《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》
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論じてこられなかった理由と意味
†当時のソ連における賢治評
ここで少し日本を離れて、第二次世界大戦直後、宮澤賢治はソ連ではどのように見られていたのだろうかということについて少しだけ触れておきたい。そのことを高杉一郎のシベリア俘虜記『極光のかげに』(岩波文庫)が教えてくれるからだ。
まずはこの著者高杉なる人物についてだが、同書の「あとがき」によれば、彼はそれまで勤めていた改造社が戦争遂行に協力的でないという理由で昭和19年の7月に解散させられたので職を失い、同年8月8日に名古屋に招集され、満州へ送られたという。そしてその一年後に敗戦にあい、シベリアに送られ軍事俘虜としてそこで4年間抑留され、昭和24年9月に帰還したという。
さて、前掲書には著者高杉本人が俘虜収容所である将校から受けた尋問の際の次のようなやりとりが綴られている。
尋問がはじまって、姓名、生年、生地、学歴、職歴、軍歴、父の職業などを質ねられる。…(筆者略)…
「なぜ?」
「軍人が好きでなかったからです」
ふん、というような不信の表情を彼は肩で示した。
「ミヤザーワ・キンジを君は知っているか?」
宮沢金次、宮沢欣二……私は頭の中であれこれと友人を捜し廻ったが、宮沢なる者は私の友人のなかにはいなかった。
「知りません」
「嘘つけ! 君のためによくないことになるぞ。イシカーワ・タクボークは?」
石川啄木――あることを想い出して、私は咄嗟にはっとした。金次ではない。宮沢賢治だ。私は忽ちにしてこの質問の意味を悟った。…(筆者略)…
さっきの質問に答えて、私は言った。
「石川啄木は日本の詩人です。宮沢賢治――キンジではありません――は詩人で児童文学の作家です」
「彼らはアナーキストだろう?」
「アナーキスト? 広い意味でのアナーキストと呼ぶことはできるかの知れません。が、彼らは政治的な意味でのアナーキストではありません。文学上のウトピストです。石川啄木は民衆の詩人です。日本のニェクラーソフです」
<『極光のかげに シベリア俘虜記』(高杉一郎著、岩波文庫)45p~>
そしてこのやりとりから読み取れることの一つに、当時のソ連では啄木のみならずなんと賢治も知られていて、しかもこの二人はアナーキストと目されていたということがある。啄木がそのように見られていたということはむべなるかなと思ったが、まさか賢治までもがそのように見られていたということはちょっと意外だった。が、少なくとも共産主義国家のソ連では、当時賢治はアナーキストと思われていた節があるということがこれで判った。またこのやりとりからは、将校がアナーキストに敵愾心を持っていることが判るし、ボルシェビズムのソ連がアナーキストを目の仇にするのも理屈としてはわからないわけでもない。
すると思い出されるのが、名須川溢男の伝えるところの先に引用した(68p参照)、例の交換授業である。賢治は『仏教にかえる』と断言して翌夜からうちわ太鼓で町を廻ったいうことだから、賢治はその後すっかり労農党とは縁を切ったものと推測されがちである。
ところが、先の尋問のやりとりを知ってしまうと実は、
川村からレーニンの『国家と革命』を教えてもらった結果、レーニンの思想ではだめだということを賢治は悟り、やはりアナーキズムでなければならないと認識を新たにしたという解釈も可能だ。賢治は川村に『日本に限ってこの思想(レーニンの思想、ボルシェビズム)による革命は起こらない』と断言はしたが、アナーキズムによるそれを否定したわけではない、という可能性がある。
ということに改めて気付く そしてもう一つ、
ボルシェビズムのソ連では、賢治は「にっくきアナーキスト」の一人だということで結構知られていたのかもしれないということを私は心に留めておかないと、もしかすると認識を誤ることがあるかもしれない。
ということにも気付く。なぜならば、件の将校はまず賢治の名を出し、次に啄木の名を出し、そしてこの二人をひっくるめてアナーキストだろう?と訝っているわけだから、賢治は啄木に勝るとも劣らない「アナーキスト?」だと少なくとも件の将校は認識していたということが導かれるからである。まずないとは思うが、知らないのは日本人の方だったということも完全には払拭できないのかもしれない。
†昭和40年代になってからやっと明らかに
とまれ、賢治は当時のソ連にまでその名が知れ渡っているような人物であり、「アナーキスト?」とも思われていたようだということがこれでわかったから、まして日本の官憲は賢治を徹底してマークしていたであろうというところまでは容易に想像ができる。では、当時日本国内で賢治は思想的・政治的にはどう見られていたのか、そしてそもそも賢治はこのことに関連してどのような活動をしていたのだろうかということをここで改めて考え直してみたい。
このことをまず教えてくれるのが、先にも引用した(68p参照)小館長右衛門の次の証言であり、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(筆者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)
265p~〉
賢治は当時かなり積極的に活動していてしかも労農党稗和支部の「実質的な中心人物だった」ということまでも小館は断定している。
また、煤孫利吉は、
事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。
と(70p参照)、そして川村尚三は、
昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『俺がかりてくれる』と言って宮沢町の長屋―三間に一間半ぐらい―をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。
と(70p参照)、いずれも小館と同じようなことを証言しているというから、賢治が労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在であったことはもはや疑いようがないし、活動にも熱心であったことがわかる。
それは羅須地人協会の会員伊藤與藏(明治43年生まれ)の証言からも裏付けられる。具体的には、『賢治聞書』(伊藤與藏、聞き手菊池正、昭和47年)によれば、
「与蔵さん、選挙演説を聞きに行きましょう」と誘われたことがあります。演説会場は相生町の繭市場ではなかったかと思います。候補者は泉国三郎でした。
とか
伊藤忠一君がマルクス全集を買いました。それを聞いて先生が、十年かかっても理解はむずかしいよ、と言っていました。今思い出してみると、先生の話の中に、カール・マルクスとか、フリードリッヒ・エンゲルスという名前がなんべんもあったように思います。たぶん社会主義対する先生のお考えもお話になったと思いますが、残念ながら少しも覚えていません。
<共に『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明著、時潮社)40p~>
ということを與藏は証言していて、この泉国三郎とは当時の労農党稗和支部長であったし、マルクスやエンゲルスの名も出てくるこれらの証言からは、賢治が政治的・思想的な面でも他人に積極的かつ熱心に働きかけていたということが導かれるからである。それも、共に賢治よりも一回り以上若い、当時17歳頃の若者である與藏や忠一に対してまでもである。
しかも川村尚三は、
盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。
ということも証言している(70p参照)から、先ほどのソ連の将校が賢治と啄木とをひとまとめにして「アナーキスト?」と認識しているのも由ないことでもない。
そして小館は、このような賢治の思想的・政治的な活動が、
なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。…(筆者略)…」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p〉
と推測していて、その「おもてにそれがいままでだされなかった」事柄に対して、昭和40年代になって初めてスポットを当てて明るみに引っ張り出したのが名須川溢男であったと言えるようだ。
†いつも利用されている賢治
次に歴史的に振り返って見れば、気の毒なことに、賢治は亡くなってからはいつも誰かに利用され続けてきたという感が私にはある。例えば、『「雨ニモマケズ手帳」新考』の中には、
(〔雨ニモマケズ〕は)一九四二(昭和十七)年には、軍国主義的独裁政治の国策遂行を目的に組織された「大政翼賛会」の文化部編になる「詩歌翼賛」の第二輯「常盤樹」の中に採録され、当時の国民とくに農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。…(筆者略)…独り農民に関してだけではなくて、一般的に権力に利用される危険性をもっていたといえよう。一九四四(昭和十九)年九月、谷川徹三氏が東京女子大学で「今日の心がまえ」なる題下に行った講演はこの詩を中心とした賢治に関するもので、翌年六月には当時の国策協力の出版「日本叢書」(生活社刊)四として「雨ニモマケズ」の書名で初版二万部も発行された。正に前記「詩歌翼賛」の「常盤樹」への採録と相呼応するものと言えよう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)147p~>
ということが述べられていて、しかもこの著者小倉豊文は「雨ニモマケズ手帳」研究の第一人者だから、「雨ニモマケズ」が、延いては賢治が戦意高揚に利用されていたことは否定できない事実であったと言えるだろう。
となれば、特に戦時中賢治をこのように利用しようとしていた人達にとっては、当時賢治は少なくとも官憲等からは「アカ」と見られていたことはほぼ確実だから、そのような類のことは極めて不都合だったであろう。まして、その賢治が当時の凄まじい「アカ狩り」を恐れて実家に戻って自宅謹慎していたという類の話はなおさらそうであったであろう。では、その時にそれでも賢治を前掲のように利用しようとする人たちはどうしたかといえば、普通に考えればそれらのことにはいち早く蓋をしてしまうということだったであろう。
つまり、賢治のそのような類のことはアンタッチャブルなことにしてしまうのが常道手段であろうことに気付く。それはまた、「昭和3年夏以降の賢治の病臥」について触れればおのずから「アカ狩り」に対処した「自宅謹慎」であることに繋がっていく危険性が大きいので、その謹慎事情を知っているあの三人は賢治を見舞った(あるいは見舞ったが見えることができなかった)ことを公には書き残していなかったのだという一つの解釈の仕方をも教えてくれる。
というようなわけで、賢治のこの類のことに触れることは長らくタブーとなっていたのであろう。そして、その蓋を再びやっとこじ開けたのが名須川であると言えるのだろう。実際、私は今まで「羅須地人協会時代」の賢治を調べていくつかの著作を公にしてきたが、それらは結果的には「通説」と違っている場合も多かったのでそのせいであろうか、拙著を読んでくださった地元の人から『このようなことを公に言ったり活字にしたりすることは花巻ではタブーなんだよ』と忠告されたことがあるから、なおさら私は長らくタブーであったのであろうことを実感する。
どうやら、以上が、このような類のことが賢治歿後しばらく論じてこられなかった有力な理由になり得るのではなかろうか。そして逆に、それが殆ど論じられてこなかったということこそが、当時の賢治は無産運動の良き理解者、労農党の強力なシンパ、それ以上の強力なパトロン、あるいはまた、政治的・思想的にかなり心情的アナーキストであった蓋然性が高いということを意味しているのではなかろうか。
そして、先の仮説
昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
を間接的に裏付けてくれているのではなかろうか。つまりこれらのことがしばらくの間論じてこられなかったこと自体が、あれは「自宅謹慎」であったということを傍証してくれている、そんな気もしてくる。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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