みちのくの山野草

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2973 賢治の「農民劇」 

2012-10-26 08:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
教え子川村輿左衛門の証言
 賢治の花巻農学校時代の教え子の一人、川村輿左衛門は鳥山敏子氏の取材に対して次のようなことを語っていた。
   劇は楽しくもなかった 無理にやらされて
 あんなに偉い先生だとわかっていたら、ちゃんと授業の記録をとっておくとか、きちんと頭のなかに入れておくとかして、みなさんのお役にたつことができたのに。なんせ、あのころは、はなたれ小僧だったもんで。
 大正一一年頃、宮沢先生がうちさ二回くらいやってきて、「入学して下さい」と勧誘していったものね。
 まあ、ちょっと狂ったような――、狂ったなんていうと申し訳ないようなことだけど、ちょっと変わっている先生だと、私も思ったけど――、よその子どもらもそう思っていただろうと思いますよ。
 土曜日になれば、農民劇といってね、最初は教室で練習してやったものを、講堂に行って総ざらいをやったもんだがね。先生は家から白い反物を持ってきて、講堂にはってペンキを塗らせたのね。うん、ペンキで背景を描いて。「おい、川村、お前はそこに立ってろ」と言われてね。「お前はポプラだ」とか「ススキだ」とか、「お前はこの音楽のときは、こういうふうに揺れろ、ザーッと、こういうふうに……」とか。何のためにそこに立つのやら、何のことで、何やっているんだかわからなかった。それで先生の頭の中は、目をつむってでも、種山ヶ原だとかの風景があるんでしょ。
 でも、私には何のことだかわからない。こう揺れろとか言われても、意味がわからないで過ごしちまったんだものね。先生の考えている農民劇が身に入らないで終わってしまったもんね。
この証言は、鳥山敏子編『賢治と種山ヶ原』(鳥山敏子著、世織書房、113p)に載っているものだが、この取材に際して鳥山氏は次のようなことを同書でコメントしている。
 大正一三年八月一〇、一一日の二日間、賢治は四本の芝居を演出した。「バナナン大将」「ポランの広場」「植物医師」そして川村さんの出演した夢幻劇「種山ヶ原」である。賢治の友人で演劇の大家である先生が当日観にきて、この「種山ヶ原の夜」が一番よかったとほめている。しかし当の川村さんは「劇は楽しくもなかった。無理にやらされて」といって、大笑いする。
<『賢治と種山ヶ原』(鳥山敏子著、世織書房)113pより>
 一般に、賢治の教え子は皆賢治を崇敬・崇拝している人達ばかりだろうといままでは思っていたが、賢治の周辺をいくらか彷徨ってみたならば案外そうでもなかったということが地元にいるせいか私の耳には聞こえてくる。しかしのようなことが公的にはあまり語られてこなかったのは、そんなことを口にすることが憚られ、まして活字にすることなどはなおさら躊躇われたからであろう。そしてそれは、賢治没後の賢治の極端な神聖化があったことなどに鑑みれば容易に頷けることだ。その点で川村の証言そのもの、それを引き出して活字にした鳥山氏に私は刮目させられる。
賢治の「農民劇」に対する認識
 さて、川村輿左衛門の偽らざるこの証言には別な面でも注目した。それはその中に「農民劇」という言葉が出てきているからである。以前 賢治、家の光、犬田の相似性(#37)で触れたように、賢治が農学校で行った劇のことを平來作も「農民劇」と言っていたが、川村輿左衛門も同じく「農民劇」と呼んでいたことにである。したがって、当時賢治自身も当時花巻農学校で行っていた芝居のことを「農民劇」と認識しており、生徒等にもそのように呼んで演技指導をしていたのではなかろうかということが言えそうである。まして下根子桜時代であればなおさらそのように。とりわけ、「岩手日報」の取材の場合や松田甚次郎に対して〝訓へ〟をたれる場合などには賢治が当時思い描いていた劇は「農民劇」のジャンルに属していると認識していたのではなかろうか。
 となれば、「農民劇」に対する賢治の認識の仕方から類推してみても、下根子桜時代に賢治が詠んでいた詩の多くを賢治自身が「農民詩」であると認識していたということもあながち否定できないかもしれない。

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