![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/d2/61b3ab6cf3a0e6a471ece51065dc0b21.jpg)
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉
では今回は、「第二章 鈴木東蔵と宮澤賢治・その出会い」の中の項「◇フレットミルの据え付け」からである。
同項によれば、東北砕石工場では昭和3年にフレットミルを据え付けたという。そしてこの装置によって、「東蔵願望の粉末状石灰の生産」が可能になったともいう。
このフレットミルで粉砕した石灰石粉を早速小岩井農場に送ってみた。農場での試験結果は、従来の五分目(この大きさでは肥料にならない)バラスより施用効果が顕著だと喜ばれ、以後粒径の細かい「石灰石粉」へと、農場の示す注文条件も変更されていくのだった。
それがまた小岩井農場の施肥効果を知った三本木軍馬補充部が、この「石灰石粉」を施用することになり、続いて、六原、白川、川渡など各補充部に拡がっていくのであった。そうこうしているうちに、ようやく「石灰石粉」の名称が公告され、入札によって使用されるようになっていき、やがては一般農家からの需要にまで広がっていった。
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)87p〉それがまた小岩井農場の施肥効果を知った三本木軍馬補充部が、この「石灰石粉」を施用することになり、続いて、六原、白川、川渡など各補充部に拡がっていくのであった。そうこうしているうちに、ようやく「石灰石粉」の名称が公告され、入札によって使用されるようになっていき、やがては一般農家からの需要にまで広がっていった。
のだそうだ。
私はこの箇所を読んで、幾つかの点が腑に落ちた。それは以前、「新しい入札も賢治の努力で成功し、軍馬補充部白川、川渡、三本木の三カ所に納入することができました」(『宮澤賢治と東山』(鈴木實著、熊谷印刷)91p~)ということを知ったのだが、こちらの『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』によれば、「賢治の努力」も寄与していたかも知れないが、フレットミルの据え付けによってそうなったとも言えそうだということをまず知ったからだ。
そして、小岩井農場に「フレットミルで粉砕した石灰石粉」を納入できるようになったことにより、「三本木、六原、白川、川渡など各補充部に拡がって」いったのだということもである。同時に私は、その時に、賢治は六原の補充部には営業に出掛けなかったのではなかろうかと疑問に思ったのだったが、実は小岩井農場の施肥効果を知った六原は既に「石灰石粉」を使っていたから、賢治は営業に出掛けるまででもなかったということも考えられるぞ、ということもまたである。
それからもう一つ大事なことを知った。それは「「石灰石粉」の名称が公告され、入札によって使用されるようになっていき、やがては一般農家からの需要にまで広がっていった」ということをだ。これに従えば、「一般農家からの需要にまで広がっていった」ということであり、それがどのような層の農家であったのかまでは知ることはできないが、一般の農家でも「石灰石粉」でも実際に使われていったようだということを知って、幾ばくか私は安堵したのだった………ところがそれは糠喜びであった。というのは、その後、「一般農家からの需要にまで広がっていった」とはどうやら言い切れないということを私は確信するに至ったからだ。
そもそも、当時は農業恐慌の時代であり、しかも、当時は小作農や自小作農が農家の6割前後も占めていたから、多くの農家は金肥を購入する金銭的な余裕がほぼなかったことは自明であり、「やがては一般農家からの需要にまで広がっていった」とは考えにくいということを私は覚った。しかも、〈482 昭和8年〔8月〕4日 東蔵宛賢治書簡〉には、
拝復 調整器は一箇八拾銭の趣右に先日の見本も添附して送料矢張八拾銭位かとの事にて候。…(投稿者略)…炭酸石灰は今春頂戴の分の内、南城組合等思はしからず尚残荷有之御諒察仰上候。
〈『新校本 宮沢賢治全集〈第15巻〉書簡・本文篇』452p〉とある。そこでこの、「炭酸石灰は今春頂戴の分の内、南城組合等思はしからず尚残荷有之」に注目すれば、昭和8年の春に入荷した炭カルが夏になってもまだ売れ残っていたということになる。しかも、賢治の地元南城組合でさえも思わしくなかったというのだからなおさらに、「やがては一般農家からの需要にまで広がっていった」とは考えにくい。
それはさておき、同書を遡って85p~86pを見てみると、昭和3年にこの高額なフレットミルを東蔵が据え付けることができたのは、秋山源平や沖盛そして小野寺千代松のお蔭であったということが紹介されていた。そこでだろう、東蔵はこの年のことを「幸運の年」と言っていたということもである。
とまれ、東蔵が思い切ってフレットミルを据え付けたことと幸運によって「石灰石粉」の需要が急激に拡大していったということは少なくとも言えそうだ。ただしそれは、アルファルファなどの良質な牧草を必要とした小岩井農場や三本木の軍馬補充部等に対してであり、一般の農家に対しては、稲作用としては殆ど売り込めず、せいぜい畑作用にであった、ということになるだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book_mov.gif)
前へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book_mov.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuma_wel.gif)
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
《新刊案内》
『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/1a/11ffd1c7351ca2831d009111c2539ccd.jpg)
は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております。
あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
☎ 0198-24-9813
なお、目次は次の通り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f4/225ccb6123f463e7ffd5cdb1340478c0.png)
〝「宮澤賢治と髙瀨露」出版〟(2020年12月28日付『盛岡タイムス』)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/4a/f4da399f3a1bb0cf6b629a71259b080b.png)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます