みちのくの山野草

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浅沼稲次郎のある示唆

2015-09-08 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 豊田穣が『浅沼稲次郎 人間機関車』において次のようなことを紹介していることをこの度初めて知った。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災の2、3日後のこと、農民運動社に泊まっていた浅沼稲次郎は夜中の一時過ぎに兵隊によって揺り起こされ、戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶち込まれ、次に市ヶ谷監獄に入れられたという。そして約一ヶ月後保釈された浅沼は早稲田警察の特高から、
「本来ならば引きつづき当署で留置すべきところであるが、神妙にして郷里で謹慎していれば大目に見よう。また出てきたら検束する」
といわれ、さすがの人間機関車も、それ以上悪名高い特高でリンチに耐える自信もなく、孤影悄然として三宅島にかえった。大正十二年十月のことである。
              <『浅沼稲次郎 人間機関車』(豊田穣、岳陽書房)113pより>
 これは、浅沼自身が著した『私の履歴書』に基づいて豊田が述べたもののようであり、あの浅沼のことだから、この話に嘘はまずなかろう。つまり、
  浅沼は特高から「検束されたくなければ実家に戻って謹慎していろ」と迫られ、大正12年10月に実家のある三宅島に帰った。
ということはほぼ事実であった、と言えよう。そして私は、そうか、あの浅沼でさえもそういう辛い選択をせねばならなかったことがあったのかと同情すると共に、その浅沼の判断を責めることもまた酷なことだと思った。
 一方で、やはりそうなんだ、
    特高は当時、危険分子と目した人物に対して「謹慎か検束か」という取引策も用いていた。……①
ということはほぼ確実であり、そしてこの取引策によっては万やむを得ず「謹慎」を選択せざるを得なかった実例があったということを初めて認識した。

 そして同時に、私は次のことを思い出した。それは、『土着社会主義の水脈を求めて』の中における大内秀明氏の次のような見方をである。
 羅須地人協会の賢治が、ロシア革命によるコミンテルンの指導で、地下で再建された日本共産党に対抗して無産政党を目指した「労農派」の「有力なシンパ」だったこと。社会主義者の川村や八重樫とレーニンのボルシェビズムなどを激しく議論していたこと。そのため岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
 …(投稿者略)…昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻でも天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が予防検束で東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとした。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐が通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
              <『土着社会主義の水脈を求めて』(大内秀明・平山昇共著、社会評論社)302pより>
 そこで大内氏のこの見方に倣えば、昭和3年、官憲から「検束か謹慎か」を迫られた賢治は、父母の計らいがあったり周りへの配慮等もあったりして、万やむを得ず謹慎の道を選んだということは、浅沼の場合と同様に十分に起こり得たことであると得心した。

 以前私は、『羅須地人協会の終焉-その真実-』において、
 昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。……②
ということを実証したつもりだが、当時特高は〝①〟という取引策を用いていたであろうということ、そしてその策を用いられて万やむを得ずあの人間機関車でさえもそれにしたがって謹慎を選んだということをこの度知ったことにより、いわば
    浅沼稲次郎の示唆により、〝②〟の現実味はさらに増した。
と言えるということを私自身は改めて確信した。

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