みちのくの山野草

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加藤完治の責任

2021-01-20 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『農本主義と天皇制』(綱澤 満昭著、イザラ書房)〉

 そもそも加藤完治のおいたちなどは如何なる人物だったのだろうか。そこで、『満蒙開拓青少年義勇軍』(上笙一郎著、中公新書)や『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)などで調べてみると、
 加藤完治は明治11年1月22日に東京本所の旧士族の家に生まれ、第四高等学校(旧制)時代に女性宣教師に導かれてクリスチャンになり、その頃は天皇から乞食に至るまで皆キリスト教に改宗せねばとさえ思ったほどであるという。
 ところが、東大を目指しての3年間の浪人生活や、結核を患う恋人との短い結婚生活などが原因となって熱烈な天皇制的農本主義者に変わったという。キリスト教信仰を見失った加藤は夏の赤城山で大嵐にあって死にかけたことから突如生きる意欲を取り戻し、「生きるということを極めた以上は、衣食住というものがなければ生きてゆくことが出来ない。その生を徹底するためには、第一ここに衣食住というものがなければならぬ。その生産をする農業というものは尊い業務だ」と思うに至ったということらしい。
 東大卒業後、帝国農会や内務省に務めて中小農の保護調査に従事したが、人生問題に悩んだ末に農民と生きる決意をし、1913年に農本主義者山崎延吉が校長をしていた愛知県立安城農林学校に赴任。1915年、デンマークの国民学校をモデルにして山形県に創設された山形県自治講習所の初代所長に推薦される。
 さらに、1922年からの1年4ヶ月のヨーロッパ視察後、石黒忠篤の勧めで1926年に茨城県友部町宍戸に「日本国民高等学校」を創立し、加藤は校長となって農民子弟教育にあたった。この「日本国民高等学校」とは、校長の人格が教育の基本をなすというデンマークの国民高等学校本来の理念を追求する民営の全寮制私塾であるはずだったが、現実には筧克彦の古神道に基づく農本主義思想を鼓吹するという加藤の教育方法は、デンマークのそれとは全くちがっていたという。
 そして、1931年に満州事変が起こると加藤は東宮鉄男(満州農業移民の基礎を築いた人物、張作霖爆殺事件の立案・実行者の一人とも)と共に満州農業移民計画を取り進めたという。1932年に始まった満州への成人からなる第一次武装移民等の失敗に鑑み、「純真ノ少年」は武装移民に適性があるという考えに東宮は至ったようだ。一方、加藤は国民高等学校の生徒の内で農家の二、三男の卒業後の身の立て方について思い悩んだ結果、辿り着いた結論が中国大陸への移民であった。そこで加藤は満蒙開拓青少年義勇軍の設立にかかわり、1937年に茨城県内原へ移転した日本国民高等学校に隣接して、1938年(昭和13年)満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所を開設し、翌年加藤は同訓練所の所長となった。
のだそうだ。
 そこでもう一度『満蒙開拓青少年義勇軍』(上笙一郎著、中公新書)に戻ってみると、敗戦直後以降の加藤完治に関しておおよそ次のようなことも上は語っていた。
 昭和20年8月15日の正午、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の訓練生及び職員全員は大食堂に集まって玉音放送を聴いたが、その放送が無条件降伏を告げるものだと判ると加藤完治は所長室へ戻りそのまま号泣していたという。
 周りの人々はこの敗戦を受けて加藤は自決するのではなかろうかと思った。なぜなら、熱烈な天皇制的農本主義者であり、大東亜戦争の遂行こそ天皇の御心に副うことであると信じて農民や訓練生たちを叱咤激励して来た加藤にすれば、天皇及び彼らに対する責任から当然自決するだろうと思うのが常識だったからだ。
 しかし、加藤は自決などしなかったし、一方では戦犯として捕らえられるかもしれないという噂も飛び交ったがそれも免れた。とはいえ、戦争協力者としての公職追放処分を逃れることはできなかったし、滔々と流れ始めた民主主義の風潮の下、ジャーナリズムにより加藤は痛烈に批判・論難を浴びた。
 そこで加藤はなるべく風当たりを少なくしている他に道はなく、敗戦後もなお彼を慕う幹部訓練所の訓練生60名を引きつれて福島県の荒蕪地に入植し、そこで一緒になってひっそりと鍬を振るい始めたのである。
 ところが一転、昭和25年の朝鮮戦争を契機として日本はそれまでの流れを否定するような政策を採り始め、戦争協力者の公職追放も解除した。そこで加藤はそれまでの逼塞生活を取り止めて再び公に活躍するようになっていった。日本国民高等学校(実際には日本高等国民学校と名称を替えていたが)の校長に復職したり、旧満州開拓関係のあらゆる団体や組織の枢要な役職に就いたり、はたまた、様々な会合や講演に招かれて昔ながらの熱弁を振るった。そして茨城県に国際農業研修所が設けられると、別に所長がいたにもかかわらずその実質的な所長としても活躍したという。
 そして昭和35年1月には、喜寿の祝いを農業および満州開拓関係者たちの手で大々的に挙げてもらい、さらに昭和40年4月には、天皇主催の皇居園遊会に農林業功績者として招待されるに至ったのであった。
 翻って、満蒙開拓青少年義勇軍として年端も行かない数え年16~19歳の少年計86,530名を送り込んで中国農民を苦しめさせ、その青少年義勇軍約24,200人を死に至らしめたという客観的事実に対して加藤完治は責任を取らなければなるまい。そしてもし彼が自らその責任を負わないのならば社会がその責任を追及しなくてはならない。
 しかしもはや加藤にその責任を負ってもらうことは出来ない。彼は、昭和44年3月肝臓癌によって亡くなってしまったからである。享年83歳であった。加藤完治は平然と戦後二十数年を生き続けたのである。
と。

 すると思い付くことは、上 笙一郎の表現を借りれば「己の戦争責任に平然としていた」加藤完治と、太田村山口の山小屋で7年間に亘っていわゆる「自己流謫」していた高村光太郎とでは、己の戦争責任の取り方に関してその対極にいたということである。満蒙に「世間ずれしていない純粋無垢な少年」を送り出した加藤完治とはそのような人だったのだ、と私は肩を落とすしかない。天皇制的農本主義者加藤は、純真な少年たちを平然と騙していたと言えなくもないからだ。加藤によって満蒙に送り出された計86,530名の青少年義勇軍の内の約24,200名(約28%)が満州の荒野や収容所で悲惨極まる最期をとげ、幸い後に帰国できた約62,300名も言語に絶する辛酸を嘗めさせられたというのに。
 ただし一方で、
 (最上共働村塾の)「開塾の趣意」で松田甚次郎は「更に次三男の青年を満鮮の曠野に耕作できる拓殖訓練を授け」と加藤の言葉そのままのようなことも述べたが、彼の村塾はついに一貫してその道は選ばなかった(『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)96p)。
という安藤の断定に、今度はほぼ納得できるようになった。つまり、先に保留していたその「真相」は、
 松田甚次郎は加藤完治から影響を受けていなかったわけではないが、その実践は農本主義者加藤完治のそれとは一貫して違っていた。
というものであったと、確信できた。

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 なお、目次は次の通りです。

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