みちのくの山野草

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「遺稿 村塾再建まで」

2020-10-22 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『和光 追悼の詩』(松田むつ子編集発行、昭和55年11月)吉田矩彦氏所蔵〉

 前回も掲げたように、これが『和光 追悼の詩』の目次の一部であり、

 まず最初に、松田むつ子の「危篤の報せ」、そして次が宮澤清六の「最後の手紙その返事」である。
 そして次に少し飛ばすと、遺稿の中に「村塾再建まで」があったので、今回はこれから一部を転載させてもらう。
 私は宮沢賢治先生の一弟子である。そして私には、先生と満十年の一約條があった。それは、小作人たれ、農村劇をやれ、その説明は為さないけれども、それを実行したならば、十ヶ年後には必ず報告してくれよとの事であった。昭和十三年はもう満十ヶ年である。先生は惜しいことにも昭和八年九月二十一日に永眠されて、大きな詩碑だけ羅須地人協會跡に樹てられて居るのである。それで稲の始末も済んだ十一月十三日という晩秋のしずかな日に二人の善き賛助者と共に追悼よ報告に、岩手県の花巻の地に参り先生の両親、実弟妹や沢山の先生の弟子に迎えられて午前の七時という時に朝陽をあびながらじっと丹田に力を入れて一切を報告し、向後の誓いを申して盛岡の母校に向かって思深げに両三日十年振りの南部の地を静かに足踏んで先生の詩碑の石刷り掛け軸を戴いて真実に弟子入りした様になって帰ったのであった。…投稿者略…
 愈々昭和十四年一月十日と云う待望の晨が光輝ある啓明と共に迎えることが出来て、殊更禊の尊さを感じながら一同とまっしぐら式の準備を整えるのであった。
             (国民学校)皇民教育五月号 啓文社発行
             〈『和光 追悼の詩』6p〉
 というのは、先に投稿した〝須田仲次郎「追悼の辞」〟で取り上げたように、須田は「昭和二年盛岡の学窓を巣立つ時宮澤賢治先生を訪れ先生から餞けの言葉として「農村の実践者たれ」と激励されました」と証言していたことになるので、私はそこで、
 疑問に思ったのが、昭和2年3月8日の賢治からの「訓へ」である「小作人たれ/農村劇をやれ」という表現ではなくて、「農村の実践者たれ」であったことだ。現時点では、この二つの違いについて言及はしないが、今後検討せねばならぬことなので留意しておきたい。
としていたからである。
 それに対して今回、この「昭和十四年一月十日」に書いたと判断できる「村塾再建まで」を読んで、昭和2年に「訓へ」られたことを、昭和14年にも、
    小作人たれ、農村劇をやれ
であると公にされた文章の中でも全く同じ表現で語っている<*1>から、この「留意」はもう不要だと安堵した。そしてここ十年余程、松田甚次郎のことを調べてきて、甚次郎という人は素直で真面目な性格の正直な人物であるということはわかっていたつもりだが、これでそのような人物であることを、この「村塾再建まで」を読むことができてさらに確信した。

<*1:投稿者註> 『土に叫ぶ』の出版が昭和13年だから当然かもしれないのだが。

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 この度、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))

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 本書の購入を希望なさる方は、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
 なお、岩手県内の書店における店頭販売は10月10日頃から、アマゾンでの取り扱いは10月末頃からとなります。
            
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