みちのくの山野草

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書き残していなかったという事実

2024-01-18 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》








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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 書き残していなかったという事実
 さて、前頁で〝⑥〟であるはずだと述べたが、このことをここでは検証してみよう。
 まず、賢治関連の著者の中でこの時の療養中の賢治のことを一番よく知っている人物はもちろん、実質的に賢治の主治医だったとも云われている佐藤隆房であり、彼には先に引用した(78p~79p参照)ような証言がある。そして、その頃の佐藤隆房は医者の立場から豊沢町の賢治の実家にしばしば立ち寄っていたことは知られているし、賢治に直接会っていたことは当然のことであろう。実際その当時のことを佐藤はいろいろと書き残している。
 しかし問題はその佐藤ではなくて、普通に考えれば、賢治が「下根子桜」から撤退して実家に戻って病臥しているということであれば必ずや見舞うであろうと思われるはずの関登久也、藤原嘉藤治そして森荘已池の三人の場合である。
 この観点から言えば、一番先に挙げられるのが関登久也であり、彼の著作でそのようなことを書き残している可能性があるのは、
(1)『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版社、昭和18年)
(2)『宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和22年)
(3)『續宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)
(4)『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
であり、これ以外ではほぼなかろう。
 ところがそれぞれを瞥見した限りにおいては、このことに関して述べてあったのは意外なことに〝(4)〟の中にだけであり、それは以下のようなものであった。
  病床の頃
 過労と粗食による栄養不足のため賢治の健康は、昭和三年に入つてその衰弱が目立つてきたようでした。
 ことにもその年は気候が不順で、稲作を案じて昼夜をわかたず農村をかけまわつた末に、八月のある日、空腹のところへ夕立に濡れて帰つたのが原因で風邪をひき、遂に豊沢町の両親の家に帰つて、病臥の身になりました。しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり、そのまま無事に冬を過ごすことができました。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)95p >
 しかしこの記述は、かつてのほとんどの「賢治年譜」にあった昭和3年の記述、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
及び先の佐藤隆房の先の著書の二つを踏まえた記述と思われるし、これらの〝(1)~(4)〟からは新たな重要な情報は得られない。まして、関本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 それでは次は、物書きの中で一番このことを知っていてしかも書き残していそうなもう一人の人物森荘已池の著書からである。彼の場合はただ一ヶ所、
 …昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました
<『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202p>
という記述を発見できた。しかし同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点で既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森のこの記載内容はやはり前掲の「賢治年譜」や佐藤隆房の書を基にしていると判断できる。そして私が調べた限りでは、やはり目新しい重要な記載内容はないし、その他の彼の著作にもこのことに関してこれ以外の重要事項は書き残していない。またもちろん、森本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 そしてもう一人の藤原嘉藤治だが、彼にしても同様であった。だから結局は、本来ならば必ずや賢治を見舞いに行くであろうと思われるこの三人の中の誰一人として、その時に賢治を見舞ったということは一切書き残していなかったという事実があるということをこれで100%確認できたと言えそうなので、どうやら前々頁の〝⑥〟はほぼ正しかったようだ。
 ではこの三人はどうしてそれを一切書き残していなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが豊沢町にまでわざわざ見舞いに行ったが結局面会できなかったという菊池武雄の先のエピソード、
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
である。ちなみにこのエピソードの内容は賢治が亡くなった翌年に、『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中でいち早く公にされていたものでもある。したがって、関、森、嘉藤治が見舞いに行ったということを書き残していないことも変であるが、賢治にまつわる多くのことを書き残している関も森もこのエピソードについてすら一言も書き残していないはずだから、これもまたかなり奇妙なことである。
 すると気付くことがある。それはあの阿部晁が、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に次のように書いていることから推測されることである。
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳参升(根子切手)
    <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)170p>
 つまり、阿部は昭和3年9月22日に「牛乳三升(根子切手)」を携えて豊沢町の実家を訪ねて賢治を見舞っていた。となればなおさらに、例えば、嘉藤治は菊池を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというからとても気掛かりであったであろうし、菊池が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」と述べているくらいだから、普通に考えれば、嘉藤治もそのことを知って何度か賢治の実家に見舞いに行ったか、行こうとしたであろう。
 そこで冷静に考えてみれば、阿部は豊沢町の実家に賢治を実際見舞いに行ったというのに、そのような嘉藤治を含む関、森の三人が全くそのことを揃いもそろって公に書き残していないという理由は、この三人も実は見舞っていたのだが地元花巻では当時の賢治を公に見舞うということは禁じられていたからであったと解釈すれば、すなわち、昭和3年8月10日以降の賢治はしばし「自宅謹慎」中の身だったからその見舞いを公的に書き残すことはできなかったのだと解釈すれば全てがすんなりと辻褄が合う。そして一方、阿部晁は地元の人間ではあるものの、私的な日記だからこそ書き残せたのだと。
 それからもう一つ気付くことがある。それは、菊池は書き残していたというのに関、森、嘉藤治の三人はそうではなかったことの違いが、当時菊池は東京に住んでいた、その他の三人は地元花巻に住んでいたという違いと符合するということにである。ではそのことは何を意味するのだろうかということを少しく思い巡らしてみると、地元の三人は賢治が「自宅謹慎」していたことを知っていたが、既に大正14年に上京して図画の教師をしていた東京在住の菊池はその事情を知らなかったからであるという蓋然性が高いことにも気付く。
 どうやら事の真相は、賢治が実家に戻ったのは重病になったからだと名目上はなってはいるが、佐藤隆房が言っているように賢治はそれ程重病ではなかったから、もし二人が直に会ってしまうとそのことを菊池に気付かれてしまうことを危惧したので菊池の場合には面会を謝絶されたとも言えそうだ。そしてまた、菊池は賢治の「自宅謹慎」を詳らかに知らなかったのであのような追想をためらわずに書き、一方、この三人は実は賢治を豊沢町に見舞っていたのだが、菊池の場合とは違って、賢治は「自宅謹慎」中の身であることをよく知っていたが故に地元の三人は見舞ったことを公に活字にすることを憚ったという蓋然性が高い、ということもである。
 大体この辺りが、当時賢治を見舞ったということを関、森、嘉藤治の三人が揃いもそろって公的に一切書き残していなかった真相であったとしてもそれ程大きな違いはなかろう。
 というわけで、先の79pの〝⑥〟の理由付けもかなりの程度できたので、現時点での私の判断は、
 賢治が病気になって「下根子桜」から実家に戻り、重篤故に病臥していたというのにも関わらず、関、森、嘉藤治の三人の誰一人として見舞いに行ったとか、見舞いに行ったが謝絶されたとかということのいずれについても公的に書き残していないということは、見舞いに行ったがそのことを活字に残すことが許されなかったか、あるいは見舞いそのものが許されなかったからだ。
という蓋然性が極めて高いということである。
 おのずから仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
の妥当性もさらに増したと言える。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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