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大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援

2024-01-10 16:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》

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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援
 さて、これで甚次郎の実践、とりわけ賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)に従ったそれについては徹底していたし、継続的に続けられていたことがわかったのだが、不安が増してくるのは賢治の方の実践である。管見故か、甚次郎の実践のような賢治のそれを思い付かないからだ。
 そこで、どうやら私は今まで賢治のことを良心的に見過ぎていたのかもしれないということが頭の隅をよぎり始め、そんなことに思い悩んでいた頃、『𡈽に叫ぶ』の巻頭、
      一 恩師宮澤賢治先生
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p >
を読み直して、「旱魃に苦悶する赤石村のこと…道々會ふ子供に與へていつた」に目が留まった。そこからは、大正15年の赤石村では旱害が甚大だったということなどがおのずから導かれるからだ。
 そこで『新校本年譜』を見てみると、昭和2年について、
三月八日(火) 盛岡高農農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。…(筆者略)…
「松田甚次郎日記」は次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9. for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
2. 生活 其他 処世上
[?]pple
2.30. for morioka 運送店
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
となっていて、この日が甚次郎が初めて「下根子桜」を訪れた日であるということははっきりしているのだが何か変だぞと直感した。そうだ、そこには甚次郎が赤石村を慰問したとは記されていない!
 幸いその後、何度か甚次郎の故郷新庄を訪れることができて私は甚次郎の日記を直接見ることが叶って、大正15年の彼の日記を見たならばその12月25日(10p参照)には次のようなことなどが書かれていた。
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況
及策枝(?)国庫、縣等ヲ終ッテ
國道ヲ沿ヒテ南日詰行 小(ママ)供ニ煎餅ノ
分配、二戸訪問慰問 12.17
for moriork ? ヒテ宿ヘ
後中央入浴 図書館行 施肥 noot
at room play 7.5 sleep
<大正十五年の『松田甚次郎日記』>
 よってこの日記に従うならば、旱害によって苦悶していた赤石村を甚次郎が慰問していたのは実は大正15年12月25日であったということになろう(おそらく甚次郎は、この日は大正天皇が崩御した日だったからそれを憚って巻頭にはあのように書いたに違いない)。
 さて、これで一応疑問は解けたのだが新たな疑問が生じてきた。甚次郎が「小(ママ)供ニ煎餅」を配りながらこの村を見舞ったというくらいだから、この時の赤石村の旱害は甚大であり、かつその惨状は広く知られていたということになるだろうから、「下根子桜」に移り住んだ賢治は「貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた」と思っていた私からすれば、まさにそのような活動を賢治が展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだがそれが為されてはいなかったのではなかろうか、という疑問がである。
 そこでまずは、当時の赤石村の旱害等に関する『岩手日報』の関連記事を調べてみた。すると例えば、以下のような報道等がなされていた。
◇大正15年12月7日
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
(日詰)五日仙臺市東三番丁中村産婆學校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙を添へ小包郵便が届いた文面に依ると
 日照りのため村の子供さんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私の苦學してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので晝飯持たぬ子供等に分配してやつた
 この記事から推測されることは、赤石村を含む紫波地方の旱害の惨状は岩手県内だけでなく、宮城県は仙台にまでも知れ渡っていたであろうことである。
◇同年12月15日
 赤石村民に同情集まる
     東京の小學生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波赤石地方の農民は日を經るに隨ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感泣してゐる數日前東京淺草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から川村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまつてゐることをお母から聞きました、わたし達の學校では今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかつたので、お小使の内から僅か三圓だけお送り致します、不幸な人
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった 
々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
 したがって、これらの報道からは、この年の赤石村等の旱害による農民の窮状は東京方面でも知られるところとなり、そのことを知って小学生でさえも救援の手を差し伸べてきたことがわかる。
 もちろん地元でも義捐の輪は広がっていて、
◇同年12月16日
かねて勞農党盛岡支部その他縣下無産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の慘狀義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締きり日たる十五日には十二円八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出發し悲慘な村民を慰める事となつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害慘状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販賣しそのあがり高を全部、赤石小學校児童に寄附することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた
というように、労農党盛岡支部や紫波郡彦部村第二消防組なども義捐金を寄付したりしていた。
 あるいは、
◇同年12月20日
  在京岩手學生会 旱害罹災者を慰問
    學生及先輩有志より醵金をして寄附
東京岩手學生會は紫波地方かん害罹災者慰問の計畫を樹てその第一案として學生より醵金をする事第二案としては先輩有志より醵金する事になり今囘實狀調査のため明治大學生佐々木猛夫君來縣したなほ第三案として學生が縣の木炭を販賣してその純益金を救濟に向くべく決定し同上佐々木君は本縣の木炭業者に交渉する使命をもつて來たのであると佐々木君は語る
 かん害救済の事については此のあひだ東京廣瀬、田子、柏田の各先輩及び學生があつまつて相談をしましたが何れ實地調査してから積極的の方法をとらふといふ事にきめました。學生の木炭販賣は既に秋田學生會でも實行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の學生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
というように、在京学生も動き出し始めていた。また、地元の青年や少年たちも同様で、
 紫波旱害に同情 一関靑年有志が
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲慘なる狀態に同情し一の關靑年有志は本月十八日午後五時關(?)座に於て活動寫眞會を開會し純益金を赤石村民救済資金として贈る事にした
という報道もあった。
 そして、甚次郎が赤石村を慰問した25日の3日前には、
◇同年12月22日
  米の御飯をくはぬ赤石の小學生
    大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同勞働組合吉田耕三岩手學生會佐々木猛夫兩氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張しなほ役場學校について調査したが、その要領左の如し
一、役場
(イ)植附け反別は四百一反(ママ)(正しくは町)歩でかん害總面積は三百十五町歩、その中全然収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸數は百六十戸である(同村の總戸數は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出來る)このうち小作人の戸數は六十戸である。    …(筆者略)…
二、學校
全然晝飯を持參せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は晝飯を持參されぬ事を申出でゝ役場の救濟をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又學用品を給與した者は十六人であるが、晝飯の内に麥粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
というような赤石村の旱害関連報道があり、特に、この記事の中の「同村三分の一は米一粒も取らなかつた」という旱害の酷さに吃驚してしまうし、学校に弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。
 したがって、甚次郎はおそらくこの12月22日の記事を見て居ても立ってもいられなくなって、同25日に赤石村を慰問したに違いない。
 とまれ、大正15年の紫波郡、とりわけ赤石村は未曾有の旱害に見舞われということが広く知られ、遠く都会の小学生を含む多くの人々からの義捐が陸続と届いていたのであった。そしてその中の一人に甚次郎もいたということになろう。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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