みちのくの山野草

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『山荘の高村光太郎』「第一章 山荘の高村光太郎」

2024-01-18 14:00:00 | 独居自炊の光太郎
《『山荘の高村光太郎』》(佐藤勝治著、現代社)

 ではここからは、佐藤勝治の著書『山荘の高村光太郎』(現代社)の「第一章 山荘の高村光太郎」をしばらく読み進めてみたい。
 先ずその第一章の最初の項、
   花巻の戦災 (14p~)
からである。そこにはこんなことが述べられている。

 昭和二十年八月十日に、花巻町がアメリカの艦船記機十数機の空爆を受けた。
 私(勝治)の家は宮澤賢治の家のすぐ近くにあった。
 この時、私は山口分教場に勤めていた。
 その頃の分教場は一年生から四年生まで生徒数約三十名、職員は勝治一人
 まん中が講堂、右に教室一つ、左に職員室と宿直室
 前任者が応召になったので勝治はその後をついだ。
 この時の空襲で光太郎は焼け出され、賢治の家を出て佐藤昌の家で世話になっていた。
 →そこで勝治は「先生、私のいる山口へおいでになりませんか」 と勧めた。
 先生(光太郎)は「是非お願いしたい」と言った。

 そして次の項、
   小屋を建てる(22p~)
には、こんなことが述べられている。

 先生に五百円で家が建つお話をしたら即座にお金を出した。
 そのお金を駿河さんに渡す。すると、山奥に営林署の飯場がありそれを買い受けるといい、と。
 先生(光太郎)からは勝治にまかせる、と。
 終戦になったので、勝治は光太郎に「もう山にいらっしゃらなくても」と言ったのだが、光太郎は、
「僕が山に入るのは、若い頃からの希望なのです。何も戦争とは関係のないことです。…投稿者略…長い間の夢が、こんどはほんとうに実現するのですから、どうぞやめるなどといわないでやって下さい」
 小屋を建てる当日は、朝まだ暗い中に 、部落の人々が、一戸から一人ずつ出て一里の山奥に入って行き、飯場を解体して、柱や垂木や戸を、一人ずつ一つずつかついで…投稿者略…運んできた。…投稿者略…夕方までにはちゃんと棟上げを終えることができた。そこではじめて皆は祝いの酒を飲んで手を叩いてうたった。この仕事は全員無報酬だった。
 間口三間、奥行三間、周りは荒壁、屋根は杉皮、左側にかけ下げをつけて、そこに井戸と便所。

 こうして出来上がったのが、山口ダイジの次のような小屋、いわゆる高村山荘であった。「一間」は約1.8mだから「間口三間、奥行三間」ということなれば、ほぼ「間口5.4m、奥行5.4m」であり、確かに小さな小屋だ。
《光太郎が住んだ小屋》

          〈高村山荘内の掲示写真額より〉
 そしてこれが
《小屋の内部》

          〈『光太郎』(監修佐藤進、(財)高村記念会)より〉
であるという。
 ところがここ山口ダイジの冬の凄さについては、光太郎自身も次の詩「雪白く積めり」に詠んでいるように、
   
      雪白く積めり
      雪林間の路をうづめて平らかなり。
      ふめば膝を没して更にふかく
      その雪うすら日をあびて燐光を発す。
      燐光あをくひかりて不知火に似たり。
      路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
      松林の奥ほのかにけぶる。
      十歩にして息をやすめ
      二十歩にして雪中に坐す。
      風なきに雪蕭蕭と鳴つて梢を渡り
      万境人をして詩を吐かしむ。
      早池峯はすでに雲際に結晶すれども
      わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
      わづかに杉の枯葉をひろひて
      今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
      敗れたるもの卻て心平らかにして
      燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
      美しくしてつひにとらへ難きなり。

          〈『高村光太郎 宮澤賢治』(伊藤信吉編)121p~〉

美しくはあっても、生半可なものではなかったはずだ。
 ちなみにこれは、
《かもしか皮のいり巻であとぢの前に立つ冬籠の光太郎》

   〈高村山荘内に掲示写真額より(いり巻とは襟巻き、あとぢとは風よけのこと)〉
であり、『山口と光太郎先生』(浅沼政規著、(財)高村記念会)によれば、
  (2) やとじ(風よけ)づくり
 山口では、十一月頃から、雪がちらほら降りはじめ、一、二月になると、積雪一メートルを越すようになります。そこで、冬支度として、建物の西側の風あたりの強いところには、毎年初冬になると、青年会の人たちが、刈った萱や長木、柱、杭などを持ち寄って…投稿者略…防風のやとぢ(風よけ)を作って、雪と寒さから建物を守るようにしてあげました。
ということである。
 そしてまた、このような厳しい冬の自然環境下での、小屋の冬の凄まじさについては光太郎がある対談で後年語ったこととして、次のようなことが紹介されている。

 「ずいぶん寒いところだった、今東京で考えるとね。あれで神経痛なんかを起こした。山だから湿気がひどくて、ふとんなんべとべとになってしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまっているようなものだ。これは悪いことをしたのだから水牢に入っているものだと思って、そんなら我慢できると思った。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だった。自分が寝ていると息がふとんにかかって氷になるんです」「零下何度くらいですか」「二〇度です。だからそれが凍ってしまう。ぼくだからいられたようなものだね。…投稿者略…ものすごいものだったからね。こっちはどんな条件でもやり通す気だったけれどね」〈『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)252p~〉

 とはいっても、当時の光太郎の年齢はといえば、太田村山口の小屋に住まって自炊生活を送ったのは昭和20年~昭和27年迄の7年間であり、62歳~69歳ということになる。それ故に逆に、光太郎の覚悟と決意が伝わってくるし、やはり光太郎の独居自炊は自己流謫と切り離せない。流石は光太郎と私は感心し、尊敬の念がますます増してきている。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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