みちのくの山野草

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農本主義者 橘孝三郎

2020-11-08 12:00:00 | 甚次郎と賢治
《『農本主義のすすめ』(宇根 豊著、筑摩書房)》

 宇根 豊氏は『農本主義のすすめ』(筑摩書房)の中で、農本主義者の代表的な人物の一人として橘孝三郎を挙げ、橘についてこんなことを述べている。
 橘孝三郎は、明治二六年に茨城県に生まれ、一高を中退して、郷里に帰り、自ら山野を開墾して百姓になりました。大正四年に兄弟村農場(三町歩からのちに七町歩)をつくりましす。これは武者小路実篤の新しき村に三年先駆けています。さらに昭和四年から県内にひろく「愛郷会」(主に農村青年四〇〇人ほど参加)を組織し、協同組合活動にも乗り出していきます。昭和六年には念願だった青年のための私塾「愛郷塾」を、農場内に校舎も建てて開校しました。在所の活動は着実に軌道に乗りつつありました。
            〈『農本主義のすすめ』(宇根 豊著、筑摩書房)42p~〉
 ここまでのことは、「愛郷塾」等については私も多少知っていたが、あまり詳しくは知らずにいた。続けて宇野氏は、
 ところが、昭和五年から翌年にかけての昭和恐慌で、農村は極度に窮乏していきました。これから橘の思想と行動は急速に危機感を帯びていきます。そして昭和七年三九歳の時に、若き塾生たちを引き連れ、軍人たちとともに五・一五事件で「革命」に決起したのです。
 もちろんこの「革命」は失敗しました。昭和九年に無期懲役の判決を受けましたが控訴せず、恩赦で昭和一五年に釈放されました。
            〈同43p~〉
と述べている。この、橘等が引き越した五・一五事件についてもある程度は知っていたが、甚次郎には一方的に?「農本主義」のレッテルが貼られて、それが因で甚次郞の戦後の評価ははかばかしくないという実態を知ってしまった私はついつい想像してしまった。それは、農本主義者橘がこんな事件を起こしたことで甚次郞はとばっちりを受け、そのレッテルを貼られたのではなかろうかということをだ。それは、39歳といえば数えで40だから「不惑」の年だ。そんな「農本主義者」橘が若い塾生たちを引き連れてこんなとんでもないことを起こした訳でからこの「農本主義者」は当然非難されるべきだが、松田甚次郎はそんな「農本主義者」ではないのだから、このレッテル貼りはその裏に誰かの悪意があったのではなかろうか、と私には訝られて仕方がないからでもある。

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