みちのくの山野草

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果たして「昭和4年」か?

2024-02-09 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露











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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 果たして「昭和4年」か?
荒木 それにしてもな、なんと昭和50年代になって突如、というかタイミングを見計ったように、露が亡くなった後に4通ものの「書簡下書」が新たに発見されたと筑摩は嘯いたわけだ。
◇「判然としている」とはいうものの
吉田 しかも筑摩は、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」(『校本全集第十四巻』(筑摩書房)34pより)と、「内容的に」の「内容」が具体的にどのようなものかも、あるいはまた「高瀬あてであることが判然」の根拠も示さぬままにあっさりと断定し…
荒木 待て待て、ここでいう「本文」とは何を指すのだ?
鈴木 それは同巻によれば、「新発見」の〔252b〕及び〔252c〕のことを指す。
 そしてこの「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の下書「不5」については、
 新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があると見られるので高瀬あてと推定し
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)28pより>
て、「不5」に番号〔252a〕を付けた、と説明はしている。
荒木 なあんだ、〔252b〕及び〔252c〕は露宛のものだと断定できるだけの十分な根拠がない上に、そのようなものを基にして〔252a〕も「高瀬あてと推定し」たということに過ぎないのか。そしてその段階のものを、露が亡くなったのでしれっとして公表したというわけだ。そんなことでいいんだべがね。「校本」と銘打っている割には甘いんじゃねぇ。
吉田 僕も以前、同巻が「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」としている理由をあれこれ推考してみたがなかなか合点がいかないでいる。
 ここはやっぱり、読者に対してもう少し具体的な理由を提示しながら、納得のいくような説明をしてほしいものだ。そうしないと例えば、この「断定」は実は露からの賢治宛来簡があってそれを基にそうしたのだが、賢治宛書簡は一切ないと公言している手前それを明らかにできないのであろう、などと勘ぐられかねない。
鈴木 まして従前の「不5」、つまり〔252a〕
お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。…(筆者略)…けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても居られませんからまことに困って居ります。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
  尚全恢の上。
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)454p~より>
については当時はどのように見られていたのかというと、『校本全集第十三巻』の「校異」においては次のような「註釈」、
 あて先は、法華信仰をしている人、花巻近辺で羅須地人協会を知っていた人、さらに調子から教え子あるいは農民の誰か、というあたりまでしかわからない。高橋慶吾などが考えられるが、断定できない。
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)707pより>
を付けていて、「あて先」は実質的には男性の誰かであろうと推測している。その「註釈」からは、それが女性であること、まして露その人であることの可能性もあるなどということは読み取れない。
荒木 それは、クリスチャン高瀬露がまさか「法華信仰をしている人」に変わっていたなどとは、普通は誰だって考えもしないであろうことからも当然だべ。
鈴木 しかもだ、次のことを筑摩の担当者は知らない訳が無かろうと思うだが、あの森が『宮澤賢治全集 別巻』の中で、
   書簡の反古に就て
 書簡の反古のうち、冒頭の數通は一人の女性に宛てたものであり…(筆者略)…反古に非ざる書簡は、二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが、眞僞のほどは、いまは解りかねます。…(筆者略)…
 ――これら反古の手紙の宛名の人は、全部解るのでありますが、そのままにして置きました。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日    
第三版)附録72p~より>
と述べている。そして、森は「冒頭の數通」の中の一通としてこの「不5」をここでは挙げている。
 したがって、同じ「不5」に対してなのにもかかわらず、先ほどの「註釈」と森の認識とでは異なっている。「註釈」では男性なのに、森の認識では女性だからだ。
吉田 なおかつ、森は「宛名の人は、全部解るのでありますが」と述べているので、この言を信じれば森は早い時点からこの「不5」すなわち〔252a〕の宛名を、その女性の名を知っていたということになる。
鈴木 しかし一方で、森はここで「二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが」と述べ、しかもこの「二人の女性」とは伊藤ちゑと露であるということもそこで実質明らかにしている。これも奇妙なことだと思わんか。
荒木 あっそうか。前に話題になった、森が上田に直接証言したという「〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった」と矛盾している。さっきの森の記述「二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが」を信じれば、森は露とこの時も会ったことになるから、計二回会っているということになるべ。
吉田 でもその「言明」は、森と露との間の書簡のやりとりによる可能性も否定できないぞ。とはいえ、以前に触れたことだが、『ふれあいの人々』の中にも似たようなことがあったしな。
荒木 あっ、そうそう。そこで森は「何人もの子持ちになってから会って云々」と述べていた。だとすると、少なくとも、言わば計二回半会っていたとも言えるべ…だめだこりゃ。もはやこれで決定的だな。森が露に関して述べていることはほぼ当てにならんということだ。
鈴木 実は、高橋文彦氏が「宮沢賢治と木村四姉妹」という論考の中で、
 彼女は、Mというある著名な地元賢治研究家の名を引き合いにして、彼女はもとより多くの人たちが、ありもしないことを書きたてられ、迷惑していることを教えてくれた。架空のことを、興味本位に、あるいは神格化して書き連ねた作品の多いことを指摘し、賢治を食いものにする人たちのおろかしさに怒りをぶつけた。
<『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社)81pより>
と述べている。
荒木 そうなんだ、世の中には似たような人がいるもんだな。
吉田 あっそっか、そういうことな。
◇「昭和4年」であることの不思議
荒木 ところでさ、さっき「昭和4年露宛書簡下書」ということだったが、そもそもなぜ「昭和4年」と言えるんだ?
吉田 それに関しては、以前、『新校本全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)を用いて僕も少し調べてみたことがあり、
 本書簡に書かれた賢治の病状は、昭和四年末ごろから五年はじめにあたるもので、かつ252cが四年十二月のものとみられるので、252a~252cはすべて四年末ごろのものと推定し
<『新校本全集第十五巻 書簡校異篇』(筑摩書房)142pより>
たと筑摩は言うんだな。なお、ここで言う「本書簡」とは〔252a〕のことを指している。
鈴木 しかしその時の病状ついては、〔252a〕に「左の肺にはさっぱり息が入りません」とそこに書いてあるだけなんだ。この一言だけでどうして「昭和四年末ごろから五年はじめにあたる」と判断できるのだろうか。
 実際、『新校本年譜』をいま捲ってみているところなんだが、どこにもそんな病状の記載は見つからない。確かにその頃賢治はそのような症状を呈していたかもしれないが、例えば急性肺炎になって病臥していたという昭和3年末~昭和4年始めだって似たような症状があったはずだから、さっきのは十分条件ではない。他の年の昭和6年や7年だってさえもあり得る。
荒木 やはりここでもその根拠は明確ではないということか。それじゃ〝一連の「書簡下書」〟がズバリ昭和4年のものであるということを示すような明確な根拠は結局ないのか。
吉田 ない。そもそもこの〝一連の「書簡下書」〟に関する筑摩の推論は、あることを推定し、それを基にしてまた別のあることを推定してそれを繰り返すというものだ。したがって、確率の乗法定理と同じで、そのことを繰り返す度にその蓋然性は当然下がってゆく。
鈴木 そうなんだよ、そこにあるのは危うさの連続とその自己増殖だけだ。このことが危惧されると思ったから、先ほど挙げた〝「新発見」の「書簡下書」〟のそれぞれには《用箋》名も付記しておいた。例えば、
   〔252b〕:「丸善特製 二」原稿用紙
   〔252c〕:「さとう文具部製」原稿用紙
というように対応する。
 すると、「新発見」とかたっている一緒に見つかったはずの4通のうちの〔252c〕のみが《用箋》の種類が違うことが判る。しかも、この〝一連の「書簡下書」〟の《用箋》を調べてみれば、この〔252c〕以外は全て皆「丸善特製 二」原稿用紙であることもまた判る。
荒木 えっ、いずれも「昭和4年露宛書簡下書」ということなのに、なぜ〔252c〕だけが「さとう文具部製」原稿用紙なのだ。しかもこの〔252c〕が今回の「新発見」となるため、かつ、「露宛」と推定する際の最大の鍵を握っているというのに、これだけが他のものと種類が違っているということは普通あり得ねえべ。
吉田 そのせいもあったのか、さっき鈴木が『逆になんか釈然としないんだよな』とぼやいたのは。当然、筑摩も〔252c〕と「新発見の下書(一)」とは《用箋》が異なっていることをかなり訝っていたはず。だから、逆にくっつけなかったんだよ。
鈴木 そういうことか。しかも、『校本全集第十四巻』の35pでは、「252a~252cはかなり短い時期に連続して書かれたものとみられる」と見定めているから、逆にとぼけたのかもな。
荒木 いずれにせ、〝一連の「書簡下書」〟は「昭和四年末」頃のものであるという確たる根拠は実は全くなくて、単にその可能性もあるということにすぎないのか。なあんだ。
鈴木 それに、前掲の〔252c〕の中には、
 あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。
と書かれている部分があるのだが、「あゝいふ手紙」という表現からそれは「複数の手紙」と解釈できるし、そして実際、続けて「前の手紙は…」と書き、「あとのは…」とも書いてることからは、賢治は「露と思われる人物に」2回は少なくともこの時に手紙を出していることになるから、昭和4年末頃になっても複数回の書簡を二人は往復させていることになる。
荒木 しかしさ、昭和2年の夏頃のことになるのだろうか、賢治は「レプラ」であると詐病して、しかも顔に灰を塗ってまでしても拒絶したと巷間言われている露との間に、昭和4年末頃になってもまだ複数回の書簡の往復があったというのか? 常識的に考えてかなり変だべ。
吉田 一方で、昭和3年の伊豆大島行から帰った賢治は、
 あぶなかった。全く神父セルゲイを思い出した。指は切らなかったがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と、伊藤ちゑのことを藤原嘉藤治に語ったという。そのような想いをそれぞれに抱いたと言われている賢治が、昭和4年末頃になっても露に手紙を出していたということになる。しかもあのような内容のだぞ。
荒木 普通そんなことはあり得ねえべ。昭和2年の夏頃から2年以上も過ぎてしまった昭和4年の末にこったな手紙を書こうとしたというのか。逆に、こんなことをしていたというのであれば「拒絶」は実は真っ赤な嘘で、賢治は昭和2年の夏頃以降もず~っと、露に未練があったのだ、などと言われかねない。
鈴木 しかもなんと23通もの〝一連の「書簡下書」〟を書き、あげくそれを残しているなんて普通はあり得ない。
吉田 そうさ、普通、手紙の反古は即座に処分してしまうだろう。実際賢治だって、これらの書簡下書内で、相手に対して「(この手紙を破ってください)」(〔252c〕)と伝えているくらいなのだからなおさらに、自分が書いたこのような男女間のもめ事を記した反古は即刻焼却処分してしまうという理屈になるはずだ。ところが、あろうことかその反古が後生大事に残され、それも二カ所に分けて残されていたということになるだろう。そんなことは常識的に考えてあり得ない。
荒木 となると、もしかするとこの事件の裏にはもっと複雑な事情や思惑があるのかもしれん。ちょっときな臭いな。
吉田 そこまで穿った見方は僕はしていないが、調べれば調べるほど後からあとから疑問が湧いてくるのがこの〝一連の「書簡下書」〟のようだから、この件に関してはここで切り上げて、次は、この〝一連の「書簡下書」〟が果たして露宛てなのかどうかの検証に移ろうよ。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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