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賢治の突然の退職

2015-04-07 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
大正15年3月31日以前
 さて、ここで「国民高等学校」の日程等について「新校本年譜」等を基にして簡単に並べてみると、
  <1926年(大正15年)>
1月15日 国民高等学校開校式が行われる(賢治嘱託兼務、「農民芸術」受け持つ)
1月中旬 下根子桜の別宅の改造を始めた(伊藤忠一の日記より)
1月30日 岩手国民高等学校で農民芸術論を講義(第一回)
     (1/30~3/23まで計11回講義(伊藤清一の講義ノートによる))
2月 9日 国民高等学校第二回講義
2月18日 国民高等学校第三回講義
2月19日 国民高等学校第四回講義
2月24日 国民高等学校第五回講義
2月27日 国民高等学校第六回講義
3月 1日 国民高等学校第七回講義
3月 5日 国民高等学校第八回講義 
3月20日 国民高等学校第九回講義
3月22日 国民高等学校第十回講義
3月23日 国民高等学校第十一回講義
3月24日 花巻農学校五回生卒業式
     ベートーベン百年祭(夜6時半~)
3月27日 国民高等学校終了式
3月31日 三級俸(130円)を支給され、花巻農学校依願退職
ということになる。つまり、国民高等学校の終了式は3大正15年月27日に行われた。

退任式は行われたか
 ここで気になることの一つが、はたして賢治の花巻農学校教諭退任式は行われていたのだろうかということである。この年度末には、同僚の白藤慈秀も一緒に辞めているわけだし、離・退任式はある意味では在校生達にとっては卒業式以上の重い意味を持っていると思われるだけにそれがなかったとは思えないから、単に「新校本年譜」に記載されていないだけなのだろうか。
 がしかし、小田島留吉は次のような
 その年の入学式の日に、
「私は、今後この学校には来ません」
廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあった。
……①
という証言を残していた。するとそれは事実だったのかもしれない。
 そこで参考のために、賢治が「年度途中」で花巻農学校の教諭となった際の赴任式が行われていたかどうかを調べてみると、「新校本年譜」の大正10年12月3日(土)の記載事項として、
 養蚕室で赴任式があり、校長に紹介され「只今ご紹介いただいた宮沢です」といって礼をし、段を下りた。丸坊主に洋服である。
             <『新校本宮澤賢治全集16巻(下)年譜篇』(筑摩書房)228pより>
と、簡潔にではあるがその際の挨拶の内容、服装などの記述があった。
 となればまして、賢治は「年度途中」ではなくて、大正14年の「年度末」に退任したのであるから、必ずや退任式が行われていたはずだ。そして、花巻農学校の『校務日誌』(あるいは『教務日誌』)は〝永年保存〟の性格を持っているから、それが行われていればその日誌の記録からその事実は確認できることである。したがって、このときの「退任式」の記述が「新校本年譜」にないということからはそれが行われなかった可能性がすこぶる高いということが導かれるだろう。
 一方、賢治の「退任式」が行われていたとすれば、その際の賢治の挨拶、様子などはとりわけ印象深いものであり、教え子の中には痛切な思いで賢治の挨拶などを聴いた者が多いはずであり、後々までも心に留めておいたと思われる。ちなみに、賢治の「赴任式」については例えば鈴木操六の、
 南側の開け放された養蚕室で、畠山校長が、先生を紹介された。その後に先生は壇の上に立って、至極簡単に、ただ今ご紹介いただいた宮沢ですといって礼をして壇を下りられた。
         <『宮沢賢治 その文学と宗教』(山田野理夫著、潮文社新書)61p~より>
という証言があるくらいだから、もし退任式が行われていたとすればこの鈴木のような内容の教え子たちの証言があってしかるべきだが、管見ゆえかそのような証言や資料を私は知らない。
 したがって、これらのことと先の小田島留吉の証言〝①〟とを併せて判断すれば、
 宮澤賢治の花巻農学校退任の際に、退任式は行われなかった可能性が極めて高い。……②
と言えそうだ。それは言い換えれば、
 賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた可能性が極めて高い。……③
ということになる。

関連する証言や書簡
 そこで、賢治が花巻農学校を辞めることに関する証言や書簡などを大正15年度以前について一通り調べてみる。時系列にしたがってその内容を簡潔に表して並べてみるとだいたい下記の通りとなろう。
◇大正14年2月頃:教え子松田浩一の証言
 先生は「教師はじめじめしていやだ。おれはやめることだが、家から逃げて桜さ移るから皆遊びにきてくれ」と言っていた。
◇大正14年4月13日付杉山芳松宛書簡
 わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。
◇大正14年6月25日付保阪嘉内宛書簡
 来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます
◇大正14年6月27日付齋藤貞一宛書簡
 わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります
◇大正14年12月1日付宮澤清六宛書簡
 この頃畠山校長が転任して新しい校長が来たり私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあったものですからつい遅くなったのです。
◇大正14年12月23日付森荘已池宛書簡
 ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。
◇大正15年1月15日に関する証言
 宮澤家の別荘を改修:大正15年1月15日(金)に、八重樫倉蔵、民三の兄弟大工に頼んで下根子桜にあった宮澤家の別荘を改修した。
◇大正15年3月頃:愛弟子柳原昌悦の証言
 職員室の廊下で掃除をしていたら、「いや、おれ今度辞めるよ」とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。
◇大正15年3月の春休み:同僚堀籠文之進の証言
 大正十五年三月の春休みに入ってから、――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
◇愛弟子菊池信一の証言
 高野主事と議論したことが原因のようだが、国民高等学校の卒業式が大正15年3月27日に賢治は同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
◇同僚白藤慈秀の証言
 宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った、という。
◇大正15年4月:教え子小田島留吉の証言
 花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあった。
◇大正15年4月:愛弟子柳原昌悦の証言
 私たちが二年生になるとき、何人かが中心になったと思いますが、鼬幣の稲荷さんの後ろの小高い所ある小さな神社の境内に集まって、宮沢先生退職反対のストライキ集会を開いたのでしたが、宮沢先生の知るところとなり「おれはお前たちにそんなことされたって残るわけでもないから、やめなさい」との一言で、それはまったく春の淡雪のように、何もなかったかのようにさらりと消えてしまいました。

突然の退職
 以上の他に、年度が改まってからの次の書簡、
◇大正15年4月4日付森荘已池宛書簡
 お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
を併せて考えてみれば、次のような結論を導かざるを得ないと私は考えている。
(ア) 少なくとも大正14年の2月頃には花巻農学校の教員をしていることに対する不満を公言するようになり、その職を辞して大正15年の春には「本統の百姓」になることを考え始めていた。
(イ) ところが、同14年12月1日付宮澤清六宛書簡「私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあった」ということからも推察されるように、同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)が、さらに賢治の花巻農学校の退職に何らかの影響を与えていたであろうことが否定できないし、しかもその時期を前倒しすることさえも賢治は考えていた。
(ウ) 具体的には、大正14年12月頃の賢治は、学校を辞めて明けて1月からは東京へ出ることを考えていた。そしてその時期は実際には延びてしまったが、明けて大正15年4月の森宛書簡の中の「東京へその前ちょっとでも出たい」ということから明らかなように、下根子桜に移り住んでからもそれを諦めていなかった。つまり、下根子桜に移り住んで、そこでひたすら「本統の百姓」に専心しようとしていたわけではなかったということが導かれる。上京することへの絶ちがたい強い思いがずっと続いていたとなろう。
(エ) 大正15年の始め頃既に、農学校を辞める辞めないはさておき、賢治は豊沢町の実家を出て下根子桜の別荘に移り住もうと心に固く決めていたことはほぼ間違いなかろう。賢治は別宅の改修工事をその頃行っていたからだ。

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奇妙な校長人事 (辛文則)
2015-04-08 01:34:41
   鈴木守様

  花巻では、 「辛夷の期節は過ぎにけり」、ですかしらん。盛岡市の松園には、辛夷を街路樹にしている通りがありますが、どんな塩梅hかは見ていません。先生とは大違いで、〈引き籠り人〉なものですから。それにしても、〈辛夷〉という字面を眺める度に玄妙な心地になりまする。
  さて、今回の記事を読んでいて、〈小生の耳目〉が気になったことを一言。「日中米十五年戦争以前の中学校史」の三種の編纂に関わったのでしたが、〈国民高等学校〉という教育機関・制度のことは不識のままでした。「花巻農学校内に設置されたそれの存ぞき存続期間は、「大正十五年の一月から三月までの三か月間」だけだった、ということでいいのですか。賢治の『農民芸術概論綱要』は、ある程度まで、中等学校教育史に通じた高校美術教師の目から見てもかなり奇妙な代物ですが、それが「国民高等学校なる教育機関の講義用」だったと知るほどに、「キッカイな!」という心象を懐いてしまいます。はてさて、「如何なるか国民高等学校とは?」、なのでございます。
  もう一件。
  守先生の、「同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)」という印象について、です。その人事が大正十五年度のことなのですね。
  戦前の旧学制下での中等学校、特に「中学校令に基ずく中学校」 ― 因みに、盛岡夜間中学(杜陵高校前身)、釜石夜間中学(釜石高校前身)、花巻夜間中学(組合立花巻中学校・花巻北高校へ)などは、中学校令ではなく専門学校かk令に基づく各種学校で〈中学校〉ではなく、卒業資格を与えられない〈中学〉でした。少なくとも、先研資格(専門学校検定資格)の検討が始まった昭和六年迄は.〈中学校の略称〉としての〈中学〉とは別のソレがあったのです ― の校長人事の所管は各県知事ではなく文部省所轄の全国単位で行われていましたから、「大正八年十一月、首相の原敬の裁量で、全国校長会会長のリベラリスト春日重泰が年度途中に盛岡中学校長に就いた。」、といった校長人事現象も起こり得た訳です。同じ理由で、「昭和二年十二月、その十月に新渡戸稲造を講演に招いた春日は佐賀中学校への転任を命ぜられた。」、という校長人事現象も。
   その背後付加権力は県レベルではなく国家レベルだったことは。尤も、花巻農学校長人事にそんな手が伸びていたのかどうかは。
   尚、昭和二年は、「河本大作による張作霖爆殺事件」が起こっていますし、米内光政による『魔性の歴史『』なる論文が書かれたりしていますから、岩手県レベルだけでなく国家レベルでも「戦争体制に向かう不穏な歩み」、が。
   例えば、〈大正十二年月十六日事件〈〉の甘粕正彦への裁判判決やフランス留学から満洲潜入へと続く「オモテには出ない流れ」が動いていなかったとは、…。「世界の真実を識ろうとしていた文化人や知識人たち」に如何なる〈インテリジェンス(知的情報)〉が入っていたかは。
   たとえば、内村鑑三の最も忠実な弟子であり、新聞取次店を経営していた齋藤宗次郎が把握していたインテリジェンスや如何、などと。固より、「私的日記にも書けないレベルのインテリジェンス」があっても。『二荊自叙伝』には、帰花中の岩手中学校長に就く前(二高教授など)の鈴木卓苗との会談エピソードも記録されているようです。
   で、賢治と宗次郎との間のインテリジェンス交感はどの程度であったかや如何、などと。矢張り、年度途中で薩摩川内中学校に追われたリベラリスト校長前庭仲尾と長岡拡と橘川眞一郎との間、そして内田秋皎や小野誠一郎や野村長一などとの間の因縁関係性が気になる訳ですが、『原敬日記』を編集した原奎一郎一郎とて、その文書的照明はデキナイ相談ということで。
   まあ、「〈ドクサ(臆見底毒鎖)〉なるべし」と明らめて仕舞えば「スベテコトモナシ」という次第なんでせうけれど。
    文遊理道樂遊民洞の理非曲直、理路不整然
  は救い難しとなん、道いける、…。
                   2015,4,08 1:13 
  
返信する
よくあったことなのですね (辛様(鈴木))
2015-04-08 14:12:58
辛 文則 様
 今日は。
 実は花巻の「市の木」はコブシでありまして、しかも、方言でそれを「せぎざぐら」あるいは「ひぎざぐら」と呼ぶ人もあるようです。そんなわけで、岩手県全体がそうなのでしょうが、花巻にはいま自生のコブシの花が結構あちこちで咲いています。
 さて、以下に少し所感を述べます。
◇〈国民高等学校〉という教育機関・制度のことは不識のままでした。「花巻農学校内に設置されたその存続期間は、「大正十五年の一月から三月までの三か月間」だけだった、ということでいいのですか。賢治の『農民芸術概論綱要』は、ある程度まで、中等学校教育史に通じた高校美術教師の目から見てもかなり奇妙な代物ですが、それが「国民高等学校なる教育機関の講義用」だったと知るほどに、「キッカイな!」という心象を懐いてしまいます。はてさて、「如何なるか国民高等学校とは?」、なのでございます。
⇒私も「国民高等学校」が如何なるものかは良くわかっていないのですが、発想は「デンマークの国民高等学校」にあったようです。しかし、日本におけるそれは「筧克彦の古神道に基づく農本主義思想を鼓吹するという加藤完治の教育」が中心にあったのではないでしょうか。したがって、朝六時に起きてまず駈足、そして〝みそぎ〟とか〝やまとばたらき〟とかを、上衣をぬいで気合いをかけながらやって一日が始まったようですし、これは「六原青年道場」でも同様に行われていたとのことです。そしてこれは「日本国民高等学校」や「内原訓練所」でも同様であり、これらの教育機関では皆加藤完治の教育が実践され、それらを出た数多のいたいけな少年たちが満蒙に送られて悲惨な経験をさせられ、果ては彼の地で短い人生を終えたようです。
 それから、岩手の場合にはこの「国民高等学校」が最初にして最後であり、その期間は「大正十五年の一月から三月までの三か月間」でいいと思います。
 ところで、『農民芸術概論綱要』に関しての現通説(すなわち『新校本年譜』)は
   大正15年6月:このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
となっていますが、堀尾青史自身が境忠一に対して白状しているのですがこれはあくまでも堀尾の推定であり、真相はおそらく小倉豊文が「声聞縁覚録(十三)」で述べている、
 「農民芸術概論」は実にこの国民高等学校の講義のために先づ執筆されたものなのである。この項目を私が知っていながら年譜に入れなかったのは大きなミスであった。そして筑摩版全集の年譜に至って、この年の項に月日不詳ではあるが「岩手県国民高等学校で農民芸術論の一部分を講義した」とはじめて記入されたのである。しかし「農民芸術論」は「農民芸術概論」とすべきであり、十五年六月の項に「農民芸術概論を起稿した」とあるのは、十字屋版両年譜に「……草稿す」とあるのを、そのまま「起稿した」として編入したのであって、正しくは十四年の項に「講義用として一部起稿」と記し、十五年の項には「再稿」とか「増補執筆」とか記すべきであろう。
          <『宮沢賢治研究 四次元 190号』(佐藤寛編、宮沢賢治研究会)>
と言えそうです。
 そして同様なことは伊藤清一の講義ノートからも窺うことができて、「農民芸術概論綱要」の〝大本〟は「国民高等学校」における賢治の講座「農民芸術」の後半で既に講義されていると判断できると思います。

◇ 「同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)」という印象について、です。その人事が大正十五年度のことなのですね。
⇒これにつきましては
  「大正十五年度」ではなくて「大正十四年度」
です。

◇ 戦前の旧学制下での中等学校、特に「中学校令に基ずく中学校」…(略)…の校長人事の所管は各県知事ではなく文部省所轄の全国単位で行われていましたから、「大正八年十一月、首相の原敬の裁量で、全国校長会会長のリベラリスト春日重泰が年度途中に盛岡中学校長に就いた。」、といった校長人事現象も起こり得た訳です。同じ理由で、「昭和二年十二月、その十月に新渡戸稲造を講演に招いた春日は佐賀中学校への転任を命ぜられた。」、という校長人事現象も。
⇒そうですか、年度途中の校長人事というのはしばしばあったのですか。その人事異動の是非はさておき。

 その背後付加権力は県レベルではなく国家レベルだったことは。尤も、花巻農学校長人事にそんな手が伸びていたのかどうかは。
⇒そうですね、花巻農学校ではそれなかったと思いますが、やはり釈然としないです。

 末筆なが、寒暖の差が激しい日々が続いておりますのでご自愛ください。
                                                               鈴木 守
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