みちのくの山野草

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「農本主義」私の理解

2021-01-21 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『農本主義と天皇制』(綱澤 満昭著、イザラ書房)〉

 ところで、そもそも「農本主義」の定義とは一体どんなものか。「農本主義」を扱った著作は少なからずあるが、内包的定義をしているものは見つからず、多くは外延的なそれであったからである。
 そこで、困った時の神頼み、『広辞苑』を見てみると、
 【農本主義】農業をもって立国の基本とし、従って農村をもって社会組織の基礎としようとする立場。
と定義されていた。
 するとこの定義に従えば、あの
 『土に叫ぶ』をはじめ、松田の著作を虚心に読めば、斎藤の指摘が正鵠を得ていることは明らかなのだが、「農本主義」というレッテルがそれを妨げている、というのが現実である。
という指摘の中の「「農本主義」というレッテルがそれを妨げている」というこの「農本主義」が、とりたたて「妨げている」というものが私には思い当たらない。甚次郎が当時取り組んでいたことは、まさにこのような「立場」に立ったものだと言えるし、その取り組みは農村青年を始めとして多くの人々から支持され、敬慕されていたからである。
 ということは、松田甚次郎に貼られた「「農本主義」というレッテル」は、広辞苑の定義している「農本主義」ではなく、もっと違った属性もあるそれだと推測される。

 そこで今度は、『精選版 日本国語大辞典』の解説を見てみたならば、
【農本主義】〘名〙 農業や農村生活を立国の基礎としようとする主義、方針。近世末、封建社会が崩れ始める時期に反商業主義・反近代の立場から主張され始め、資本制社会にはいってからも、農村恐慌に際してしばしば超国家主義的イデオロギーとして機能した。日本では特に国粋主義と結びつく傾向が強かった。
と解説してあった(これなら、私のぼんやりとした認識にも近い)。
 さらに、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』を見てみると、「農本主義」について、
 農業生産と農村共同体こそが国家と民衆存立の基礎であるとの主張をいう。明治以降,小農業生産の危機と農村共同体の解体が進行するにつれて,農本主義の主張は強まってきた。とりわけ昭和初年の農業恐慌による中小農民の没落は,日本村治派同盟の結成 (1931)をはじめ,権藤成卿,橘孝三郎ら農本主義者の急進的活動を促した。農本主義者の思想にはさまざまな系譜があるが,その共通性は反資本主義と村落共同体的志向にある。だが農本主義は革新思想にはならず,国民共同体的志向の点から右翼思想につながり,社会主義思想と対立しつつ日本ファシズムの精神的支柱の一つとなった。
と解説していた。
 したがって、これらの二つの解説は基本的にはほぼ同じであり、しかも私がここまで調べてきた「農本主義」もそのようなものであった。そこで、現段階では私にはまだ内包的定義ができてはいないものの、
 「農本主義」の必要条件としては、
  1 農業や農村生活が立国の基礎
  2 反商業主義・反近代志向
がある。
ということは私なりには明らかにできた。なお必要条件とまでは言えないが、
 当時の農業恐慌の際には、日本の農本主義は国粋主義と結びつく傾向が強かったし、戦前・戦中は日本ファシズムの精神的支柱の一つとなった。
ということも少なくとも言えそうだ。

 すると真っ先に思い出すのは、大正15年4月1日付『岩手日報』のあの新聞報道における賢治の発言
現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、…投稿者略…そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
である。というのは、実はそうではなかろうかと以前から私は思ってはいたのだが、先の必要条件「1、2」とこの新聞報道によれば、どうやら、
   宮澤賢治は農本主義者とまでは言えなくとも、かなりそれに近かった。
ということは言えるからである。
 そしてそれはどの程度のものかというと、吉本隆明が、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
             〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p
という「そんなていど」のである。
 そして同時に私がほぼ確信できたことがもう一つ、
 松田甚次郎は「そんなていど」の農本主義者よりも、「もっと実践的にやった」。さりとて、五・一五事件に関わった農本主義者橘孝三郎や、満蒙に多くの青少年を送り出した農本主義者加藤完治の「日本ファシズム」とはほど遠い「農本主義者」であった。
ということである。言い方を換えれば、
 農本主義者であった橘孝三郎や加藤完治に対する評価にはかなり厳しいものがあるが、それに較べると松田甚次郎はそのような農本主義者ではなかった。そして実践内容と期間という観点からは、賢治は甚次郞と較べればそれほどの農本主義者ではなかった。
と言えそうだ。
 そしてこのことは次回触れる予定だが、当時は農本主義思想は「百花繚乱の状」を呈していたそうで、そういう時代の流れの中で賢治も、甚次郞も、橘孝三郎もそして加藤完治も生きていた、つまり、四人四通りの農本主義思想を持っていたということになりそうだ。

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