みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

おわりに

2015-09-09 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、ここまで調べてきていま賢治の昭和3年を振り返ってみて特に思うことは何かといえば、次の2点である。

 一点目は、6月の「伊豆大島行」を含む上京の主な目的はちゑとの見合いのためだったなどということではなくて、佐藤竜一氏の主張通り、「逃避行」であったのではなかろうかということだ。そもそも6月のこの時期といえば農家にとってはまさに田植え時の農繁期なのだから、何もわざわざこのタイミングを選んで賢治は上京せずともよかろうにと私には思える。それどころか、私達が頭の中に描いている「賢治」であれば、周辺の農民への稲作指導のためにそれこそ「徹宵、東奔西走」している頃のはずだ。どう考えても、この農繁期に遥か遠く伊豆大島まで出かけねばならないほどの緊急性も必然性もともに思いつかない。しかし賢治はそれを実際にしていたのだから、賢治は伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったということが逆に導かれる。
 したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは単なる「現実からの逃避行」というのではなくて、これは大内秀明氏の著書やご教示から学んだことなのだが、実はもっと差し迫った「逃避行」であって、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、追及を紛らわすためであり、あるいはもしかすると伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も考えられる(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえに七雄の妹のちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得る)。

 その二点目は、かつての「賢治年譜」には皆、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
と書かれていたから、賢治が8月の10日に実家に戻ったのはこの年譜通りだと多くの読者が思わされているはずだが、どうも真相はそうとは言い切れず、それよりは
 昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍特別大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。
という仮説を立てて検証してみたところ、この仮説の反例は今のところ見つかっていないから、この仮説の方がより真相に近いと言えるということだ。
 また、この頃の賢治については、佐藤隆房が述べているように、
12月に入る前までは、「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました」ということであり、「たいした発熱があるというわけではありませんでした」
12月に入ると、「どうにも普通のやうではなくなつてをりました」ということであり、「突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました」
ということが、そして、賢治の付添看護をした安藤のぶ等の証言に基づけば、
・12月半ばから賢治は重篤になったので、安藤のぶと看護婦Tの二人は賢治の実家に出張して看護していた。
というあたりが真相であったと言えるだろう。

 なお、あの浅沼稲次郎も関東大震災直後、特高から「検束か謹慎か」と迫られて後者を選んだように、昭和3年に岩手で行われた凄まじい「アカ狩り」の際に万やむを得ず賢治が「謹慎」という道を選んだとしても、誰もそれは非難できないことであり、それは当時ならばよくある話だったはずだ。

 とまれ、ここで述べた私見は通説とはかなり異なるが、少なくともそれよりは資料や証言に基づく限りは合理的で妥当な判断であると私は自信を持っている。反論を待ちたい。

 続きへ
前へ 

 “『昭和3年の宮澤賢治』の目次”に移る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 葛丸川沿い(9/3、その他2) | トップ | 花巻広域公園(9/5、アザミ) »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
御礼とお伺い (大内秀明)
2015-09-09 12:04:50
 鈴木さん、ご苦労様でした。ありがとうございます。賢治も喜んでいると思います。
 21日の賢治祭の日、イーハトブ館で、朗読に参加します。先日お引き合わせしたメンバーも一緒ですが、お時間があれば宜しく。
返信する
こちらこそありがとうございました (大内様(鈴木))
2015-09-09 13:35:42
大内 秀明 様
 いつもいろいろとありがとうございます。お陰様でなんとかこここまで辿り着くことができました。
 恥ずかしながら、どうも私は考えが偏狭なのでパースペクティブな見方や柔軟な考え方ができない傾向にあります。そこへ幸いなことに、大内先生のご高著を拝読し、ご高見を拝聴することができまして、例えば
◇岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険があり、そのため父母の計らいもあって、
◇賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。
◇「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐が通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
というような見方ができるということを学ぶことができ、本来の私からすれば視野を拡げることができましたからです。改めて御礼申し上げます。

 ところで、「21日の賢治祭の日、イーハトーブ館で、朗読」とは、
 9月21日 午後1時~4時第19回 「舞台表現・賢治の里で賢治をよむ会」於:宮沢賢治イーハトーブ館
のことでしょうか。実は当日は「賢治祭」において「スピーチ」を頼まれているのですが、何とか前日までには原稿を書き上げて、朗読を拝聴しにイーハトーブ館に駆けつけたいと思います。
                                                              鈴木 守

返信する
ご心配なく (大内秀明)
2015-09-10 11:15:55
 9月21日、「賢治の里で賢治を読む会」です。ただ、われわれの朗読、学芸会のような低レベルで、どうかご放念ください。ご多忙なのに、失礼してしまいました。
返信する

コメントを投稿

昭和3年の賢治」カテゴリの最新記事