みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

論文『宮澤賢治の「稲作と石灰」について』

2020-12-03 20:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
《『東北砕石工場#10』(平成20年12月4日撮影)》

 先に、〝第73回岩手芸術祭に入賞はしたものの〟において、
    この論文のつづき等についてはおいおい当ブログでも公にして行きたい。
と前触れしておいた。ところが、この論文が所収された本『県民文芸作品集第51集』の出版は12月以降であり、しかも一方で、拙ブログにおいては
   〝稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない
という投稿が、相変わらずコンスタントに閲覧数が最も多い。そこで、この論文『宮澤賢治の「稲作と石灰」について』をこの度公にすることにした。
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    宮澤賢治の「稲作と石灰」について
                               鈴木 守
一 はじめに
 私は『みちのくの山野草』というブログを開設している。その中で、ここ暫くコンスタントに閲覧数の多いのが「稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない」というタイトルの投稿(平成二九年一月七日)に対してである。
 ちなみに、その内容の概略は次のようなものだ。
 かつて満蒙開拓青少年義勇軍の一員であった、滝沢市在住の工藤留義氏から、「稲は酸性に耐性がある」と私は教わった(平成二八年九月七日)。
 そこで、早速農林水産省のHPを見てみたところ、「3 土壌のpHと作物の生育 3-1 作物別最適pH領域一覧」という表が載っていて、
  イネ:最適pH領域は 5.5~6.5 弱~微酸性の広い領域で生育
となっていた。
 さて、一体なに故にこの投稿に対しては閲覧数が多いのだろうか。

二 知らないのは私たちだけ?
 私自身は、この「稲は酸性に耐性がある」ということを教わった瞬間、ショックだった。それまではこんなことを夢にも思ったことなどなかったからだ。そして次に、先の表「3」を眺めながら改めてショックに襲われた。同表には、pH7より大きな値が最適土壌である作物など何一つ載っていないということにも驚いたが、それよりもなによりも、「稲は酸性に耐性がある」がやはり正しいのだということを思い知らされたからだ。というよりは、より精確には、
 稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、稲の最適土壌は弱~微酸性(pH5.5~6.5)である。………①
が実は本当のことであったと知ったからである。
 そこで私は、先の投稿に対しての閲覧数が多い大きな理由は、この投稿内容に対して私と同様なショックや戸惑いを感じている方が少なからずいるからに違いないと推察した。ついては、この投稿をした責任上、この件に関しての論考を書かねばならないのだと決意した。

 さて、私はそれまでは、
 東北砕石工場技師時代の宮澤賢治は、貧しい農民に炭酸石灰(石灰岩抹)を安くしかも豊富に供給し、それを田圃に撒くことによって酸えたる土壌を中性にし、稲の収量を増してやった。
と認識していた。というのは、特に真壁仁の「酸えたる土にそそぐもの((一))」を読んで、私なりに解釈してこうだったのだと納得していたからだった。そしてこの認識については、知人等に聞いてみても、東北砕石工場技師時代や羅須地人協会時代の賢治はそうであったと同様な認識をしている人が殆どだった。
 しかし実は、前掲の〝①〟が正しいということだから、稲にとって石灰(石灰岩抹)はむやみやたらに撒けばよいというものではなかったのだ。すると思い出すことは、高橋光一が伝える羅須地人協会時代の次のエピソード、

 土地全體が酸性なので、中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた時には、これも氣に入らず、表土一面真っ白になった樣子に、さも呆れて「いまに磐になるんぞ。」とか、「あれやぁ、龜ヶ森の會社に買収されたんだべ。あったな事すてるのは……。」とかさまざまでした。けれども私は負けませんでした。先生のおっしゃる事を信じていたからです((二))。

である。ところが、この高橋のように石灰を撒きすぎると、石灰には中和作用があるから稲の最適pH領域(5.5~6.5)を超えてしまうことが起こり得る。しかも、「先生のおっしゃる事を信じていたからです」の「先生」とは賢治のことを指す。となると、賢治はこの「本当のこと〝①〟」を高橋にはたして教えていたのだろうかとか、はたまた、そもそもこの事実〝①〟を賢治は知っていたのだろうか、という疑問と不安を私は抱いてしまった。
 そこで私は、北上市にある『農業科学博物館』を訪ね(令和二年三月二七日)て館員の方に、
 多くの賢治研究家は、稲にとって最適土壌は中性だと思っているようです。ところが実は、それは弱酸性~微酸性、pHが5.5~6.5だと知ったのですが。
と問うたならば、
 かつては皆さんはそう思っていたようですが、最近は、(農業関係者ならば皆)弱酸性~微酸性だということは知っておりますよ。
と教えてくれた。そこで、「もしかすると、知らないのは私たちだけ?」と心の内で思わず声を上げてしまった。そのようなことを指摘していた賢治研究家を私は誰一人見つけられずにいたからだ。続けて私は、
 石灰は撒きすぎると田圃が固くなってよくない、とも聞くのですが。そして、実際にある篤農家に直接訊いてみたならば、「田圃に石灰を撒くことはかつても、今でもない」とも教わった((三))のですが。
と話したならば館員の方は、
 そのとおり固くなります。やり過ぎはよくありません。田圃に石灰を施与する人はあまりいないと思いますよ。畑は別ですが。
ということも教えてくれた。

三 「石灰岩抹といわぬ日はなかった」
 ところで、賢治はなぜ石灰(石灰岩抹)に興味・関心を持つようになったのだろうか。このことに関しては、森荘已池が、
 
 宮沢さんは三十年以上も前に、粒状の石灰岩抹を考えたのです。大学者に近い人で、このへんにざらにある農業指導者ではありません。…筆者略…当時花巻農学校の生徒などは、先生は石灰岩抹と耳にタコがよるほどいうといっていたものです((四))。

と紹介していた。また、実証的賢治研究家であった菊池忠二も「肥料展覧会と石灰工場の技師」という論考において、

 当時の在校生たちは「カラスの鳴かない日はあっても、宮沢先生が石灰岩抹といわぬ日はなかった」と語っており、口の悪い生徒は「また先生の岩抹か」とさえ言うほどだったといわれている((五))。

と述べていたから、花巻農学校に勤めていた頃の賢治は、「石灰岩抹といわぬ日はなかった」という蓋然性が極めて高い。
 また、菊池は続けて同論考において、大正十三年五月に行われた修学旅行の「復命書」に賢治は、「(石灰岩抹を)我が荒涼たる洪積不良土に施与し、草地に自らなるクローバーとチモシーの波を作り、耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん」と書いていると紹介し、「石灰岩抹の効果と、その施用についてつよい願望が記されている」、と菊池は評していた。そこで同復命書の内容を実際に見た((六))ところ、私は菊池のこの評に納得させられた。
 一方で、昭和六年三月五日に盛岡高等農林時代の恩師関豊太郎博士から賢治に返信が届き、東北砕石工場の嘱託についての問合せに対して恩師は、

「引き受けるべからず」を棒線で消し、「小生の宿年の希望が実現しかゝったのを喜びます」と書かれていた((七))。

と対応したということは周知のとおりである。したがって、賢治が石灰岩抹に興味・関心を持つようになった下地は、高等農林時代に形成されたのであろう。
そしてこのことに関しては、伊藤良治氏も同様な見方をしている((八))。
 よってここまでのことなどから、
 賢治は大正四年に盛岡高等農林に入学し、恩師関豊太郎から強い影響を受けて石灰岩抹に関心を持ち始めた。爾後、洪積不良土に石灰岩抹を施与することによって、酸えたる土壌の中和に努めようとしていた。
と判断してよさそうだ。

四 羅須地人協会時代の賢治の石灰岩抹施用
 では次に、石灰岩抹施用に関しての賢治の実際の指導はどうであったか。そのことを知るために、いわゆる〔施肥表A〕〔一〕~〔二三〕の二十三枚につ
いて、石灰岩抹等の記載を拾ってみる((九))と、左表のとおりだ。
│〔一〕石灰岩抹(七貫)│〔九〕 記載なし │〔一七〕記載なし │
│〔二〕石灰岩抹 五貫 │〔一〇〕記載なし │〔一八〕記載なし │
│〔三〕記載なし │〔一一〕消石灰  五貫│〔一九〕記載なし │
│〔四〕記載なし │〔一二〕石灰岩抹 五貫│〔二〇〕記載なし │
│〔五〕記載なし │〔一三〕石灰岩抹 五貫│〔二一〕石灰岩抹 一貫│
│〔六〕記載なし │〔一四〕石灰岩抹 十貫│〔二二〕記載なし │
│〔七〕石灰岩抹 四貫 │〔一五〕記載なし │〔二三〕記載なし │
│〔八〕石灰岩抹 七貫 │〔一六〕消石灰  十貫│ │
 よって、意外なことに、羅須地人協会時代の賢治は肥料設計の際にいつでも石灰岩抹を使っていたわけではなかったのだった。ちなみに、このリストに従えば、石灰岩抹使用例は七件(〔一〕は括弧書きだから除いた)だから、7÷23≒0.30 ということで、その実態は約三割の割合でしか石灰岩抹を使っていなかったと言える。はてさて、賢治は、石灰岩抹を使わなかったり、使用量もまちまちだったりしたのはなぜだったのだろうか。私は次第に不安になってきた。
 ところがその不安はある意味では、ある程度解消できた。実は、羅須地人協会時代に用いた資料『土壌要務一覧』の中で、賢治は、

 耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム。洪積台地ハ、殆ド酸性デアル。…筆者略…尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル((十))。………②

と書いていたことを私は知ったからである。なんと、「水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル」と書いているわけだから、賢治もまた「稲は酸性に耐性がある」と認識していたということになる。よって、稲の場合にはあえて石灰岩抹を施与する必要はないと判断していたので、「賢治は、石灰岩抹を使わなかったり、使用量もまちまちだったりした」ということは当然あり得ることだと、アイロニカルな感じもするが私なりには納得できたからだ。
 では次は、羅須地人協会時代に賢治が使った左図の〔教材用絵図 四九〕からだが、この絵図の意味するところはあまりにも意外であり、驚くべきものだった。というのは、この棒グラフからは、
 Ⅰ区~Ⅵ区(賢治はⅣと書くべき箇所をⅥと書き間違えている)の中では、完全肥料区Ⅵ区が最も収量が多く、それに石灰を十五貫加えたⅦ区では稲の収量が減少し、石灰を三十貫加えたⅧ区でやっと完全肥料区と同程度の収量であった。
ということが導かれるからである。
 私はこのことを知って天と地がひっくり返った心地がした。なんと、石灰を加用するとかえって稲は減収したり、加用してもそうしない場合と収量が同程度だったりする、という予想だにしていなかった結論が導かれたからだ。
 しかも、『宮澤賢治科学の世界 教材絵図の研究』も、この棒グラフは、稗貫郡の十三ヶ町村のそれぞれの選定された圃場における四年間にわたる施肥標準試験結果を図示したものであることを紹介した上で、

 石灰加用区では、十五貫を加えた区Ⅶが反って減収となり、三十貫を加えた区Ⅷで、漸く、完全肥料区Ⅵと同様な効果しか得られなかった。((十一))

というように、同様な指摘していた。
 しかしながら、私にはこのことがどうしても信じられない。そこで、やはり前掲の『農業科学博物館』を訪ねた際にこのことも館員の方に訊ねた。
 この棒グラフからは、
 石灰を施与することはかえって害になるとか、せいぜい加えないことと同じだったということがある。………③
ということが導かれると思うのですが。
と。すると館員の方は、
 この施肥標準試験結果が正しいかどうかについては不安ですが、〔教材用絵図 四九〕に従えばそのような理解の仕方はOKです。
と教えてくれた。
 そこで私はもう観念するしかなかった。この絵図に従えば、前掲の〝③〟はもはや疑いようがない結論なのだ、と。しかもこの絵図は賢治が作ったものだから、羅須地人協会時代の賢治がこの石灰施与のリスク〝③〟を知らなかったはずがない、と判断せざるを得ない(もし知らなかったならば、賢治の目は節穴だということになってしまうからだ)。
 しかしこうなると新たな問題が生ずる。それは、賢治の石灰岩抹施用の理論は不完全であり、賢治自身もそのことに気付いていたはずだという問題がである。言い方を変えれば、「賢治精神」を実践したといわれている松田甚次郎は、

 最近までは石灰の過用によつてかへつて種々の弊害を來してゐるやうな有樣であつた。過ぎたるは及ばざるが如しで、肥料にしても適量が大切であることはいふまでもない。〈『續 土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和十七年十二月)四四頁〉

ということを後に指摘しているし、一方で、あの二十三枚の施肥表も含めて、賢治自身が水稲の土壌のpHやその数値について言及していた資料等を私は未だ一つも見つけられずにいるから、当時の賢治の石灰岩抹施用の理論は定性的な段階に留まっていて、残念ながら定量的ではなかったので完全なものではなかったようだ、という問題がである。ちなみに、地元の著名な賢治研究家が、「賢治の言うとおりにやったならば稲が皆倒れてしまった、と語っている人も少なくない」ということを私に教えてくれたからなおさらにだ。

五 東北砕石工場技師時代のコンセプトの変更
 さて、羅須地人協会時代以前の賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからの約四年四ヶ月間だけであり、豊富な実体験があったわけではない。となれば、羅須地人協会時代の賢治が、経験豊富な農民たちに対して指導できる稲作指導はおのずから限定的なものであり、食味もよくて、冷害にも稲熱病にも強いといわれて当時普及し始めていた陸羽一三二号を推奨することだったとならざるを得ないし、実際そうだった。おのずから、同品種はそもそも化学肥料(金肥)に対応して開発された品種だからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の基本的な稲作指導法だったということになる。その当時はまだ、近隣の農家には金肥があまり普及していなかったからだ。
 したがって、金肥を必要とするこの稲作法は、当時農家の六割前後を占めていたという小作農や自小作農、つまり多くの貧しい農家にとってはもともとふさわしいものではなかったということは当然である(実際、羅須地人協会員の伊藤忠一は、「私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもにはとても手が出なかった」と証言している((十二)))。
 そしてまた、その金肥とは主に「窒素、燐酸、加里」の三要素のことであり、賢治の場合には、金肥の石灰はせいぜいその次であったであろう。そして実際にそうであったことは、前述した、同時代の施肥表では約三割の割合でしか石灰岩抹を使っていなかったという実態が裏付けている。
 ところが、東北砕石工場技師時代になると賢治は施肥のコンセプトを従来のものから、石灰岩抹(炭酸石灰)中心のそれに変更した。というのは、同工場技師時代の宣伝広告「新肥料炭酸石灰」の中に、

 この不景気の、まつ最中に、値段の高い、金肥を殆んど使はずに、堆肥や、緑肥で充分の収穫を得る良い工夫がございます。それには、炭酸石灰を御使用下さい。炭酸石灰は、土壌中の窒素や燐酸や、加里などの分解を助けて、其の効能を促進して有効に働かせるからであります。然し、消石灰や生石灰では、強すぎて、土地を痩悪ならしめます。
 炭酸石(ママ)(正しくは炭酸石灰:筆者注)の効果
一、直接には石灰の肥料
 これは植物の栄養素として是非なければならない肥料分であるからであります。
一、間接には窒素の肥料
  …筆者略…
一、間接には燐酸の肥料
  …筆者略…
一、間接には加里の肥料
  …筆者略…

というように書かれている((十三))からである。
つまり、羅須地人協会時代の賢治の肥料設計のコンセプトは先程述べたよう
に、金肥の「窒素、燐酸、加里」が中心であったはずなのに、東北砕石工場技師時代のこの広告で推奨している金肥は炭酸石灰だけであり、しかも、炭酸石灰はオールマイティ、いいことずくめの肥料であると、この広告では謳っていることになるからである。
 しからば、どうして羅須地人協会時代に賢治は石灰岩抹を中心にしたこの施肥法を強く奨めなかったのだろうか、という疑問が一方で当然湧く。

六 仮説の定立と検証
 そこで私は、次の
〈仮説:賢治は、「稲の土壌の最適pH領域は5.5~6.5である」という事    実を知らなかった。〉………④
を定立し、その検証をする必要があると覚悟した。
 その定立の主な理由は三つ。まず一つ目は、先に述べたように、
 賢治はこの「本当のこと〝①〟」を高橋にはたして教えていたのだろうかとか、はたまた、そもそもこの事実を賢治は知っていたのだろうか、という疑問と不安を私は抱いてしまった。
からである。二つ目は、同様、
 賢治の石灰岩抹施用の理論は定性的な段階に留まっていて、残念ながら定量的ではなかったので完全なものではなかったようだ。
と述べたが、これである。そして残りの三つ目が、
 先の『土壌要務一覧』における記述〝②〟から、賢治は「稲は酸性に耐性はある」ものの、望ましいのはあくまでも中性であると認識していたということが導かれるが、この認識は「本当のこと〝①〟」とは相容れない。
からである。
 そしてなによりも肝心なことは、ここまで調べて来た限りではこの仮説の反例は一つも見つからないから、この仮説は検証されたということである。従ってこの〈仮説④〉は、今後この仮説に対しての反例が見つからない限りはという、限定付きの「真実」となる。
 しかしもちろん、もしこの〈仮説④〉が正しいとしても、賢治のことは責められない。それは、おそらく賢治が生きていた時代には、「稲の土壌の最適なpH領域は5.5~6.5である」という事実はまだ世間には知られていなかったと推定されるからである。いみじくも、花巻農学校で賢治の同僚だった阿部繁が、

 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもなし人間ですから、時代と技術を越えることはできません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほんとうなのです。((十四))

と、後々当時のことを振り返っているが、この追想のようにである。

七 おわりに
 以上が、宮澤賢治の「稲作と石灰」に関わるこの度の私の考察内容であり、畢竟するに、残念ながら、
 東北砕石工場技師時代の賢治は、貧しい農民に炭酸石灰(石灰岩抹)を安くしかも豊富に供給し、それを田圃に撒くことによって酸えたる土壌を中性にし、稲の収量を増してやった、とは言えない。
ということになってしまった。言い換えれば、同工場技師時代の実態は、
 炭酸石灰を大量に売り込むことができた先は、アルファルファなどの良質な牧草を必要とした小岩井農場や軍馬補充部等であり、一般の農家に対しては、稲作用としては殆ど売り込めず、せいぜい畑作用にであった。
ということになるのではなかろうか。

 さりながら、このことは何も悲しむべきことばかりではないとも私は思っている。それは(ここから以降は、賢治の心の内に関わることなのであくまでも私の推察になるのだが)、同工場技師時代の賢治は自身の石灰岩抹施用の理論等についての葛藤や後ろめたさ、そして苦悩等があったと思われるからだ。
 どういうことかというと、羅須地人協会時代に既に「稲は酸性に耐性がある」ということを賢治は知っており、石灰施与のリスク〝③〟も知っていたはずなのに、同工場技師時代になってからは、それらのことを等閑視せざるを得ないという現実、はては枉げたり話を盛ったりせざるを得ないという現実から賢治は逃れられなかったはずだ。つまり、羅須地人協会時代までは不羈奔放に生きてきた賢治だったが、炭酸石灰を大々的に宣伝・販売するという商行為に携わるようになってからは売らんが為に、それは社会人であれば誰でも経験することではあると思うのだが、綺麗事だけでは済まなくなったはずだ。ちなみにその一例が、「オールマイティで、いいことずくめの炭酸石灰」の宣伝広告の作成だと私は思う。
 となれば、かつて草野心平に対して、「一個のサイエンティストとしては認めていただきたいと思います((十五))」と伝えていたという賢治のことだからとりわけ、「真実」を等閑視したり枉げたりすることが如何に辛かったことかということは、せめて「科学者の端くれ」でありたいと願っている私にはよく解る。そこで逆に、このような苦悩等が賢治をして〔雨ニモマケズ〕を手帳に書かしめたのではなかろうか、ということをこの論考を書き終えつつある今、私は思い付いた。万やむを得ず、等閑視してしまったり枉げたりしたこともあった己を悔い、もう二度とそんな自分ではありたくないという想いから賢治はこれを書いたのではなかろうかと。だからこそこれを書いた時期が昭和六年の十一月、東北砕石工場技師時代の実質的な終焉の頃だったのだと、私は妙に腑に落ちた。それ故に、何も悲しむべきことばかりではないのだと諒解できたのだった。

〈注〉
(一)『イーハトーヴォ第二号』(宮澤賢治の会、昭和十四年十二月)所収。
(二)『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』(草野心平編、筑摩書房、昭和四四年)二八五頁
(三)平成二九年十月五日、金ケ崎町の岩淵信男氏から聞き取り。
(四)『野の教師 宮沢賢治』(森荘已池著、昭和三十五年十一月)一八二頁~
(五)『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)二一五頁~
(六)『新校本宮澤賢治全集 第十四巻 雑纂 本文篇』(筑摩書房)六六頁 
(七)『新校本宮澤賢治全集 第十六巻 下 補遺・資料 年譜篇』四一九頁
(八)『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)一四〇頁
(九)『新校本宮澤賢治全集 第十四巻 雑纂 本文篇』(筑摩書房)一〇三頁~
(十)同八四頁
(十一)『宮澤賢治科学の世界 教材絵図の研究』(高村毅一、宮城一男編、筑摩書房)九六頁
(十二)『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)三五頁
(十三)『新校本宮澤賢治全集 第十四巻 雑纂本文篇』(筑摩書房)一六三頁~
(十四)『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)八二頁~
(十五)『詩人 草野心平の世界』(深澤忠孝著、ふくしま文庫)七六頁

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



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