みちのくの山野草

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さらに増した『新校本年譜』379pの「推定」の危うさ

2016-08-28 15:32:26 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 この度、大正15年8月18日付『岩手日報』を見ていたならば、次のような新聞報道があった。
 稗貫郡下に稻熱病發生
被害水田約十町餘
氣候が最大原因
(花巻)本年は氣候に激變が多かつた關係上か稗貫郡内の水田中に稻熱病がボツボツ發生し被害水田十町餘にわたる模樣である、郡農會あたりの調査によると宮野目村が最も多く、ついで、八幡、八重畑、花巻川口町下根子附近に發生してゐる。郡農會・伊藤技手は
 先月の二十日前に非常に暑かつたがその後雨が多くつづいて、曇天と來て居るから第一に氣候が最大原因をなしてゐる樣だ、それからかん魃のため苗代から本田に移植する時季がおくれたので早苗中に既におかされて居たものもあった
 肥料の配合宜しきを得なかつた水田にも發生してゐるが昨年にくらべて、大分被害面積が多くなつたのは天候がわるいからであらう
 私はこれを見て、一寸迂闊だったことを覚った。ついつい、大正15年の紫波郡内は赤石村を始めとして未曾有の大旱害、稗貫もそこまでではないものの旱魃で不作だったと思いがちになるが、そうだった田植え時から旱魃ではあったのだが、大暑頃は多雨であったことをついつい忘れていたからだ。
 そしてこの報道からいえることは、
 大正15年7月20日頃以降花巻一帯は多雨曇天が続き、稲熱病が約10町余発生していた。……①
というのだ。 

 以前〝賢治と稲熱病〟において、『新校本年譜』における昭和三年七月の項の次の記述
   ・七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した〔推定〕
ははたして妥当かということについて考察したことがある。
 もう少し具体的に紹介すれば、同年譜は
 平來作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教えられた事がある。
 先生は先きに立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を圧して見たり又稲株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病気に対しての方法などをわかり易くおはなしして下さった。」とあるが、これは七月一八日の項に述べたこと<*2>や七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)378p~>
という論理で、このように「推定」している。
 これに対して私は、
 昭和3年7月~8月 花巻は日照り続きの毎日だったということが阿部晁の『家政日誌』等からわかるし、『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)によれば例年になく雨量も少ないことがわかるので、論理的に考えてこの時に「多湿が続く」ということはほぼあり得ない。
 つまり、大暑を含む昭和3年の夏に「多湿が続く」ことはなかったことが確実だから、「七月の大暑当時非常に稲熱病が発生」したということは起こり得なかったという蓋然性が極めて大だ。それよりはどちらかというと、この平來作の証言は『阿部晁の家政日誌』から知ることができる天気等から判断すれば昭和2年ことであると私には思われる。この頃はどちらかというと毎年旱魃傾向が強いことが知られていて、そうでなかったのは強いて言えば昭和2年だけだったからだ。つまり、稲熱病が蔓延するための必要条件である「多湿が続く」可能性があったのは昭和3年よりもはるかに昭和2年であったと言えるからだ。
と主張した。
 したがって、この15年8月18日付『岩手日報』によって、〝①〟であることがわかったから、このことから言っても、前掲の「平来作の記述」は少なくとも昭和3年のことではないということの蓋然性がさらにまた増し。逆に言えば、『新校本年譜』379pの「推定」はさらにまた危うさが増してしまった。

 <*2:投稿者註> 同年譜には 昭和3年のこととして
 七月一八日 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠文之進へ依頼。検鏡結果イモチ病とわかる。
とある。
 したがってこの場合の稲熱病の原因は、窒素肥料の施肥過多にあったということも考えられる。それは、賢治が検査を依頼した場合に水稲で最も恐れられる「イモチ病」でないか調べるようにと言わずに、「ゴマハガレ病でないか」と言って調べるよう依頼したであろうことからも窺える。この時賢治は、「斑点の出た稲」が「窒素肥料の施肥過多」によるものでないことを願っていたとも考えられるのである。

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