みちのくの山野草

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〔施肥表A〕と石灰窒素

2021-01-21 18:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
《『東北砕石工場の坑道』(平成20年12月4日撮影)》

 この度、たまたま
を見ていたならばその中に、次のような記述があって気になった。
 肥料・施肥の移り変わり
 
 農業の発展の進歩を測る目安としては、農作物の単位あたりの収量や生産量は最も分かりやすい「ものさし」といえます。その農作物の収量に最も影響を与えるものが肥料です。

 弘化4年(1847年)に書かれた「軽邑耕作鈔」によると、当時の生産資材は厩肥・草木灰・人糞尿など、身近で得やすい自給肥料が中心でした。
 大豆・魚粕などが、購入肥料(金肥)として使われるようになったのは、大正7~8年頃のことです。
 昭和初期には、化学肥料も徐々に使われるようになりましたが、本県における施肥の主体は、依然として自給肥料と大豆・魚粕でした。

 その後、硫安、石灰窒素、過石、加里などの化学肥料が急増し、昭和14年に戦前使用量のピークを迎えました。戦時中は、兵器の製造が優先されたため、化学肥料の生産・使用は激減し、戦前のレベルまで回復したのは、昭和23年頃と記録されています。
 化学肥料の無かった明治~大正~昭和の物不足の時代を経て、戦後に化学肥料が低価格で大量に供給された頃から、水稲をはじめ農作物の収量は、飛躍的に増加したと言えます。

 それは特に、
 その後、硫安、石灰窒素、過石、加里などの化学肥料が急増し、昭和14年に戦前使用量のピークを迎えました。
の部分にであり、あれっ、賢治の〔施肥表A〕に「石灰窒素」の項はあったっけ?、と疑問を感じたからだ。この記事に従えば、時代的には、賢治は当時「石灰窒素」を使って施肥表を作っていた可能性があるからだ。

 そこでまず、現在知られている〔施肥表A〕〔一〕~〔二三〕の全て、二十三枚について以前に調べた石灰岩抹等の記載を確認してみると下表のとおりだ。

つまり、「石灰窒素」については私は調べていなかった。
 一方で『日本石灰窒素工業会…技術情報…』によれば、「石灰窒素」とは、
 石灰窒素には酸化カルシウムとして石灰が約60%含まれております。これは肥料用消石灰(水酸化カルシウム)とほぼ同じ含有量になります。
ということだから、この表に入れるべきものだったのかもしれないと思ったので早速慌てて調べてみた。
 すると、『新校本 宮沢賢治全集〈第14巻 下〉雑纂 本文篇』を再び見直してみたならば、「石灰窒素」の欄があったものは、
   〔四〕〔八〕〔一〇〕〔一一〕〔一四〕〔一七〕〔一九〕〔二〇〕〔二一〕
の計9枚もあったので当時も肥料としては存在していたであろうことはわかったが、数値の記載されていたものは、
   〔二一〕三貫 
のたった一枚だけであり、賢治は「石灰窒素」をほぼ使っていなかったと言える。しかも、前掲の記述に注意すれば、「肥料用消石灰(水酸化カルシウム)とほぼ同じ含有量」ということだから、「消石灰」とほぼ同じようだ。そして、賢治は消石灰については速効性があるからそれを避けて、遅効性の石灰岩抹を勧めていたわけだから、私は、消石灰は初めから考察の対象とはしていなかった。ついては、「石灰窒素」についてはもう少し調べてみる必要性はありそうだが、先の論文『宮澤賢治の「稲作と石灰」について』を修正する必要性は現時点では基本的にはなかろう、とひとまず安堵した。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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