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昭和4年露宛書簡下書「新発見」?

2024-02-09 14:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
第三章 昭和4年の場合
 昭和4年露宛書簡下書「新発見」?
 ではここからは、昭和4年に関わることについてである。
◇<仮説:高瀬露は聖女だった>の定立
鈴木 それでは、これで羅須地人協会時代の検証等は全て済んでしまったから残るはこの時代以降についてであり、今後は昭和4年~昭和7年について調べればいい。
 では、まずは「昭和4年」分について考察してみよう。なお、今までの考察で明らかになったように、露は<悪女>と言うよりは、<聖女>と言った方が遙かにふさわしことがわかったから、ここからは正式に
   <仮説:高瀬露は聖女だった>
を立て、その検証を行うという「仮説・検証型研究」にしたいのだがいいだろ? よし、それじゃ早速その検証作業を始めることにしようか。
◇新発見とはいうものの
吉田 まずこの年に問題となるのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとして『校本全集第十四巻』において公にされた「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」だ。
荒木 ではまず、その「新発見」の経緯を知りたいな。
鈴木 それが私はとても理解に苦しむのだが、『同第十四巻』の28pに唐突に「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べているのだが、私が探した限りでは同巻のどこにもその「新発見」の詳しい経緯は書かれていないのだ。そして一方では、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と同34pにあるが、その根拠も理由も何ら明示されていないから全く判然としていない。
吉田 しかも、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
 そうなんです。年譜では出しにくい。今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
<『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)、177pより>
と境忠一との対談で語っている。
荒木 それは大問題だぞ。まさに、「死人に口なし」を利用したとしか言えねえべ。
鈴木 同巻では「新発見の書簡252c」と銘打っているが、そこに所収の「旧校本年譜」の担当者である堀尾は、「手紙が出ました」と言っているのか。筑摩の「新発見」と堀尾のこの「出ました」とでは意味がかなり違うだろうに。
吉田 まして、ここで「新発見の書簡」とか「手紙が出ました」とあるものはもちろん「書簡」でもないし「手紙」でもない。あくまでも「書簡の下書」、単なる手紙の反古にすぎない。
鈴木 それも、堀尾は露に対して配慮をしたかのように言っているが、露が昭和45年2月23日に帰天したのを見計らったようにして、露宛かどうかもはっきりしていない書簡の下書を、しかもそれまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を突如「露」と決めつけて筑摩が公的に発表してしまったということは如何なものか。
荒木 なになに、ということはこの「露宛書簡下書」は「新発見」と言えないだけでなく、そもそも露宛のものかどうかも実は不確かだというのか。しかも、もしかするとこれらの書簡下書の中には<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となりそうなことが書かれているんじゃないのか。
鈴木 その可能性がなきにしもあらずだ。例えばそのうちの書簡下書の一つ〔旧不5、252a〕、これはかなり以前から知られていた「書簡の反古」の一つでもあるのだがその中に、
 法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年第三版)101pより>
というくだりがある。しかし、クリスチャンだった人がそんなに簡単に仏教徒に鞍替えするなどということは私には信じられないが、同巻が実はこれは露宛書簡の下書と推定されると活字にしてしまったものだから、露は賢治に取り入ろうとしてキリスト教を棄てて法華経信者になったと読者から受けとめられ、結果蔑まれ、それが<悪女>とされる一つの要因にもなっていることは否めない。
吉田 それまで信じていた宗教を異なった宗教に改宗するということは、個人の信仰上極めて重要な問題であるのにもかかわらず、露のそれに関してはどうやら筑摩は裏付けも取らずに公に発表してしまったと言える。そのような「要因」になるおそれがあるといういうことは容易に想像が付くはずのものなのに。
荒木 逆に、それが取れなかったのであれば筑摩はこんなこけおどしともとれる「新発見」を持ち出すなと俺は言いたいよ。
吉田 実際、筑摩がこれらの「書簡下書」は露宛の「書簡」であり「手紙」であると推定して活字にしてしまった結果、その影響は極めて甚大で、全国的にこのことがあたかも事実であるかの如くに流布してまってこの有様だ。それまでは「彼女」「女の人」などという表現とか仮名(かめい)「内村康江」では一部にはある程度知られていたが、いきなり実名で全国的に公表された。しかも果たしてその人なのかどうかも検証等されぬままにだ。
荒木 いくら、配慮をしたので亡くなった後に公にしたと弁明したところで、もしこのことを露が生きているうちに行った場合に、露が『それは事実でない』と異議を申し立てるということがなかったと誰が保証できるんだべがね。
鈴木 一体、露その人の人格や尊厳を何と思っているんだろうか。もし仮に、露が亡くなるのを手ぐすね引いて待っていて、「死人に口なし」を悪用したと誰かに糾された場合に筑摩は果たして何と答えるのだろうか。亡くなった後ならば露に迷惑がかからないなどとよく言えたものだよ、まったく!
吉田 まあ、そう怒るな。検証もせず裏付けもとらなかったと僕らがいくら言い募っていても、それらは賢治が露に宛てて書こうとした正真正銘の書簡下書であり、しかもほとんどその下書と同じような内容の書簡が露宛てに投函されていたとなればとやかく言ってばかりもいられない。
 もしかすると、全く公にされていない賢治宛来簡が実は存在していて、その中に露からの来簡もあるので「露宛書簡下書」であるということが判断ができていたので、露が帰天したのを見定めて「新発見」とかたって公にしたのかもしれんしな。
 そのような可能性もないとは言い切れないから、ここは他人のことをとやかく言うのはちょっと措いといて、その「新発見」の「露宛書簡下書」が如何なるものかを実際僕らの目で見て考えてみることがまず先だろう。 
鈴木 それもそうだな。それじゃ、『同第十四巻』を見てみよう。まずは、どのような「書簡下書」が新たに発見されたかについてだが、それについては次のように述べられている。
(1) 昭和四年のものとして〝〔252b〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟が新たに発見された。その内容は以下のとおり。
お手紙拝見いたしました。
南部様と仰るのはどの南部様が招介((ママ))下すった先がどなたか判りませんがご事情を伺ったところで何とも私には決し兼ねます。全部をご両親にお話なすって進退をお決めになるのが一番と存じますがいかがゞでせうか。
 私のことを誰かゞ云ふと仰いますが私はいろいろの事情から殊に一方に凝り過ぎたためこの十年恋愛らしい
             《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)30pより>
(2) 昭和四年のものとして〝〔252c〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟も新たに発見された。その内容は以下のとおり。
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。…(筆者略)…今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
            《用箋》「さとう文具部製」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)31p~より>
つまりこの2通の書簡下書が「新発見」だったと筑摩はしている。
吉田 それから、今の2通は同巻では「本文」として載せているもので、その他にも「新発見」と銘打っているものとしては次の二つ、
(3) 「新発見の下書(一)」
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。…(筆者略)…誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
             《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
(4) 「新発見の下書(二)」
  お手紙拝見しました。今日は全く本音を吹きますから
             《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<共に『校本全集第十四巻』(筑摩書房)33pより>
もあると言っている。
鈴木 実はこれらに関しては、私は〔252c〕と「新発見の下書(一)」は連続ものであり、次のように一つにまとまると判断している。いわば
〔改訂 252c〕として
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。…(筆者略)…もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
      ←(すんなり繋がる)→ 
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。
のように一つにまとまる。
荒木 なあるほど。前者の最後が「…買ひ被っておいでに」で、後者の始まりが「なすってゐるものだと存じてゐた次第です」だから、確かに〝(すんなり繋がる)〟な。
吉田 しかも、前者では「私を遠くからひどく買ひ被っておいでに」とあり、後者では「その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます」とあるから、文章的にも「対」になっている。よく気付いたな。
鈴木 まあな。でもさ、こんなのは少し読み比べてみれば直ぐ気がつくことだろうから、逆になんか釈然としないんだよな。
荒木 そういやあそうだよな。一緒に見つかったものであれば当然その可能性を探るはずだからな。
 それにしても、そもそも、賢治って「主義などといふから悪いですな」などというような言葉遣いを普通するか?
鈴木 確かにな。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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