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みちのくの山野草

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斑目著『雨ニモマケズ』の「内山照子」は捏造

2016-08-28 08:30:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、私は何故
 読んで直ぐに、ああまたもやここにも誰かと同様な創作の臭いがぷんぷんすると思った。
のだろうか。それは、斑目は同書の「あとがき」で、
 この出版についていろいろとお骨折りをくだすつた組坂氏のご友情を謝し、また佐藤隆房著『宮澤賢治』、森荘已池著『宮澤賢治』に二著に負ふところが多かつたことを述べ、あはせてその無禮をおわびいたします。
と述べているが、斑目が
 松の林の丘の上の家つどいくる人人は、日一日とふへていつた。
 その土くさい人人のうちに、ときをり、華やかな色調をそへて、若い婦人がまじるやうになつた。
 この婦人は、内山照子と云ふ近鄕の小學校に奉職してゐる女教師であつた。彼女は、賢治が、近在農村を指導講演にめぐり歩いてゐたとき、たまたま、賢治の講演を、自分の小學校の講堂できいたことが緣となつて、この丘の家へやつてくるやうになつた。
 照子は容貌も近代的な明るさをもち、性格も積極的であつたので、自然、このむさくるしい男どものつどひである協會中での彼女の存在は、まばゆいぐらゐなものであつた。
 照子は、丘の家にくるたびに、そのあたりを掃除したり、よごれものを洗濯したり、靴下の穴かがりをしたりして、まめまめしく働いていた。
「このごろは、うつくしい會員がきて、いろいろとかたづけてくれるから、おほいに助かるす。」
 と、賢治は、柄になく小ざつぱりしたシヤツなどきこんで、若い會員たちをうらやましがらせたり、
「そのうちに、また、農民劇でもあるべ、そのときは、一つ、女のでる芝居をやつて、内山さんにでてもらうべ。」
 と、かるく冗談をとばしたりしてゐたが、照子の賢治に對する尊敬の念は、次第に思慕のこころにかはつていつた。それは、丘の家をたづねるたびに、はげしい炎となつて、彼女の身をこがしていつた。
 照子は、いままで、生き甲斐さへ感じてゐた自分の生活である小さな生徒たちとともにその日その日をすごすことすらが、けふこのごろではくるしくせつなく感じ、夜ごと、そのやるせない胸をかきいだいて、悶えることもしばしばであつた。
 照子は、今日こそは、こころのうちのすべてを、賢治にうちあけやうと、熱い高鳴りをおさへてでかけてくるのであつたが、賢治のあまりにも清潔な、そして、ある一定のところまでは近づけるが、それ以内にはいりこもうとしても、ふみいることのできないきびしさにぶつかると、自分のうちに、あやしく燃える炎が、白日にさらされた惡夢のやうに、あさましくしらじらしくさへ感じた。
 照子は戀するもののするどさで、このごろの賢治の照子に對する態度のうちに、彼女をさけてゐるかげを感じた。
 このごろの賢治は、照子がたづねていくと、妙にそらとぼけたり、必要以上にむづかしげな顏をしたり、用事ありげに」そはそはしたりした。
 こんなとき、照子はなさけなかつた。女がひたむきにささげるなさけを、むげにしりぞける男ごころがうらめしく、にくくさへ思へて、歸るみちみちいくたびか涙したことだらう――。
 しかし、賢治とても、うらめしげな熱い眼差しで歸つていく照子をみると、照子のひたむきななさけがいとほしくも思へるのだつたが、自分の生涯をかけた念願のためには、あらゆる煩悩にうち勝つて、より強い意志と力をやしなはなければならぬのであつたから、賢治は、ここが試練だとふみとどまつてゐた。
            <『傳記小説 雨ニモマケズ 宮澤賢治の生涯』(斑目榮二著、富文館、昭和18年11月20日)185p~>
と述べている中の赤文字部分のようなことは、私の記憶によれば佐藤隆房著『宮澤賢治』では述べられていなかったはずだからだ。

 では、実際には佐藤はどのように書いているのかというと、次のとおりである。
    七八 女人
 櫻の地人協會の、會員という程どではないが準會員という所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集まつてくる男の人たちにいひました。
「ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。」
 と皆もいひ合ひ、
「その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に賴めばいゝと思ふ。どうだね。」
 と賢治さんも期待を持つてをりました。
 ところで、その内田といふ人は、自分が農村の先生でもあるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、便利といつては變だが、やつぱりさういう都合の好い會員でした。はじめは單に賢治さんの仕事の協力者、とふうところで滿足してゐたやうですが、そこが女性で、だんだん賢治さんを思慕するやうになりました。一日に二囘も三囘も訪ねて來、逆にの者や會員の者はいろいろと氣を廻はして、來る足が遠くなつて來ました。
 賢治さんも、結婚といふやうなことも考へたこともあるのでせうが、弟子の田中悦次君や藤井皓一君などに、
「農村にゐて、土を耕してゐたつて詩も出來る。それには身體のうちに持つて居るエネルギーの、たゞの一滴でも外のことに浪費してはいけない。」いつて聞かせてゐました。そんな譯で、當惑しきつた賢治さんは、その女人が來ると顏に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりしてゐました。然し相手の人に何らの期待すべき、疎隔的態度も起りませんので、遂には「今日中不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞をしました。(昭和2年頃)
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)>

 そこで両者を比較してみると直ぐわかるように、斑目が書いている赤文字部分、
 照子は、いままで、生き甲斐さへ感じてゐた自分の生活である小さな生徒たちとともにその日その日をすごすことすらが、けふこのごろではくるしくせつなく感じ、夜ごと、そのやるせない胸をかきいだいて、悶えることもしばしばであつた。…(略)…
 しかし、賢治とても、うらめしげな熱い眼差しで歸つていく照子をみると、照子のひたむきななさけがいとほしくも思へるのだつたが、自分の生涯をかけた念願のためには、あらゆる煩悩にうち勝つて、より強い意志と力をやしなはなければならぬのであつたから、賢治は、ここが試練だとふみとどまつてゐた。
はやはり佐藤隆房の『宮澤賢治』のどこにも書かれていない。しかもこの部分は、「内田康子」や賢治の内心のことであり、斑目には忖度はできても、このような断定表現などできるはずもないことは自明のこと。
 それゆえ私には、ああまたしても、誰かと同様なスキャンダラスな創作の臭いがここにもぷんぷんする。しかも、斑目が参考にしたというもう一冊の森荘已池著『宮澤賢治』には、中学生あたりを対象にして出版したせいでだろう、この赤文字部分のようなことはちっとも書かれていないからなおさらにだ。だから逆に、斑目にはその負い目があったので同書の「あとがき」で、
 この小説は、必ずしも事實に忠實ではありませんでしたが、そのことが、けつして故人への冒瀆とは考へません。ですからあえて傳記小説と稱へず、一介の小説として讀んでいただいてさしつかへないのです。
と言い訳じみたことを述べたのだろうか。もしそうだったとすれば、私からすればそれは語るに落ちるというものだ。そこで斑目に問いたい、
 ならば、何故本のタイトルに『傳記小説 雨ニモマケズ 宮澤賢治の生涯』というように、「傳記小説」と冠したのか。
と。羊頭狗肉ではないか。そして、
 このような書き方は「内山照子」という仮名を付けられたその女性をそれこそ冒涜していることにはなりませんか。
と。

 念のため、もう少し確認しておきたいことがある。それはまず、同時期に出版されたものとして『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)にも高瀬露に関する記述があるので、その確認であり、それらは
         女人
 或る女の人が賢治氏を非常に慕ひ、しばしば協會を訪れました。最初のうちは賢治氏も仲々しつかりした人だ、と言つて居りましたが、段々女の人が大變な熱をかけてくるので隨分困つてしまつたやうです。「本日不在」といふ貼紙を貼つて置いたり、或ひは別な部屋にかくれてなるべく逢はないやうにしたりしてゐたのですが、さうすればする程いよいよ拍車をかけてくるので、しまひには賢治氏も怒つてしまひ、その女の人に辛くあたつた樣です。大きな願望を以て森の中に獨居し、晝夜を分たぬ努力奮勵してゐた賢治氏が、一女人のために勿論身をあやまるやうなことはないにしても、苦しまれたことは事實です。或る日父上政次郎は「その苦しみお前の不注意から起きたことだ。始めて逢つた時に甘い言葉をかけたのがそもそもの誤り。女人に相對する時はげらげら笑つたり胸をひろげたりすべきものではない。」と嚴しく反省をうながされました。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)190p~>

         返禮
 賢治を慕ふ女の人がありました。勿論賢治はその人をどうしやうとも考へませんでした。その女の人が賢治を慕ふのあまり、毎日何かを持つて訪ねました。當時は羅須地人協會にたつた一人の生活をして居られたのですから、女の人も訪ねるのには都合がよかつたでせう。他の人にものを與へることは好きでも、他から貰ふ事は極力嫌つた賢治ですから、その女の人から食物とか花とか色んなものを貰ふたびに、賢治はどんなに恐縮したことでせう。そしてそのたびに何かを返禮してゐた樣です。
 そこで手元にあるものは何品にかまず返禮したのですが、その中には本などは勿論、布團の樣なものもあつたさうです。女の人が布團を貰つてから益々賢治思慕の念をつよめたといふ話もあります。後で賢治は其の事のために少々中傷されました。
            < 同 193p~>
である。
 そしてもう一つ、高瀬露に関して一番最初に公になったと思われるのが『イーハトーヴォ 創刊号』所収の高橋慶吾の「賢治先生」であり、そこには、
 某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顏に灰を塗つて面會した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。又、その頃私がおうかがひした時、眞赤な顏をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ歸つて下さい。」と言はれた事もありました。
 お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に對して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて會つた時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に對する時は、齒を出して笑つたり、胸を擴げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が惡かつたのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
            <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)>
と述べられている。
 これらが、斑目が同書を出版する以前に公になっていた、あるいはその可能性のある高瀬露に関する情報であり、これらの中にも先の赤文字部分に関する情報は一つもない。というわけで、赤文字部分の情報は本来ならば斑目には得られないものであり、常識的に考えればその裏には公にできない何かがあるということになろう。だから、それが明らかになっていない現時点で言えることは、
    斑目著『雨ニモマケズ』における「内山照子」についてはかなりの捏造がある。
ということである。それは、いみじくも斑目が「必ずしも事實に忠實ではありませんでした」と言い訳しているとおりのことがそこにあったと言えるだろう。そしてなおかつ言っておかねばならぬことは、「内山照子」を、延いては高瀬露を「冒涜している」ということである。

 つまるところ、『傳記小説 雨ニモマケズ 宮澤賢治の生涯』の前掲引用部分を調べて私なりに見えてきたことは、
 『傳記小説 雨ニモマケズ 宮澤賢治の生涯』における「内田康子」に関する創作部分は、「宮澤賢治と三人の女性」(森荘已池著)における〈悪女・高瀬露〉の捏造のいわば先駆けであった。
と見られなくもないということだ。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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