)
ところで、このシリーズ〝「一寸の虫」ではありますが〟を始めた理由は、最初の投稿〝えっ、いくらなんでも!〟で述べたように、『新校本 宮澤賢治全集〈第16巻 下〉補遺・資料 年譜篇』の大正15年12月2日の註釈である、
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
が切っ掛けである。改めて、一方的な断定にしっくりこないことを思い知らされたからである。あの筑摩書房が、「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、他人事のような表現「改めることになっている」という表現に悄然としてしまうことが直接の切っ掛けであったとも言える。ただしこのことに関しては以前から、いわゆる『旧校本全集第十四巻』でも私は同じような疑問を抱いていた。なぜなら、次の二つの間にある矛盾等が気に掛かっていたからだ。
その一つは、『校本宮澤賢治全集第十四巻』所収の宮澤賢治の年譜(以降この年譜のことを「旧校本年譜」と略記する)の同日の記載事項、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600pより>であり、他のもう一つは『賢治随聞』所収の「沢里武治氏聞書」における澤里の例の証言、
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…投稿者略…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~>「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…投稿者略…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
である。さて、ではこの二つの間にある矛盾等とは何か。
まず第一に澤里の言うところの日付と「旧校本年譜」の日付とではおおよそ一年も違うことである。第二には、証言の中の「少なくとも三か月は滞在する」の部分が「同年譜」ではスッポリと抜け落ちていること。そして第三には、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」の部分に関してやはり「同年譜」では一切言及がなされていなかったことである。
そしてこの二つを見比べてみて私は一抹の不安を抱いていた。それは、証言の一部は使い、一部は削除し、他の一部は無視するという証言の使い方がはたして如何なものなのだろうか、牽強付会であるという誹りを受けはしなかったのだろうかということを危惧したからである
さらに、ますます疑問が深まってしまったもう一つの理由があった。というのは、ある証言を知っていたからである。それは、実証的な宮澤賢治研究家として知られている菊池忠二氏から、「下根子桜時代」の賢治の上京に関して、
一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。 ………………〈柳〉
という証言を柳原昌悦本人から直接聞いている、ということを教わっていたからである。さて、では柳原が言うところの「あの日」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば「現定説」の、
セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
に対する日、すなわち大正15年12月2日であることは直ぐに判る。つまり、定説では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も澤里と一緒に賢治を見送っていた、ということを同僚だった菊池忠二氏に対して柳原が話したということになる。つまり、この「現定説」には反例があるのだから、当然、即棄却せねばならないのではなかろうか、と以前から私は訝っていたのだった。反例がある定説などあり得ない。定説と雖も所詮仮説の一つなのだから、反例のある仮説の存在など許されるわけがないのだから。ところがそこへもってきて、この「新校本年譜」の大正15年12月2日の註釈「*65」の仕方を新たに知って、私はもはや看過すべきことならずと覚悟して、自分でも調べてみよう思い立ったのであった。
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