みちのくの山野草

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賢治一ヶ月弱もの滞京

2024-01-11 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》









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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 賢治一ヶ月弱もの滞京
 さて、甚次郎が「每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた」というところの大正15年の12月は、私のかつて抱いていた賢治像(「下根子桜」に移り住んで、貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた賢治、という)からすれば、まさにそのような活動を展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだが、当時賢治がそうしたという資料も証言も私は何一つ見出せないでいる。
 ちなみにその頃の賢治の営為等については、『新校本年譜』等によれば大正15年の、
11月22日 この日付の案内状を発送。伊藤忠一方へ持参し、配布依頼。
11月29日 「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」など講義。
12月1日 羅須地人協会定期集会を開き、持寄競賣を行ったと見られる。。
12月2日 澤里武治に見送られ、チェロを持って上京。
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿。
12月4日 前日の報告を父へ書き送る(書簡220)
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席(書簡221)
12月15日 父あてに状況報告をし、小林六太郎方に費用二〇〇円預けてほしいと依頼(書簡222)。
12月20日前後 父へ返信(書簡223)。重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替てもらっていること、農学校へ画の複製五七葉額縁大小二個を寄贈したことをしらせる。
12月23日 父あて報告(書簡224)。二一日小林家から二〇円だけ受けとったこと、二九日の夜発つことをしらせる。
ということだから、賢治はほぼまるまるこの年の12月は上京し、滞京していたことになる。
 そしてそもそも、「羅須地人協会時代」に現金収入の目処など全くなかった賢治が、どうやってこの時の上京・滞京費用を工面したかだが、次のような三つが主に考えられるだろう。
  ・蓄音器(〈注六〉)の売却代
  ・持寄競売売上金
  ・父からの援助
次に、それぞれについて少しく説明を付け加えたい。
 †蓄音器の売却代
 当時賢治と一緒に暮らしていた千葉恭のこのことに関する次のような2つの証言が残っている。その一つ目は、
 雪の降つた冬の生活に苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。…(筆者略)…雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円迄なら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがらを見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮んだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが、「先生のものですなーそれは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円私の手に渡して呉れたのでした。…(筆者略)…。「先生高く賣つて來ましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差出した金を受取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何んだか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して嬉んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。先生は非常に正直でありました。三百五十円の金は東京に音樂の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。
<『四次元 9号』(宮澤賢治友の会)21p~>
というものであり、そして二つ目は、
 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私はその金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論行かず、そのまま十字屋に帰(ママ)して来た。蓄音器は実に立派なもので、オルガン位の大きさがあつたでしょう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。
<『イーハトーヴォ復刊5』(宮沢賢治の会)11p >
というものである。はたして似たようなことが2度もあったのか、それとも千葉恭の記憶違いなのか現時点では明らかになっていないが、少なくともどちらかの1回はあったと判断しても間違いなかろう。そしてその売却代金は上京費用の捻出のためであったと判断してもほぼ間違いなかろう。
 †「持寄競売」売上金
 この「持寄競売」については次のような二つの証言がある。
 「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ……。」などと云って、本だのレコードだのほかの物もせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。
   <飛田三郎「肥料設計と羅須地人協会(聞書)」(『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』、筑摩書房、284p~)>
 また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。
  <伊藤克己「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、396p)>
 ではどうしてこの「持寄競売」売上金が上京費用捻出のためであったと判断できそうだと言えるのかだが、上京前の11月22日に賢治が「これを近隣の皆さんに上げて下さい」(「地人協會の思出(一)」(『イーハトーヴォ6号』(宮沢賢治の會))と言って伊藤忠一に配布を頼んだ案内状の中にこの「持寄競売」に関して具体的に書かれているからである。さらには、このような「持寄競売」を他日にも行ったという証言は残っていないから、この周知を図った「持寄競売」には何等かの狙いがそこにはあったと考えられる。しかも、賢治は12月1日に開いた「持寄競売」のなんと翌日に即上京しているようだから、常識的に判断してそこにその狙いがあったということになろうからである。
 †父からの援助
 このことについては、滞京中の政次郎宛書簡(222)から明らかになる。
 さてこのようにして賢治は上京費用を調達して、周知のように一ヶ月弱の滞京していたわけだが、故郷のこの時の旱害の惨状をどのように彼は認識していたのだろうか。この時の滞京に関しては、『新校本年譜』によれば、
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習する、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』326p>
ということだし、父政次郎に宛てた当時の書簡によれば、
・築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。(12月12日付書簡221)
・おまけに芝居もいくつか見ました(12月15日付書簡222)
・止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送(12月20日前後書簡223)
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
ということだから、オルガンやエスペラントのことはさておき、もし賢治が旱害に苦悶する赤石村等のことを知っていれば、巷間「貧しい農民たちのために献身した」と云われている賢治ならば、普通これらの3項目は躊躇っていたであろう。
 また、書簡(222)に書いている、「第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました」などというようなことはせずに我慢していたであろう。まして、「どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます」などというようなとんでもない高額の無心は毛頭考えもしなかったであろうし、できなかったであろう。
 しかし実際はそうでなかったということからは逆に、大正15年12月の賢治は滞京中だったので遠く離れた故郷の農民達の大旱魃による苦悶をおそらく知らなかったということも推測される。

〈注六:本文19p〉平成11年11月1日付『岩手日報』は、
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。
ということがわかったと報道しているから、この520円は大正15年6月に支給され、しかもその大金は「高級蓄音器」の購入のためにすぐに使われたと言えそうだ。仮にこれだけの大金520円を上京時にまだ持っていたとすればこの蓄音器を売却する必要はなかったはずだからである。また常識的に考えて、その一時恩給(退職金)がなければ、収入の当てなどまずない「羅須地人協会時代」の賢治はそのような高級蓄音器は買わなかっただろうし、買えなかったであろう。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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