<大正15年4月1日付『岩手日報』より>
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
大正15年4月1日付『岩手日報』の記事さて、ここではよく知られている大正15年4月1日付『岩手日報』の例の記事をまず確認してみよう。それは以下のような内容であった。
新しい農村の建設に努力する
花巻農學校を辞した宮澤先生
花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
<『岩手日報』(大正15年4月1日付)の三面より>花巻農學校を辞した宮澤先生
花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者であるしたがって、この時に賢治が記者に語ったであろう内容を個条書きにしてみると以下のようなものとなるだろう。
(1) 現代の農村は経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へらる。
(2) そこで東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したい。
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたい。
(4) ために、幻燈會はまい週のやうに開さいする。
(5) レコードコンサートも月一囘位もよほしたい。
(6) 同志二十名ばかりいる。
(7) 自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないたい。
(8) しづかな生活をつづけて行く。
(2) そこで東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したい。
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたい。
(4) ために、幻燈會はまい週のやうに開さいする。
(5) レコードコンサートも月一囘位もよほしたい。
(6) 同志二十名ばかりいる。
(7) 自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないたい。
(8) しづかな生活をつづけて行く。
なぜ『岩手日報』に載ったのか
すると不思議に思うことは、賢治が花巻農学校を突然辞すという私的な行為が、なぜ『岩手日報』という公器に間髪を置かずに載ったのだろうかということである。先にあげた菊池信一の証言などからすれば、賢治が唐突に花巻農学校を辞めると職場で言い出したのは、早くとも国民高等学校の終了式の行われた日(大正15年3月27日)。一方、この新聞報道は大正15年4月1日だから、少なくとも賢治が取材を受けたのは遅くともその前日の3月31日。とすれば、その間は
3月28日
3月29日
3月30日
の3日間しかないこととなる。
となれば、年度末のあちこちで数多の人事異動があるこの時期に、この短期間の間に当時のマスコミが単なる個人的な退職にわざわざ新聞報道をするほどのニュースバリューを見い出すわけはないから、実は逆に賢治が積極的に『岩手日報』に取材を働きかけたという可能性も低くない。
まして、先にも触れた小田島留吉の証言『その年の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」と廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあった』ということを考え併せると、その衝動的とも思われる退職には私達が知らない何らかの理由がそこにはあり、それに「当て付ける」ためのマスコミへの取材依頼であり、件の自筆の貼り紙であったと考えられないこともない。
整合性の考察
そこで、先に掲げた「賢治の退職に関しての証言や書簡から窺えること」、すなわち
(ア) 少なくとも大正14年の2月頃には花巻農学校の教員をしていることに対する不満を公言するようになり、その職を辞して大正15年の春には「本統の百姓」になることを考え始めていた。
(イ) ところが、同14年12月1日付宮澤清六宛書簡「私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあった」ということからも推察されるように、同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)が、さらに賢治の花巻農学校の退職に何らかの影響を与えていたであろうことが否定できないし、しかもその時期を前倒しすることさえも賢治は考えていた。
(ウ) 具体的には、大正14年12月頃の賢治は、学校を辞めて明けて1月からは東京へ出ることを考えていた。そしてその時期は実際には延びてしまったが、明けて大正15年4月の森宛書簡の中の「東京へその前ちょっとでも出たい」ということから明らかなように、下根子桜に移り住んでからもそれを諦めていなかった。つまり、下根子桜に移り住んで、そこでひたすら「本統の百姓」に専心しようとしていたわけではなかったということが導かれる。上京することへの絶ちがたい強い思いがずっと続いていたとなろう。
(エ) 大正15年の始め頃既に、農学校を辞める辞めないはさておき、賢治は豊沢町の実家を出て下根子桜の別荘に移り住もうと心に固く決めていたことはほぼ間違いなかろう。賢治は別宅の改修工事をその頃行っていたからだ。
と前掲の「大正15年4月1日付岩手日報の記事の内容」〝(1)~(8)〟との間の整合性を考察してみたい。(イ) ところが、同14年12月1日付宮澤清六宛書簡「私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあった」ということからも推察されるように、同年11月中旬に行われた奇妙な校長人事(年度途中にもかかわらず校長の人事があり、それも花巻農学校と東白河農蚕学校との間の校長入れ替えという奇妙な人事)が、さらに賢治の花巻農学校の退職に何らかの影響を与えていたであろうことが否定できないし、しかもその時期を前倒しすることさえも賢治は考えていた。
(ウ) 具体的には、大正14年12月頃の賢治は、学校を辞めて明けて1月からは東京へ出ることを考えていた。そしてその時期は実際には延びてしまったが、明けて大正15年4月の森宛書簡の中の「東京へその前ちょっとでも出たい」ということから明らかなように、下根子桜に移り住んでからもそれを諦めていなかった。つまり、下根子桜に移り住んで、そこでひたすら「本統の百姓」に専心しようとしていたわけではなかったということが導かれる。上京することへの絶ちがたい強い思いがずっと続いていたとなろう。
(エ) 大正15年の始め頃既に、農学校を辞める辞めないはさておき、賢治は豊沢町の実家を出て下根子桜の別荘に移り住もうと心に固く決めていたことはほぼ間違いなかろう。賢治は別宅の改修工事をその頃行っていたからだ。
◇まず(ア)について
賢治自身は「本統の百姓になる」ことを考えていたようだが、それはその当時の百姓になる、すなわち「本物の百姓になる」という意味ではなかったようだ。それは(2)や(3)からも明らかである。また、そもそも「本統の百姓になる」ことと(ウ)は始めから矛盾しているのではなかろうか。
◇次に(イ)について もちろんこのような(イ)については、記者の取材に対して答えるべきものではなかろうし、実際、賢治もそのようなことを記者には匂わせなかったであろうと判断できる。
◇では(ウ)について このことに関しては、〝(1)~(8)〟とは基本的には矛盾していない。しかしその上京の理由は、はたして「『農村経済』について少し研究したい」ためだったのかどうかという疑問が湧いてくる。なぜならば、〝(ア)~(エ)〟においてはそのようなことは全く匂わせていないからである。
◇最後(エ)について このような賢治の辞め方であれば、農学校を辞めることを上司や同僚そして一部の教え子たちに明らかにしたのは早くとも3月27日であろうから、その日から取材を受けたであろう31日までの5日間ほどの間に、〝同志二十名〟たちと〝(1)~(8)〟について話し合った上で賢治は記者から取材を受けたということはなかろう。それは物理的にも時間的にも難しかったであろうからであり、この賢治の発言はおそらく賢治個人のその時点での見通しを述べたものであろう。
したがって、〝(1)~(8)〟と〝(ア)~(エ)〟の整合性はあまり取れておらず、後者に比して前者は思いつきで、「泥縄的」に賢治は記者に応えているように私には受け止められる。現時点での結論
というわけで、ここまでの考察に基づけば
(ⅰ) 少なくとも大正15年4月1日付『岩手日報』の取材を賢治が受けた時点では、賢治は生徒に対しては「農民になれ」と教えながら、自らは俸給生活を送っていることの葛藤から、自分も百姓になるから生徒諸君もなってくれという強い態度を示すために花巻農学校を辞めたという訳ではない。
(ⅱ) また同じく、下根子桜の宮澤家の別宅に住まいながら菩薩となって貧しい農民たちを救おうとして花巻農学校の教員の職を辞した訳では、なおさらない。
と、現時点の私は結論せざるを得ない。なぜならば、「本統の百姓になろうとした賢治の想い〝(ア)~(エ)〟と先の新聞報道内容〝(1)~(8)〟とは直接的にはあまり結びつかないからである。(ⅱ) また同じく、下根子桜の宮澤家の別宅に住まいながら菩薩となって貧しい農民たちを救おうとして花巻農学校の教員の職を辞した訳では、なおさらない。
だからどうやら、賢治の花巻農学校の退職は年度末が追し詰まってからの唐突で衝動的な退職劇であって、その退職理由もどうやらすっきりしたものではなく、まして、退職後の具体的な見通しと計画を有した退職ではなかったかったと言わざるを得ないようだ。それは、賢治は早晩農学校を辞めることを何人かには喋っていたが、在校生や職場の同僚に対しては辞める直前までそのことを黙っていたというこということからも言えそうだ。
そこでこの新聞取材に関しては、不自然な退職をしたことを公的にアピールするために、賢治が『岩手日報』にわざわざそれを依頼したという可能性を私は改めて捨てきれないという結論に達した。もし、当時、森荘已池が岩手日報社に勤めたりしてでもいれば気を利かして取材の仲介をしたかもしれないが、森は大正15年3月盛岡中学卒業して東京外語大に進学した頃であるから、それは殆ど可能性がないだろうからなおさらにである。誤解を恐れずに言えば、実は賢治は不本意ながら花巻農学校を辞めざるを得なくなってしまったので、それに当て付けせんが為の新聞報道であったという可能性もなきにしもあらずだと。それは、この「大正15年4月1日付の新聞報道」における賢治の発言内容はとても「練られたもの」とは思えないし、その後の賢治の営為とそれほど整合性がとれているものではないことからも言えるのではなかろうか。
続きへ。
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