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第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相(テキスト形式)後編

2024-03-20 10:00:00 | 賢治渉猟
 書き残していなかったという事実
 さて、前頁で〝⑥〟であるはずだと述べたが、このことをここでは検証してみよう。
 まず、賢治関連の著者の中でこの時の療養中の賢治のことを一番よく知っている人物はもちろん、実質的に賢治の主治医だったとも云われている佐藤隆房であり、彼には先に引用した(78p~79p参照)ような証言がある。そして、その頃の佐藤隆房は医者の立場から豊沢町の賢治の実家にしばしば立ち寄っていたことは知られているし、賢治に直接会っていたことは当然のことであろう。実際その当時のことを佐藤はいろいろと書き残している。
 しかし問題はその佐藤ではなくて、普通に考えれば、賢治が「下根子桜」から撤退して実家に戻って病臥しているということであれば必ずや見舞うであろうと思われるはずの関登久也、藤原嘉藤治そして森荘已池の三人の場合である。
 この観点から言えば、一番先に挙げられるのが関登久也であり、彼の著作でそのようなことを書き残している可能性があるのは、
(1)『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版社、昭和18年)
(2)『宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和22年)
(3)『續宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)
(4)『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
であり、これ以外ではほぼなかろう。
 ところがそれぞれを瞥見した限りにおいては、このことに関して述べてあったのは意外なことに〝(4)〟の中にだけであり、それは以下のようなものであった。
  病床の頃
 過労と粗食による栄養不足のため賢治の健康は、昭和三年に入つてその衰弱が目立つてきたようでした。
 ことにもその年は気候が不順で、稲作を案じて昼夜をわかたず農村をかけまわつた末に、八月のある日、空腹のところへ夕立に濡れて帰つたのが原因で風邪をひき、遂に豊沢町の両親の家に帰つて、病臥の身になりました。しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり、そのまま無事に冬を過ごすことができました。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)95p >
 しかしこの記述は、かつてのほとんどの「賢治年譜」にあった昭和3年の記述、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
及び先の佐藤隆房の先の著書の二つを踏まえた記述と思われるし、これらの〝(1)~(4)〟からは新たな重要な情報は得られない。まして、関本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 それでは次は、物書きの中で一番このことを知っていてしかも書き残していそうなもう一人の人物森荘已池の著書からである。彼の場合はただ一ヶ所、
 …昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました
<『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202p>
という記述を発見できた。しかし同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点で既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森のこの記載内容はやはり前掲の「賢治年譜」や佐藤隆房の書を基にしていると判断できる。そして私が調べた限りでは、やはり目新しい重要な記載内容はないし、その他の彼の著作にもこのことに関してこれ以外の重要事項は書き残していない。またもちろん、森本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 そしてもう一人の藤原嘉藤治だが、彼にしても同様であった。だから結局は、本来ならば必ずや賢治を見舞いに行くであろうと思われるこの三人の中の誰一人として、その時に賢治を見舞ったということは一切書き残していなかったという事実があるということをこれで100%確認できたと言えそうなので、どうやら前々頁の〝⑥〟はほぼ正しかったようだ。
 ではこの三人はどうしてそれを一切書き残していなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが豊沢町にまでわざわざ見舞いに行ったが結局面会できなかったという菊池武雄の先のエピソード、
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
である。ちなみにこのエピソードの内容は賢治が亡くなった翌年に、『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中でいち早く公にされていたものでもある。したがって、関、森、嘉藤治が見舞いに行ったということを書き残していないことも変であるが、賢治にまつわる多くのことを書き残している関も森もこのエピソードについてすら一言も書き残していないはずだから、これもまたかなり奇妙なことである。
 すると気付くことがある。それはあの阿部晁が、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に次のように書いていることから推測されることである。
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳参升(根子切手)
    <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)170p>
 つまり、阿部は昭和3年9月22日に「牛乳三升(根子切手)」を携えて豊沢町の実家を訪ねて賢治を見舞っていた。となればなおさらに、例えば、嘉藤治は菊池を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというからとても気掛かりであったであろうし、菊池が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」と述べているくらいだから、普通に考えれば、嘉藤治もそのことを知って何度か賢治の実家に見舞いに行ったか、行こうとしたであろう。
 そこで冷静に考えてみれば、阿部は豊沢町の実家に賢治を実際見舞いに行ったというのに、そのような嘉藤治を含む関、森の三人が全くそのことを揃いもそろって公に書き残していないという理由は、この三人も実は見舞っていたのだが地元花巻では当時の賢治を公に見舞うということは禁じられていたからであったと解釈すれば、すなわち、昭和3年8月10日以降の賢治はしばし「自宅謹慎」中の身だったからその見舞いを公的に書き残すことはできなかったのだと解釈すれば全てがすんなりと辻褄が合う。そして一方、阿部晁は地元の人間ではあるものの、私的な日記だからこそ書き残せたのだと。
 それからもう一つ気付くことがある。それは、菊池は書き残していたというのに関、森、嘉藤治の三人はそうではなかったことの違いが、当時菊池は東京に住んでいた、その他の三人は地元花巻に住んでいたという違いと符合するということにである。ではそのことは何を意味するのだろうかということを少しく思い巡らしてみると、地元の三人は賢治が「自宅謹慎」していたことを知っていたが、既に大正14年に上京して図画の教師をしていた東京在住の菊池はその事情を知らなかったからであるという蓋然性が高いことにも気付く。
 どうやら事の真相は、賢治が実家に戻ったのは重病になったからだと名目上はなってはいるが、佐藤隆房が言っているように賢治はそれ程重病ではなかったから、もし二人が直に会ってしまうとそのことを菊池に気付かれてしまうことを危惧したので菊池の場合には面会を謝絶されたとも言えそうだ。そしてまた、菊池は賢治の「自宅謹慎」を詳らかに知らなかったのであのような追想をためらわずに書き、一方、この三人は実は賢治を豊沢町に見舞っていたのだが、菊池の場合とは違って、賢治は「自宅謹慎」中の身であることをよく知っていたが故に地元の三人は見舞ったことを公に活字にすることを憚ったという蓋然性が高い、ということもである。
 大体この辺りが、当時賢治を見舞ったということを関、森、嘉藤治の三人が揃いもそろって公的に一切書き残していなかった真相であったとしてもそれ程大きな違いはなかろう。
 というわけで、先の79pの〝⑥〟の理由付けもかなりの程度できたので、現時点での私の判断は、
 賢治が病気になって「下根子桜」から実家に戻り、重篤故に病臥していたというのにも関わらず、関、森、嘉藤治の三人の誰一人として見舞いに行ったとか、見舞いに行ったが謝絶されたとかということのいずれについても公的に書き残していないということは、見舞いに行ったがそのことを活字に残すことが許されなかったか、あるいは見舞いそのものが許されなかったからだ。
という蓋然性が極めて高いということである。
 おのずから仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
の妥当性もさらに増したと言える。

 論じてこられなかった理由と意味
 †当時のソ連における賢治評
 ここで少し日本を離れて、第二次世界大戦直後、宮澤賢治はソ連ではどのように見られていたのだろうかということについて少しだけ触れておきたい。そのことを高杉一郎のシベリア俘虜記『極光のかげに』(岩波文庫)が教えてくれるからだ。
 まずはこの著者高杉なる人物についてだが、同書の「あとがき」によれば、彼はそれまで勤めていた改造社が戦争遂行に協力的でないという理由で昭和19年の7月に解散させられたので職を失い、同年8月8日に名古屋に招集され、満州へ送られたという。そしてその一年後に敗戦にあい、シベリアに送られ軍事俘虜としてそこで4年間抑留され、昭和24年9月に帰還したという。
 さて、前掲書には著者高杉本人が俘虜収容所である将校から受けた尋問の際の次のようなやりとりが綴られている。
 尋問がはじまって、姓名、生年、生地、学歴、職歴、軍歴、父の職業などを質ねられる。…(筆者略)…
 「なぜ?」
 「軍人が好きでなかったからです」
 ふん、というような不信の表情を彼は肩で示した。
 「ミヤザーワ・キンジを君は知っているか?」
 宮沢金次、宮沢欣二……私は頭の中であれこれと友人を捜し廻ったが、宮沢なる者は私の友人のなかにはいなかった。
 「知りません」
 「嘘つけ! 君のためによくないことになるぞ。イシカーワ・タクボークは?」
 石川啄木――あることを想い出して、私は咄嗟にはっとした。金次ではない。宮沢賢治だ。私は忽ちにしてこの質問の意味を悟った。…(筆者略)…
 さっきの質問に答えて、私は言った。
 「石川啄木は日本の詩人です。宮沢賢治――キンジではありません――は詩人で児童文学の作家です」
 「彼らはアナーキストだろう?」
 「アナーキスト? 広い意味でのアナーキストと呼ぶことはできるかの知れません。が、彼らは政治的な意味でのアナーキストではありません。文学上のウトピストです。石川啄木は民衆の詩人です。日本のニェクラーソフです」
    <『極光のかげに シベリア俘虜記』(高杉一郎著、岩波文庫)45p~>
 そしてこのやりとりから読み取れることの一つに、当時のソ連では啄木のみならずなんと賢治も知られていて、しかもこの二人はアナーキストと目されていたということがある。啄木がそのように見られていたということはむべなるかなと思ったが、まさか賢治までもがそのように見られていたということはちょっと意外だった。が、少なくとも共産主義国家のソ連では、当時賢治はアナーキストと思われていた節があるということがこれで判った。またこのやりとりからは、将校がアナーキストに敵愾心を持っていることが判るし、ボルシェビズムのソ連がアナーキストを目の仇にするのも理屈としてはわからないわけでもない。
 すると思い出されるのが、名須川溢男の伝えるところの先に引用した(68p参照)、例の交換授業である。賢治は『仏教にかえる』と断言して翌夜からうちわ太鼓で町を廻ったいうことだから、賢治はその後すっかり労農党とは縁を切ったものと推測されがちである。
 ところが、先の尋問のやりとりを知ってしまうと実は、
 川村からレーニンの『国家と革命』を教えてもらった結果、レーニンの思想ではだめだということを賢治は悟り、やはりアナーキズムでなければならないと認識を新たにしたという解釈も可能だ。賢治は川村に『日本に限ってこの思想(レーニンの思想、ボルシェビズム)による革命は起こらない』と断言はしたが、アナーキズムによるそれを否定したわけではない、という可能性がある。
ということに改めて気付く そしてもう一つ、
 ボルシェビズムのソ連では、賢治は「にっくきアナーキスト」の一人だということで結構知られていたのかもしれないということを私は心に留めておかないと、もしかすると認識を誤ることがあるかもしれない。
ということにも気付く。なぜならば、件の将校はまず賢治の名を出し、次に啄木の名を出し、そしてこの二人をひっくるめてアナーキストだろう?と訝っているわけだから、賢治は啄木に勝るとも劣らない「アナーキスト?」だと少なくとも件の将校は認識していたということが導かれるからである。まずないとは思うが、知らないのは日本人の方だったということも完全には払拭できないのかもしれない。
 †昭和40年代になってからやっと明らかに
 とまれ、賢治は当時のソ連にまでその名が知れ渡っているような人物であり、「アナーキスト?」とも思われていたようだということがこれでわかったから、まして日本の官憲は賢治を徹底してマークしていたであろうというところまでは容易に想像ができる。では、当時日本国内で賢治は思想的・政治的にはどう見られていたのか、そしてそもそも賢治はこのことに関連してどのような活動をしていたのだろうかということをここで改めて考え直してみたい。
 このことをまず教えてくれるのが、先にも引用した(68p参照)小館長右衛門の次の証言であり、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(筆者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)
265p~〉
賢治は当時かなり積極的に活動していてしかも労農党稗和支部の「実質的な中心人物だった」ということまでも小館は断定している。
 また、煤孫利吉は、
 事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。
と(70p参照)、そして川村尚三は、
 昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『俺がかりてくれる』と言って宮沢町の長屋―三間に一間半ぐらい―をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。
と(70p参照)、いずれも小館と同じようなことを証言しているというから、賢治が労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在であったことはもはや疑いようがないし、活動にも熱心であったことがわかる。
 それは羅須地人協会の会員伊藤與藏(明治43年生まれ)の証言からも裏付けられる。具体的には、『賢治聞書』(伊藤與藏、聞き手菊池正、昭和47年)によれば、
「与蔵さん、選挙演説を聞きに行きましょう」と誘われたことがあります。演説会場は相生町の繭市場ではなかったかと思います。候補者は泉国三郎でした。
とか
 伊藤忠一君がマルクス全集を買いました。それを聞いて先生が、十年かかっても理解はむずかしいよ、と言っていました。今思い出してみると、先生の話の中に、カール・マルクスとか、フリードリッヒ・エンゲルスという名前がなんべんもあったように思います。たぶん社会主義対する先生のお考えもお話になったと思いますが、残念ながら少しも覚えていません。
 <共に『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明著、時潮社)40p~>
ということを與藏は証言していて、この泉国三郎とは当時の労農党稗和支部長であったし、マルクスやエンゲルスの名も出てくるこれらの証言からは、賢治が政治的・思想的な面でも他人に積極的かつ熱心に働きかけていたということが導かれるからである。それも、共に賢治よりも一回り以上若い、当時17歳頃の若者である與藏や忠一に対してまでもである。
 しかも川村尚三は、
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。
ということも証言している(70p参照)から、先ほどのソ連の将校が賢治と啄木とをひとまとめにして「アナーキスト?」と認識しているのも由ないことでもない。
 そして小館は、このような賢治の思想的・政治的な活動が、
 なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。…(筆者略)…」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p〉
と推測していて、その「おもてにそれがいままでだされなかった」事柄に対して、昭和40年代になって初めてスポットを当てて明るみに引っ張り出したのが名須川溢男であったと言えるようだ。
 †いつも利用されている賢治
 次に歴史的に振り返って見れば、気の毒なことに、賢治は亡くなってからはいつも誰かに利用され続けてきたという感が私にはある。例えば、『「雨ニモマケズ手帳」新考』の中には、
(〔雨ニモマケズ〕は)一九四二(昭和十七)年には、軍国主義的独裁政治の国策遂行を目的に組織された「大政翼賛会」の文化部編になる「詩歌翼賛」の第二輯「常盤樹」の中に採録され、当時の国民とくに農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。…(筆者略)…独り農民に関してだけではなくて、一般的に権力に利用される危険性をもっていたといえよう。一九四四(昭和十九)年九月、谷川徹三氏が東京女子大学で「今日の心がまえ」なる題下に行った講演はこの詩を中心とした賢治に関するもので、翌年六月には当時の国策協力の出版「日本叢書」(生活社刊)四として「雨ニモマケズ」の書名で初版二万部も発行された。正に前記「詩歌翼賛」の「常盤樹」への採録と相呼応するものと言えよう。
  <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)147p~>
ということが述べられていて、しかもこの著者小倉豊文は「雨ニモマケズ手帳」研究の第一人者だから、「雨ニモマケズ」が、延いては賢治が戦意高揚に利用されていたことは否定できない事実であったと言えるだろう。
 となれば、特に戦時中賢治をこのように利用しようとしていた人達にとっては、当時賢治は少なくとも官憲等からは「アカ」と見られていたことはほぼ確実だから、そのような類のことは極めて不都合だったであろう。まして、その賢治が当時の凄まじい「アカ狩り」を恐れて実家に戻って自宅謹慎していたという類の話はなおさらそうであったであろう。では、その時にそれでも賢治を前掲のように利用しようとする人たちはどうしたかといえば、普通に考えればそれらのことにはいち早く蓋をしてしまうということだったであろう。
 つまり、賢治のそのような類のことはアンタッチャブルなことにしてしまうのが常道手段であろうことに気付く。それはまた、「昭和3年夏以降の賢治の病臥」について触れればおのずから「アカ狩り」に対処した「自宅謹慎」であることに繋がっていく危険性が大きいので、その謹慎事情を知っているあの三人は賢治を見舞った(あるいは見舞ったが見えることができなかった)ことを公には書き残していなかったのだという一つの解釈の仕方をも教えてくれる。
 というようなわけで、賢治のこの類のことに触れることは長らくタブーとなっていたのであろう。そして、その蓋を再びやっとこじ開けたのが名須川であると言えるのだろう。実際、私は今まで「羅須地人協会時代」の賢治を調べていくつかの著作を公にしてきたが、それらは結果的には「通説」と違っている場合も多かったのでそのせいであろうか、拙著を読んでくださった地元の人から『このようなことを公に言ったり活字にしたりすることは花巻ではタブーなんだよ』と忠告されたことがあるから、なおさら私は長らくタブーであったのであろうことを実感する。
 どうやら、以上が、このような類のことが賢治歿後しばらく論じてこられなかった有力な理由になり得るのではなかろうか。そして逆に、それが殆ど論じられてこなかったということこそが、当時の賢治は無産運動の良き理解者、労農党の強力なシンパ、それ以上の強力なパトロン、あるいはまた、政治的・思想的にかなり心情的アナーキストであった蓋然性が高いということを意味しているのではなかろうか。
 そして、先の仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
を間接的に裏付けてくれているのではなかろうか。つまりこれらのことがしばらくの間論じてこられなかったこと自体が、あれは「自宅謹慎」であったということを傍証してくれている、そんな気もしてくる。

 仮説を裏付けている賢治自身
 さてここまで検証してみた限りでは、この仮説〝○*〟を裏付けてくれるものは少なからず見つかるのだが、一方でその反例は見つかっていない。
 しかも、この仮説をさらに強力に裏付けてくれるある人の有力な証言がまだある。ではその人とはだれか? それは他でもない賢治自身であり、この章の始め(63p参照)に引用した昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)で述べている、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。
    …(筆者略)…
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
の中の一言「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」が、他でもないその証言である。
 なぜならば、この「演習」とはあの「陸軍大演習」のことであるということがまず間違いないということは先にはっきりさせることができているので、この一言の意味するところは、
 10月上旬に行われる「陸軍大演習」が終わるころ再び「下根子桜」に戻る。ただし、そこに戻ったならば今までとは違い、創作の方を主にする。
という決意を述べているとほぼ言えるから、この一言は仮説、
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
を強力に裏付けていることになろう。
 もう少し丁寧に言うと。もし従前いわれてきたとおりに「遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す」ということであれば、「下根子桜」に戻るのは病気が治ったならばと当然なるはずだが、そうではなくて、演習が終わるころにと愛弟子に伝えているからである。まして賢治は「やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました」と9月23日時点で述べているのだから、この書簡では、例えば「かなり体調も良くなったので間もなくまた根子へ戻って……」というような書き方をするのが普通であろう。ところがやはりそうではなかったからである。
 もちろん、当時の賢治は体調が優れなかったことはほぼ事実だろうが、それ程重症だったわけでもないこともまた同様であったことは先に検証できている(67p&78p参照)からますます、賢治が実家に戻った真の理由は病気のせいなどではなくて「当局に命じられて、演習が終わるまでは実家に戻って謹慎していなければならなかった」からだということを先の「一言」が一層強く示唆してくれる。
 そもそも、なぜ賢治が官憲からマークされていたかといえば、それは実家に戻る前までは労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在であり、しかも周りからいわゆる「アカ」と見られるような活動をしていたからであったことはほぼ明らかだ。それがゆえに賢治は「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」に遭って当局から「自宅謹慎」をさせられたということになれば、その演習が終わったとしても爾後それまでと同じような活動が許されないことは当然だったであろう。そしてそのことを賢治の「一言」の中の「根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」がこれまた示唆してくれる。もはや賢治がそれまでのような活動が許されないことを賢治は承諾し、「下根子桜」に戻ったならばそれまでとは違って創作の方を主にすると決意したから愛弟子にもそう伝えたのだ、ということをである。
 というわけで、実は賢治自身がこの仮説〝○*〟の妥当性を強力に裏付けてくれていると言える。そして、もしこれが事の真相であったとするならばそのような賢治の変節については多少違和感はあるものの、それはそれほど責められるべきことでもなかろう。なにしろ同じような立場におかれたならば私はいともたやすくにそうしかねないからだ。
 そして同時に、大学同期生のM氏が賢治の甥岩田純蔵教授に『賢治はどんな人でしたか』と強引に訊ねたところ、先生は『普通の伯父さんでしたよ』と教えてくれたということをM氏から聞いていた(平成25年9月1日於A館)こともあり、
 賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったためだったというよりは、その真相は「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」に対処するためであったとしても、賢治だって基本的には我々と同じ、普通の人間だったのだということなのだろう。
と捉えて構わないのだと安堵した。そしてなによりも、そのような身の処し方をする賢治の方がかえって身近な存在と感ずることができて、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと思えてくる。しかも、彼の残した作品には極めて素晴らしい作品があまたあるのだからなおさらにである。

《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さてここまでの検証等により、賢治が昭和3年8月に実家に戻ったのは病気が重くなったためだったというよりは、10月に行われる「陸軍大演習」を前にして吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」に対処して「自宅謹慎」したためだったということの方の信憑性がかなり高いことを実証できた。しかも、このような説を公にした人は今まで全くいなかったはずだ。
 しかし、平成の時代になってからでもこのような合理的な推論ができるくらいだから、実は宮澤賢治研究家はかなり早い時点からこのことに気付き、この類の説を精緻に論考することが当然できていたはずだ。「演習」とは実は何のことを指し、なぜ昭和3年に実家に戻ったのが「8月」だったのかをたちどころに解明できていたはずだ。ところが、私の管見故か、そのようなことが今までに公的に論じらたことは一切なさそうだ。そこで単純な私は生意気にも、まさしくこの実態こそがその類のことに公に触れることはタブーだったということを実は示唆している可能性があるなどと大それたことまで考えてしまう。
 一方、今の時代ではとても信じられないことだが、当時「社会主義者」は火付けや泥棒の類に思われていた(石川準十郎、『岩手日報』(S44・8・21))時代だったという。ということであれば、もし「宮澤マキ」の「宮政」の御曹司賢治が「アカ」だと周りから見られていたと仮にすれば、隠然たる力があった「宮澤マキ」に対して、周りの人達は当然遠慮してそのようなことに関して公的には口をつぐんできたであろう。
 そしてまた、かつての「賢治年譜」の昭和3年8月に「賢治は風雨の中を徹宵東奔西走したために風邪をひき、実家に帰って病臥した」と、事実と違った記載がされていても周りの人たちは誰も異論を差し挟まなかっただろうし、挟めなかったであろうということは理屈としては成り立ち得ることであるし、それ故この「賢治年譜」が「通説」になってしまったということもまた十分にあり得る。一方で、それを意識したか否かはさておき、賢治を戦意高揚に利用したかった人達にとってはこの「通説」は好ましいものであったであろう。
 しかしながら、仮説〝○*〟を立ててここまで検証してみたところ、賢治自身がそれを裏付けてくれていたりしている一方で、今のところその反例は一つも見つからない。したがって今後その反例が見つからない限りは、「通説」とは異なってはいるものの、実は〝○*〟がその真相だったとしてよいことがこれでわかった。
 なお、その演習が終わった後に再び賢治は「下根子桜」に戻ったか否かについてだが、『新校本年譜』によれば、昭和3年のこととして
一〇月二四日(水) 菊池武雄あて(書簡244)の中身なしの封筒の裏書きに「稗貫郡下根子」とあるので、このあたり一時協会へもどったようである。が、再び実家で臥床したことは高橋慶吾あて書簡(書簡245)で見られる。
一〇月三〇日(火) 佐藤二岳あて葉書(244a)。二岳作の俳句に対して、賢治が付句を試みたもの。
一二月二一日(金)〔推定〕高橋慶吾あて返書(245)。この頃もまた三八度の熱で臥床中であった。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)>
となっているので、どうやら確定はしていないようだ。
 ちなみに『新校本全集第十五巻書簡本文篇』によれば、菊池武雄宛書簡については、
244〔十月二十四日〕菊池武雄あて 封書〔用箋ナシ〕
《表》東京市四谷区 四谷第六小学校内 菊池武雄様
《裏》稗貫郡下根子 宮澤賢治〔封印〕〆
となっているから、賢治はこの時点では「下根子桜」に戻ったとも考えられるが、如何せん中身がないというから、「このあたり一時協会へもどったようである」という推定にならざるを得ないということは尤もなことだ。
 もちろん、書簡(244)の中身が見つかれば「このあたり一時協会へもどった」か否かの確定ができるかもしれないが、それがなぜないのかを私があれこれ穿鑿しても詮方ない。そこで私は、下根子桜の「桜地人館」へ出かけて行った。なぜならば、同館では先の佐藤二岳(隆房)宛葉書(244a)の現物を展示しているからである。その葉書の宛名の面を見れば賢治がどこからその葉書を出したかが判るので、その場所が下根子桜であったならば、「このあたり一時協会へもどった」とほぼ確定できると思ったからだ。そして、同館の館員の方にその葉書の宛名の面を見せていただけないでしょうかとお願いをした。すると後日、残念なことにこの葉書は台に貼り付けてあるので宛名の面は見ることができないという返事をいただいた(しかも、宛名の面の記録もないとのことだった)。
 次に高橋慶吾宛書簡についてだが、同巻によれば、
245〔十二月二十一日〕高橋慶吾あて 封書
 《表》向小路 田中様方 高橋慶吾様
 《裏》豊沢町 宮沢商会内ニテ 宮沢賢治(封印)〆
拝復
貴簡難有拝誦仕候
貴下献身の高義甚感佩の至に有之何卒御志の達成せられんことを奉祈候
小生名儀の儀は御承知通り当分の小生には農業生産の増殖と甚分外乍ら新なる時代の芸術の方向の探索に全力を挙げ居り右二兎を追て果して一兎を得べきや覚束なき次第この上の杜会事業の能力は当分の小生には全く無之右不悪御諒置奉願候             敬 具
                    宮沢賢治
  高橋慶吾様
      私信
追テ皆様ニハ宜敷御鶴声奉願候
 この頃又もや三十八に逆戻り致し床中乱筆御免被成下度候
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
ということだから、同年12月には再び実家にて発熱で病臥していたということはそのとおりだろう。しかし、「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」と愛弟子の澤里武治に伝えた賢治ではあったが、残念なことにその後、賢治が再び羅須地人協会に戻ることはなかったということは周知のとおりである。
 結局、現時点では賢治がその後一度「下根子桜」に戻ったか否かは確定できない。さりながら、そのことは定かでないにしても、昭和3年の8月~12月の間に「羅須地人協会時代」がその終末を迎えたということは動かしがたい。どうやら、以上が「羅須地人協会時代」終焉の真相であったということになりそうだ。
 さて、賢治が歿してからもう80年以上も過ぎてしまったし、今や賢治の多くの作品が素晴らしいものだということは何人も認めてくれる時代となった。だから今度は、そろそろ創られ過ぎた賢治を本来の賢治の姿に少しずつ戻さねばならない時代がやってきているということなのではなかろうか。
 たしかに賢治はずば抜けた天才であることには間違いない。が、賢治の言動は凡人には理解しがたい点も少なからずあるということもまた事実である。さりながら、もしかするとそれ故にこそ、それまでもそしてこれからも誰にも詠めないような、私の大好きな心揺さぶる「原体剣舞連」等を含む心象スケッチ『春と修羅』等を残したり、あるいは「第四次」感覚を持つ賢治でなければ書けないような「やまなし」や「おきなぐさ」等の素敵な童話を創作してくれたりした作家だった、ということで一向に構わないのではなかろうか。
 どうも、今までの賢治像はあまりにも聖人・君子すぎて私のような凡人には近づきにくいというのも事実だ。ところが、「羅須地人協会時代」の賢治を調べてみたならば、案外普通の人間と同じようなところも少なからずあったし、あるいはそれこそ「ひとりの修羅なのだ」とも言えそうだし、当時の賢治の生き方はまさに「不羈奔放」であったとも言える。
 そしてそもそも、創られすぎた賢治像を他でもない賢治自身が一番苦々しく思っていると思う。ひたすら求道的な生き方を求めたはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「ひたむきに真理を求め続ける姿勢」だったと私は思うからだ。だから、賢治自身は聖人や君子になるなどということは微塵も考えていないかったはずだ。そして私たちも、賢治が聖人や君子になろうとしていたことなど全くないということは誰でも知っているはずだ。
 だから、もうそろそろ《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》移行してもよい時機なのではなかろうか。

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