《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
新庄を訪れてみてわかったこと去る平成27年7月12日、私は山形の新庄を訪ねた。『新庄ふるさと歴史センター』には松田甚次郎の日記が所蔵されているのでそれを見せてもらおうと思ったからだ。もし所蔵されていれば、昭和6年の日記のおそらく2月の何日かに『春と修羅』が賢治から贈られてきたことが書かれてあり、例の「草刈」の詩の中身が、
草刈
寝いのに刈れと云ふのか
冷いのに刈れと云ふのか
だったのか。それとも寝いのに刈れと云ふのか
冷いのに刈れと云ふのか
農夫の朝(草刈)
冷いのに刈れと言ふのか
眠いのに刈れと言ふのか
だったのか、はたまた冷いのに刈れと言ふのか
眠いのに刈れと言ふのか
草刈
つめたいというのに刈れというのか
ねむいというのに刈れというのか
のいずれであったのかが特定できるヒントもそこに書かれていると思ったからだ。しかし、それはかなわなかった。残念ながら昭和6年分の甚次郎の日記は所蔵されていなかったのだった。つめたいというのに刈れというのか
ねむいというのに刈れというのか
ただし、松田甚次郎自身のある墨書を同センターで拝見できたことは収穫であった。というのは、その筆跡が石川博久氏所蔵の『春と修羅』に書かれた「昭和六年二月 松田甚次郎」
〈石川博久氏所蔵『春と修羅』の「松田甚次郎」の署名〉
の筆跡と同じように素人目からは見えたし、同席した人もそれを肯んじていたから、石川氏所蔵のこの『春と修羅』は松田甚次郎本人の署名入り『春と修羅』であり、しかもそれは賢治から昭和6年2月に甚次郎に贈られたものであるとほぼ断定できるであろうことがわかったからである。
賢治は「草刈」を甚次郎の前で朗読した
一方で、この件に関しては『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料 篇』の24頁に、
間接的に伝えられた詩
賢治について回想した文章においてのみ伝えられる賢治の詩及び題名を次に掲げる。これらの草稿は現存せず、また生前に 発表されていないものである。
一、「農夫の朝(草刈)」
農夫の朝(草刈)
冷いのに刈れと言ふのか
眠いのに刈れと言ふのか
〔松田甚次郎『土に叫ぶ』(普及版)昭和十四年九月十五日刊、羽田書店、六頁〕…(以下略)…
とあるだけだから、石川博久氏所蔵の『春と修羅』の外箱に、つまり賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』の外箱に、賢治について回想した文章においてのみ伝えられる賢治の詩及び題名を次に掲げる。これらの草稿は現存せず、また生前に 発表されていないものである。
一、「農夫の朝(草刈)」
農夫の朝(草刈)
冷いのに刈れと言ふのか
眠いのに刈れと言ふのか
〔松田甚次郎『土に叫ぶ』(普及版)昭和十四年九月十五日刊、羽田書店、六頁〕…(以下略)…
草刈
寝<*1>いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか
と書かれていることを現時点では筑摩はおそらく知らないはずだ。
さりながら、前掲のいずれもその題は「草刈」だしその内容もほとんど同じといってもいいことからは、昭和2年3月8日に甚次郎と須田仲次郎が一緒に賢治の許を訪ねた際(あるいは昭和2年8月8日の可能性もあるが)に、その二人を前にして賢治は「草刈」という題のこのような内容の詩を詠じたという蓋然性は極めて高いと判断できる。しかも、賢治がその時に朗読したいくつかの詩の中で、感動した詩の真っ先に「草刈」の詩を甚次郎は揚げている。さらには、その4年後に甚次郎に贈られた『春と修羅』の外箱にその詩「草刈」が書かれている。そしてもちろん、賢治を師と仰ぐ松田甚次郎がこのような「草刈」という詩を捏造するなどということは普通考えられない。
したがって、
賢治は「草刈」という題の前掲の3つの詩の内のいずれかかあるいはこれと酷似した詩を松田甚次郎の前で朗読した。
と結論してほぼ間違いなかろう。その一方で、いま新庄では、いわゆる「賢治精神」を実践した甚次郎のことを再評価する動きがじわじわと起こっていることをこの度の新庄行で知った。そしてその動きは歓迎すべきことだし時代の必然でもあろう。なぜならば、賢治という人物及びその作品を初めて全国的に知らしめたのは他ならぬ甚次郎であるのにも拘わらず、昨今の賢治関連の資料から甚次郎の名前と業績はほぼ消え去っているが、井戸を掘った人の恩を忘れてしまうということは人の道に外れることのはずだからだ。
賢治の最も短い詩
ところで、賢治が限りなく詠んだのであろうと思われる「草刈」という題の詩は、
寝いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか
か
冷いのに刈れと言ふのか/眠いのに刈れと言ふのか
あるいは
つめたいというのに刈れというのか/ねむいというのに刈れというのか
のいずれかであろうと考えられるから、これらのいずれにせよ、「草刈」は賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩よりもさらに短いことになる。なぜならば、従前賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩は、栗原敦氏の「最も短い詩、その次の長さの詩…」によれば、
報告
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
(一九二二、六、一五)
イーハトーブの氷霧
けさじつにはじめて凜々しい氷霧だつたから
みんなまるめろやなにかまで出して歓迎した
(一九二三、一一、二二)
<『NHKシリーズ 宮沢賢治』(栗原敦著、NHK出版)17pより>さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
(一九二二、六、一五)
イーハトーブの氷霧
けさじつにはじめて凜々しい氷霧だつたから
みんなまるめろやなにかまで出して歓迎した
(一九二三、一一、二二)
だからだ。そして、当初私は「草刈」の詩がいずれであったにせよその中身はあまり賢治らしくない詩だと思っていたので違和感があったのだが、栗原氏の掲げたこれらの二つの詩に対して同氏が「たった二行の、投げ出されたままのような作品」と評価していることを知って、「草刈」はこれらの二作品と案外よく似ていると思ったので、この「草刈」が賢治の詩であるとしてもそれ程の違和感はなくなってきた。
したがって私は、
松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「寝いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか」というような内容の詩を詠じた。しかもその詩は賢治が詠んだ詩の中で最も短い作品である。
という蓋然性が極めて高いと判断できると今は思っている。<*1:投稿者註>
本来であれば、「寝いのに」の部分
〈石川博久氏所蔵の松田甚次郎署名入りの『春と修羅』より〉
の正しい漢字の使い方は「眠いのに」であるから、甚次郎はこの詩を字で書かれたもの(草稿など)で確認したわけではなくて、耳で聞いたものを覚えていてそれをただ外箱に書き記したと言えそうだ。そして、それは「冷たいのに」が「つめたいといふのに」であったり、「つめたい」と「ねむい」の順番が逆であったりしていることからも窺える。
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