みちのくの山野草

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五・一五事件における橘の振る舞い

2020-11-14 12:00:00 | 甚次郎と賢治
《『農本主義のすすめ』(宇根 豊著、筑摩書房)》

 さて、昭和7年5月15日に、海軍の青年将校たちを中心にして、陸軍の士官候補生や橘孝三郎率いる愛郷塾の農村青年らが反乱事件を起し、犬養首相を殺害した という、いわゆる五・一五事件が起こったわけだが、ちなみに、宇野豊氏はこの事件について、
 橘孝三郎たちの農本主義社会を実現するための革命(決起)は、昭和七年五月一五日の午後七時から一時間ほどの短い時間で終わりました。塾生のうち実行部隊の青年六人「農民決死隊」は軍人たちとは別行動を取り、手分けした六ヵ所の変電所を襲い、手榴弾を投げますが、爆発した二ヵ所も停電には至らず、逃亡先で逮捕されます。橘の「百姓に人殺しはできないから、せめて東京を二、三時間まっくら闇にしてみたい。それが都会中心主義に対する百姓たちの襲撃だと分かったら、都会の人たちは少しは反省するかも知れない」という夢は実現できませんでした。
 軍人たちはよく知られているように、四組に分かれて午後五時頃から、犬養首相を射殺し、牧野内大臣官邸に爆弾を投げ入れ、警視庁に押し入ってビラをまいたぐらいで、ほぼ一時間後には全員が憲兵隊に自首しました。
 橘はこの決起は失敗すると見抜いていたようです。やむにやまれず立ち上がるのですから、それも承知の上だったのでしょう。彼は塾生たちが事件後、逃亡してこられるように五月一二日に東京を発ち満州に渡って待つことにしました。その後、彼の逃避行は二ヶ月におよび、…投稿者略…七月二四日にハルピンの憲兵隊に自首しました。
              〈『農本主義のすすめ』(宇根 豊著、筑摩書房)51p~〉
と解説している。
 そこで、この解説に従えば、
    昭和7年5月12日に橘孝三郎は東京を発って渡満
となるし、
    昭和7年5月15日に五・一五事件にが勃発
したのだから、私は橘のこの振る舞いは許せない気がする。
 それは、先の投稿において私は宇野氏の『農本主義のすすめ』によって
    昭和七年三九歳の時に、若き塾生たちを引き連れ、軍人たちとともに五・一五事件で「革命」に決起したのです
ということを知っていたので、なんだ、橘は「若き塾生たちを引き連れ」とは言えないじゃないか。事件を起こす前に「若き塾生たち」をうっちゃって、自分は海外に逃亡したと言われかねないからだ。もし、「橘はこの決起は失敗すると見抜いていた」のであれば、「彼は塾生たちが事件後、逃亡してこられる」ことができないこともまた「見抜いていた」はずだからだ。所詮、「彼は塾生たちが事件後、逃亡してこられるように」は後の言い訳にすぎないのではないですか、と私は言いたくなる。どうも、橘には「いい加減さ」があることが私には垣間見えてしまった。   

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