《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
かつて私の持っていた「羅須地人協会時代」の賢治のイメージはまさに次のようなものだった。 自炊生活をし、荒地を開墾、農業に従事するかたわら、花巻及び近郊の農村数ヶ所に肥料設計事務所を設け、無料で設計相談に応じ二千枚もの肥料設計書つくってやり、また農村を巡回し肥料、稲作の指導講話し文字通り「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロ」歩いた賢治が過労のため…
<『宮沢賢治という現象』(鈴木健司著、蒼丘書林)329pより>この文章は小松享氏の「宮沢賢治聞書」の中の一節であるが、まさに私もかつてはこのように、賢治は貧しい農民たちのために献身的に活動し、徹宵東奔西走してついに昭和3年8月病に倒れたとばかり思っていた。そして、このように思っていた人、あるいはそう思っている人は少なからずいるのではなかろうか。つまり、これがよくある賢治のイメージではなかろうか。
しかし今の私は全く違う。「農業に従事する」といえるほどの「農業」はやっていなかったこと、二千枚もの肥料設計書つくってやったということの裏付けはないこと、そして何よりも「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たわけではなかったこと、そして当時冷害などはなかったから「サムサノナツハ」なかったことなどを知ってしまった今の私がいるからだ。そしてもちろん賢治自身は「羅須地人協会時代」に「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアル」いた等とは一言も言っていないにの、なぜ私はそう思っていたのだろうか。もしかすると、私たちは賢治の言いたかったこと、書きたかったことを素直に受け止めていないということはなかろうか。
もしそうであったとしたならばそうではなくて、私たちは賢治の言ったこと等を素直に受け止め、そして解釈すべきではなかろうか。例えば、賢治は
「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」
ということをしなかったからこそ、 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ…サフイウモノニワタシハナリタイ」
とノートにメモしたのだと。肝心なことはこの前半ではなくて後半の「赤文字」部分なのだと。それは換言すれば、しかるべきときにしかるべきことを為さなかったから今それ悔恨し、これからはそのような場合にはそのようなことを為す者になりたいと賢治は懺悔していたのだと。この「サフイウモノニワタシハナリタイ」こそが賢治の想いの殆ど全てといってもよく、これが無視された〔雨ニモマケズ〕では、賢治の言いたかったことは正しくは伝わらないのだと。なあにそんなこと当たり前じゃないかと言われてしまうかもしれないが、少なくともかつての私にとってそれは当たり前のことではなかった。
続きへ。
前へ 。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】
その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます