みちのくの山野草

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須田仲次郎「追悼の辞」

2020-10-13 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『寂光「素直な土」』(間宮 一編、松田睦子発行、昭和51年8月4日)吉田矩彦氏所蔵〉

 松田甚次郎にはこんな追悼集『寂光「素直な土」』もあった。三十三回忌にあたって作られたものだという。

             〈『寂光「素直な土」』口絵〉
 そしてその内容は下掲のようなものであった。

             〈『寂光「素直な土」』目次〉
 そこで今回は、あの須田仲次郎の「追悼の辞」が巻頭に載っていたのでこれに注目した。そこには、例えば次のようなことが述べられていた。
 昭和二年盛岡の学窓を巣立つ時宮澤賢治先生を訪れ先生から餞けの言葉として「農村の実践者たれ」と激励されました。
 あなたは打ち続く冷害に打ちひしがれた貧困の村の土の上に立って「俺はやる」と勇敢に決心されました。
 …投稿者略…農村恐慌、満州事変、支那事変と塾の教へ子は村造りに、満蒙の移住に義勇軍に、応召と民族の生の場を求めて困窮にさらされ闘い倒れその甲斐もなく敗戦に帰したがあなたが心身の酷使から病魔に侵され遂に三十有余にして悲しみの日から早三十年を経過し激しい変転の中に平和がよみ返って来ましたが、農業基本法制定以来、農業基本法制定以来、農業、農村は資本主義制度の中で都会と他産業並の生活が得られなかった。
             〈『寂光「素直な土」』より〉 
 そこで先ず疑問に思ったのが、昭和2年3月8日の賢治からの「訓へ」である小作人たれ/農村劇をやれという表現ではなくて、「農村の実践者たれ」であったことだ。現時点では、この二つの違いについて言及はしないが、今後検討せねばならぬことなので留意しておきたい。
 次に、これは恐れていたことだが、「農村恐慌、満州事変、支那事変と塾の教へ子…投稿者略…満蒙の移住に義勇軍に応召」という記述があったことだ。もしかすると、松田甚次郎は塾の教え子を積極的に満蒙に移住させ、あるいは満蒙開拓青少年義勇軍に行かせたのだろうか、という心配が生じてきたからだ。
 しかし、上 笙一郎は『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書)の中の「3 戦後の加藤完治」の中で、おおよそ、
 加藤によって満蒙に送り出された計86,530名の青少年義勇軍の内の約24,200名(約28%)が満州の荒野や収容所で悲惨極まる最期をとげ、幸い後に帰国できた約62,300名も言語に絶する辛酸を嘗めていたときに、彼らを<鍬の戦士>の美名のもとに送り出した加藤完治
という意味のことを述べているから、加藤完治が送りだした程の多くの若者を甚次郎が「塾の教へ子を満蒙の移住に義勇軍、応召」させたということはあり得ないだろうから、少なくとも加藤完治ほどの責任を甚次郎は問われことはなかろう。

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