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第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議(テキスト形式)

2024-03-22 12:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議

 ここでは少し視点を変え、「宮澤賢治年譜」という視点から考えてみたい。

1 大正15年12月2日の「現通説」
 先に第三章の〟1「新校本年譜」による検証〝において既に
「新校本年譜」による仮説「♣」の検証は一通り終わっているが、
ここではその中の大正15年12月2日の「現通説」に焦点を当ててもう少し考えてみたい。
 「現通説」による検証
それはとりもなおさず次の「通説○現」に焦点を当てるということである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。  ……………○現
そしてこの「*65」の註釈には次のようになことが書かれている。
*65 関『随聞』二一五頁をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を大正一五年のことと改めることになっている。
  <それぞれ「新校本年譜」(筑摩書房)325p、326p~より>
 当然この「通説○現」に従えば仮説「♣」は危うい。霙の降る寒
い日にチェロを持って上京する賢治をひとり澤里武治が見送った日として大正15年12月2日が既にあるとしたならば、その上にさらに同じようなことが、翌年の昭和2年11月の霙の日にまたもやあったということはまず99%ありえないからである。
 したがって、真相はおそらくそのいずれか一方だけが起こり、他の一方は起こっていなかったということであろう。私の立てた仮説「♣」が間違っているか、あるいは畏れ多いことではあるがこの「通説○現」が間違っているかのいずれかであろう。
 しかし、私としては前章における検証の結果、仮説「♣」は
思いの外検証に耐え得ることを知ったので。ここは逆に、不遜ながら「通説○現」について少しく考察してみたい。
 註釈「*65」の意味
 まずは「*65」の註釈について少し調べてみたい。参考のために「旧校本年譜」の同日の記載内容と「新校本年譜」のそれとを比べてみた。すると、註釈「*65」があるかないかの違いだけで他は基本的には違っていないことが分かる。ということは、この註釈は「新校本年譜」担当者(以降A氏とする)が付けた註釈であるということが明らかになる。
 そして次のことも言えそうだ、A氏は註釈「*65」において次のように言いたかったのであろうということが。
・まず、この「大正15年12月2日」の中身については「旧校本年譜」担当者(以降B氏とする)が何を典拠としていたかはA氏にはしかとわからぬが、それは関登久也著『賢治随聞』を元に要約したのであろうとA氏自身は推測している、と。
・そして、『この日付については、澤里は「昭和2年11月頃」と証言しているがそれは「大正15年12月2日」と改めることとすること』というB氏からの申し送り事項があったので、A氏はその指示に従ったまでだ、と。
 そこには以上のような経緯があるのだということを私個人は悟り、この註釈「*65」の意味が自分なりに判読できた。そして、そうかだからこそ「…ものと見られる」とか「…ことと改めることになっている」というもどかしい言い回しをしていたのだ、とここに至って私は初めて腑に落ちてしまった。併せて、第一章の最初において「セロ……沢里武治氏から聞いた話」という節に至って急に私が違和感を感じたのは無理からぬことだったのだと自分を慰めた。
 現通説「大正15年12月2日」の典拠
 さて、私はここではっきりしておきたいことがある、それは、この日のことを「新校本年譜」がこう書いている以上はその典拠は澤里武治の証言以外にはない、ということをである。
 それは「新校本年譜」にある大正15年12月2日の記述についての註釈「*65」に
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。
とあることからも自ずから明らかであろう。
 もちろんこの〟関『随聞』〝とは関登久也著『賢治随聞』のことであり、その「二一五頁」には次のようなことが書かれている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロをもってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった。また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
(傍線〝   〟筆者)
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215pより>
 この「沢里武治氏聞書」の〝   〟部分を見ても、「新校本年譜」がこの聞書をその典拠としていることは明らかである。
 なぜならば、「新校本年譜」大正15年の12月2日については
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけ
によりそっていた。 ……………○現
となっていて、この日の記載内容は皆この「沢里武治氏聞書」の中にあるからである(傍線〝   〟部のこと)。
 併せて、澤里の証言のどの部分が「通説○現」では使われてい
ないかも同様に明らかになる。例えば「少なくとも三か月は滞在する」や「そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」などがそうである。このことは極めて重要なことであり、私ならば絶対省略できな部分である。
 そしてもう一つ見過ごせないことがある。それは他でもない、
 みぞれの降る寒い日、セロを持って上京して行く賢治をひとり花巻駅で見送ったのは昭和2年の11月頃であったと思う。
という意味のことを澤里は証言しているということである。あくまでもこの「見送った」日は昭和2年の11月頃だと澤里は言っているのである。そもそも、それは大正15年12月のことであったなどというようなことを澤里は一言も言っていないのである。
 言ったことが言っていないことになり、言ってないことが言ったことになっているという摩訶不思議な現象が起こっている。ついてはその現象が起こっている理由や原因を、「旧校本年譜」の「大正15年12月2日」を編纂した担当者B氏は読者に是非明らかにしていただきたかった。
 まして、そのような思いは当事者の澤里にすればなおさらであったであろうが、おそらく担当者B氏から澤里は何も知らされていなかったであろう。そのことは例の岩手日報連載の『宮澤賢治物語(49)』の中の澤里の口跡「どう考えても」の一言から直ぐに読み取れる。
 少なくとも三か月は滞在する
 さて、これで「通説○現」の典拠は「沢里武治氏聞書」であることがはっきりしたので、この証言にあってなおかつ「通説○現」からは抜け落ちている、賢治の言ったと思われる「少なくとも三か月は滞在する」の「三か月」に関連して少しく考察してみたい。
 まずは、この際の上京が大正15年12月2日であれば、それから約3ヶ月間の滞京が、通説となっている「現年譜」にはたして時間軸上で当て嵌るかということを調べてゆきたい。
 ではそのために、「新校本年譜」を基にして「大正15年12月2日」前後の賢治の動きを拾ってみよう。
【大正15年】
11月22日 この日付の案内状発送、また伊藤忠一に配布依
     頼。
11月29日 羅須地人協会講義
12月1日 定期の集りが開かれたと見られる。
12月2日 セロを持ち花巻駅より沢里武治ひとりに見送ら     れて上京。
12月3日 着京し、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼。
12月20日  〃 に重ねて二百円を無心。
12月23日  〃 に29日の夜発つことを知らせる。
【昭和2年】
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪。中野新佐久往訪。
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤     直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義が行われたと見られる。
1月20日 羅須地人協会講義。土壌学要綱を講じる。
1月30日    〃    「植物生理学要綱」上部。
1月31日 本日付「岩手日報」夕刊に賢治の写真入り『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。
2月17日 本日付「岩手日報」に1/31付記事を受けて「農村文化について」という投書掲載。
2月20日 羅須地人協会講義「肥料学要綱」上部。
2月27日 「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書発送。
2月28日    〃       〃  下部。
<「新校本年譜」(筑摩書房)より>
となっている。
 これら及び前掲の【表4】~【表5】から判断して、どうみても3ヶ月間は滞京できない。もし当て嵌めるとすれば、この大正15年12月2日上京の際の滞京期間として12月内の一ヶ月弱はさておき、それ以外のある期間、東京にいる賢治と岩手にいる賢治の二人の賢治が存在することになるからである。
 もちろん賢治はその上京の際に「少なくとも三か月は滞在する」と言っただけのことであり、実際そのとおり滞京していたとは限らないという可能性もあろうが、典拠となっているこの「沢里武治氏聞書」において、澤里は引き続いて
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と証言している。澤里はこの「三か月」を再びここで駄目押ししていて、澤里の証言は一貫しているのである。したがって、先ほどの「可能性」はほぼ否定されるだろう。
 ここは合理的に考えるならば、澤里の証言するところの約3
ヶ月間の賢治の滞京は、現在通説となっている「宮澤賢治年譜」
には時間軸上で当て嵌めることがどう考えてもできないことが
明らかになった。それゆえ澤里のこの証言「○三」がもし正しい
とするならば、言い換えれば、「沢里武治氏聞書」を「通説○現」の典拠とするならば、霙の降る日にひとり賢治を見送った日を
大正15年12月2日とすることにはかなり無理があろう。
 それとも「新校本年譜」や「旧校本年譜」担当者には、それ以外
の部分についての澤里の証言は正しいのだが、この証言「○三」
の部分だけはは澤里が偽っているとでもいう確証等を掴んででもいるのだろうか。もしそうであるならば、それこそそれらを我々読者の前に明らかにして欲しい。

2 当時の賢治の心境上から
 さて、当て嵌めることができないという点で言えば何も時間軸上のみならず、賢治の心境上から考えても当て嵌めることができないのではなかろうか、と私は推測している。
 当時の賢治の心境を忖度
 先に、大正15年12月2日の通説、すなわち「通説○現」の典拠は澤里の証言であることが明らかになったから、もし澤里の証言に基づくとするのであればとりあえず「通説○現」は次のように修正されたものでなければならない。
 大正一五年
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 
つまりこのように、「少なくとも三か月は滞在する」が削除されていない形に修正されねばならない。なんとなれば、澤里はこう言っている訳だし、この文言は極めて重要なことを語っているからである。
 (ア) 〔集会案内〕
そこで、まずは当時の賢治の心境を探ってみよう。
 さて、大正15年の旧盆16日(8月23日)に賢治は羅須地人協会を発足させたと一般に言われてはいるようだが、実際にはその日に特別のことを協会員と共に行ったということはなさそうである(『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)167pより)。
 その具体的な最初の賢治の動きは、それからしばらく経った同年11月22日にあの〔集会案内〕を下根子桜の宮澤家別宅の隣人伊藤忠一のところに持参した上で配布を依頼したことであろう。それは謄写版刷りのものでその内容は次のようになっているという。
一、今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでしたが、いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も來ませうから、農業全体に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう。
二、就て、定期の集りを、十二月一日の午后一時から四時まで、協会で開きます。日も短しどなたもまだ忙しいのですから、お出でならば必ず一時までにねがひます。辨当をもってきて、こっちでたべるもいいでせう。
三、その節次のことをやります。豫めご準備ください。
    冬間製作品分擔担の協議
    製作品、種苗等交換賣買の豫約
    新入会員に就ての協議
    持寄競売…本、絵葉書、楽器、レコード、農具、    不要のもの何でも出してください。安かったら引    っ込ませるだけでせう、…
四、今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まづ次のことをやってみます。
    十一月廿九日午前九時から
    われわれはどんな方法でわれわれに必要な科(◎)学をわれわれのものにできるか    一時間
    われわれに必須な化(◎)学の骨組み   二時間
  働いてゐる人ならば、誰でも教へてよこしてください。
五、それではご健闘を祈ります。       宮沢賢治
<『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)86pより>
 前述したように、一般には旧盆に立ち上げたと言われている羅須地人協会ではあるが、その後は農繁期で忙しかったためなのであろうか特別に羅須地人協会としての活動はなかったようだ。が、やっとのことで(いよいよ農閑期が近づいてきたからだろうか?)具体的な活動を始めようとしてこの〔集会案内〕の配布を依頼したのであろう。
 ところで今まで私は、この案内状は配布を依頼された伊藤忠一が近隣の人に配っただけであろうと認識していたが、賢治はもっと手広く案内していたということを新たに知った。それは、たまたま見ていた『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報 第16号●黄水晶』によってである。
 そこには栗原敦氏の「宮沢賢治資料24/書簡(四通)」が載っていて、次のようなことが述べられていたからである。
Ⅰ〔大正十五年十一月〕佐々木実あて封書〔集会案内〕
二重封筒…消印は「岩〔?〕・〔花〕巻 15・11・〔?〕后0-〔?〕」。…従来、羅須地人協会関係稿中の〔集会案内〕として知られてきたものと同じ謄写印刷物であり、掲出は省略するが、この年十二月の上京の直前、それも十一月中に作られたことも明らかで…本書簡で実際に投函されていたことも確かめられたわけである。
<『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報第16号
●黄水晶』19pより>
 という訳で、この〔集会案内〕は郵送もされていたのだった。この宛先の八重畑村の佐々木実とは、同会報によれば大正十四年三月卒業の花巻農学校四回生であるという。また「八重畑村」とは現在の石鳥谷八重畑のことだろうから、下根子桜から遠隔の地にいた佐々木のような教え子のような場合には郵送で案内したということなのであろう。
 よって、以上のことから当時の賢治の心境を忖度すれば、いよいよこれで念願の「定期の集り」を開催し、農民講座の講義ができる時機が到来したということで賢治は相当意気込んでいたと言えるのではなかろうか。それはこの〔集会案内〕の中身からだけでなく、近隣の教え子や篤農家に広くその〔集会案内〕を配布しようとしたのみならず、遠くの教え子にはそれを郵送していたという事実からも窺える。
 (イ) 講義予定表
 さらには、『イーハトーヴォ第六號』の中に伊藤忠一の回想「地人協會の思出(一)」があり、その後半部分にに次のようなことが記されていてる。
 又講義に對する豫告表は靑インクで厚い用紙の裏面に印刷されたものでした。此の中に書かれた日割や時間は全く忘却して記憶にありませんでしたが、高橋慶吾様が、大切に現存さしてゐるので拝借して次に掲載しました。
 一月十日(新暦)農業ニ必須ナ化學ノ基礎
 一月廿日(同上)土壌學要綱
 一月丗日(同上)植物生理要綱上部
 二月十日(同上)同上
 二月廿日(同上)肥料學要綱上部
 二月廿八日(同上)同上 下部
 三月中 エスペラント地人學藝術概論
 午前十時ヨリ午後三時マデ参觀も歡迎昼食持參
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)37pより>
 このような綿密な講義プランを立てていたということからしても、賢治はこの当時は相当熱い想いで協会員等に対して農民講座を計画的に開こうとしていたと考えられる。
 (ウ) いくらなんでも
 かつて私は次のように解釈していたこともある。
 大正15年12月2日に賢治は澤里武治に「澤里君、セロ持って上京してくる…少なくとも三か月は滞在する」と言って上京したのではあったが、賢治は天才であるから「熱しやすく冷めやすい」性向があるのでそんなことはけろっと忘れてしまって、1ヶ月も経たずに帰花した。
と。こうとでも考えなければ澤里武治の例の証言と「通説○現」との間にはあまりにも大きな矛盾が存在することになるからである。
 実際、他ならぬ関登久也が次のように述懐していることからも、賢治のこの言動はあり得たと思っていた。
 賢治の物の考え方や生き方や作品に対しては、反対の人もあろうし、気に食わない人もあろうし、それはどうしようもないことではあるが、生きている間は誰に対してもいいことばかりしてきたのだから、いまさら悪い人だったとは、どうしても言えないのである。
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあった。
<『新装版 宮沢賢治物語』(関登久也著、学研)13p~より>
 しかし私が以前このように認識していたのは、あくまでも賢治の昭和2年11月頃の上京はないものと決めつけていたがゆえにである。でも今はもう違う、この時期の上京もあり得るのだと悟った。
 それゆえ、前掲のような佐々木実宛書簡の存在を新たに知ったことと当時の賢治の羅須地人協会の活動に掛ける熱い想いに鑑みれば、いくらなんでも次のようなこと
・11月29日に念願の羅須地人協会講義を行い、
・12月1日には羅須地人協会定期集会と持寄競売を開催し、
・併せて明けて1月~3月までの講義予定を立てて告知した。
であろう賢治が、舌の根も乾かぬ12月2日にすっかり心変わりしてしまって、「沢里君、セロ持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ。少なくとも三か月は滞在する」と言って上京してしまった。
というようなことはいくらなんでもあり得ないだろう。
 したがって、賢治の当時の心境から言っても、大正15年12月の上京の際に賢治がこのような言動をする訳がないと言えるだろう。言い方を換えれば、もしこの「少なくとも三か月は滞在する」ということをこの上京の際に賢治が澤里に言っていたとすれば、そのことによって「現通説」は自家撞着を来たす虞れがある、と私は思うのである。

3 澤里のもう一つの証言
 ところで、澤里武治の同じような証言が別にもう一つある。
それは『宮澤賢治物語(49)』であり、これについては本書の第一章で既に触れたものたが、それを再掲すると以下のようなものである。
  宮澤賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において知人となりし印度人ミー((ママ))ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…
 その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 当時公になっていた年譜
 ここからは、澤里自身は「どう考えても」それは昭和2年の11月頃であるとの強い確信があるのに、どういう訳か目の前に提示された「宮澤賢治年譜」には昭和2年の賢治の上京はないことになっていることに怪訝そうにしている、そんな気の毒な澤里の戸惑いがありありと目に浮かぶ。
 そこで、このとき澤里が証言するに当たって見ていたであろう「賢治年譜」は一体どの年譜であったのかを探ってみることにしたい。そしてそれは、「十二月十二日のころには」に続く「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」に注目すれば案外探し出せるかもしれない。それも、この『岩手日報』への掲載は昭和31年2月22日だから、それ以前に発行されたものに所収されているものを確認すれば判るはずだ。
 そこで、そのような当時の主立った著書に所収されている「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して、時代を遡りながら以下に列挙してみる。
(1) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年
6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
(2) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日
第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
  <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和22年第四版発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(5) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
 こうして、主立った「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して列挙してみると気付くことが二つある。
・その一つは、(1)を除いては、いずれにも「セロ(一)」の中の証言「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」と全く同じと言っていいような言い回しがなされていること。
・そしてもう一つは、いずれの年譜にも昭和2年9月に賢治は上京していると記載されていること。
の二つである。
 澤里が見た年譜
 したがって、小倉豊文の(1)を除いてはいずれの「宮澤賢治年譜」も同一の「強い規制を受けていた」可能性があることが窺える。また、この関登久也の新聞連載が始まる以前までは、賢治は昭和2年に少なくとも1回、9月に上京していたということが公になっていたということが言えるだろう。これがそれこそ当時のいわば「通説」であったとも言えよう。
 一方で、このとき澤里が証言するにあたって見ていた「宮澤賢治年譜」は少なくとも前掲(1)~(5)所収の「宮澤賢治年譜」のいずれでもないことが判る。なぜならば、澤里は
・宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と語っているが、これらの(1)~(5)所収の年譜には皆一様に
 ・昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
とあるから、昭和2年の上京が少なくとも1回はあったことになっているからである。
 よって、澤里は出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、言い換えればいま現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
 考えたくないことだが、当時であればそれが「通説」であった「宮澤賢治年譜」に基づいて澤里が証言することを誰かが阻んで
いて、当時公には知られていなかった「通説○現」に基づいて証言することを迫られた、という可能性すら捨てられなくなってしまうのではなかろうか。
 澤里が一人見送った日
 さてもう少し『宮澤賢治物語(49)』(『岩手日報』連載版)を続けて見てみよう。「沢里武治氏聞書」には書かれていない次のようなこと(〝   〟部分)もこちらには述べられているからである。
 ちなみに『宮澤賢治物語(49)』の続きは
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私ひとりで、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒い腰かけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こん寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについて、さまざま話し合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まったので、私も先生の後について、ホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して
『ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
(傍線 〝   〟筆者)
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
となっている。そしてまた、これだけ具体的でつまびらかな澤里の証言から判断して、澤里がこのような作り話をしているとは到底私には思えない。
 したがって、柳原昌悦の次の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。  ……………○柳
と『宮澤賢治物語(49)』とを互いに補完させて推論すれば、
・澤里と柳原が一緒に賢治の上京を見送ったのは大正15年12月2日のことである。
そして同時に
・現在は通説となってはいないが、チェロを持って花巻駅を発つ賢治を澤里が「見送りは私ひとりで」と述懐する昭和2年11月頃の霙の降る日の上京もあった。
と結論する事の方がやはりかなり合理的だと言える。
 チェロの猛練習で賢治は病気に
 では次は、『宮澤賢治物語(49)』の続き、翌日2月23日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(50)』を見てみよう。
  セロ(二)
 この上京中の手紙は大正十五年十二月十二日の日付になっておるものです。
 手紙の中にはセロのことは出てきておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月23日付『岩手日報』より>
 この証言の中身を知って、やはりチェロの練習は並大抵のものではなく、賢治もかなり難儀したであろうことが容易に察せられる。
 実際、チェリストの西内荘一氏(元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリスト)でさえも、18歳頃の自分について
 遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉を通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)156pより>
と述懐しているくらいだからである(これが以前「後述する」と言った西内の述懐である)。ましてや30歳を越えて習い始めた賢治にしてみれば、「最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです」であったであろうことは想像に難くない。
 したがって、賢治自身が上京当時のことを述懐しながら澤里に語ったのであろうこの猛練習の中身や賢治が味わった計りしれない苦難は、話しのスジとしては理に適っているから実態は澤里のこの証言どおりであったであろうと私は判断している。
 それゆえ、この西村氏の追想を知った私は、この連載『宮澤賢治物語(49)、(50)』で語られている昭和2年の11月頃から約3ヶ月間の滞京は事実であったという確信がますます強まってくる。
 ところで、こちらの証言の中で特に気になるのが次の二項目である。
・まず第一は、澤里も指摘しているように「(賢治が出した)手紙の中にはセロのことは出てきておりません」
・その第二は、「病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」
 まず前者について。たしかに書簡集の『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を見てみると、賢治が大正15年12月中に出した書簡にはセロの「セ」の字も全く出てこないから澤里の言うとおりである。タイプライターのこと、オルガンのこと、エスペラントのこと、観劇のこと、図書館通いのこと、二百円もの無心のこと等を事細かに父政次郎宛書簡では報告をしているのに、チェロに関しては一切そこには出て来ない。なぜチェロのことは書簡に書かれていないのだろうか。
 ここは素直に考えて、大正15年12月の上京の目的の中にチェロの練習は当初は全く予定になく、滞京の終盤に至って初めて突如チェロが欲しくなったという見方ができるのではなかろうか。
 そして後者については、あまりもの無視のされようにただただ驚くしかない。いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになったということに、である。「下根子桜時代」に3ヶ月弱もの長い間賢治は滞京していたが無理がたたって病気になったという一大事があったということを澤里が証言しているのに…。

4 「宮澤賢治年譜」の書き変え
 さて、では今「いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」とつぶやいたことに関して次に少しく説明したい。
 「宮澤賢治年譜」リスト
 まずは、再び主だった「宮澤賢治年譜」の中から特にある二つの事項に着目して抜き出しながら、年代順に並べてみたのが次表である。
【表6 「宮澤賢治年譜」リスト】
(1) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。
この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。
   <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
△ 三月、「聖燈」(花巻町)に詩「稲作挿話」を發表す。
   <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三号に詩「氷質の冗談」を発表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を発表す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京、タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。
この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
 二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表。
 三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>

  -------昭和31年1月1日~6月30日 関登久也著          「宮澤賢治物語」が『岩手日報』紙上に連載---------
(6) 昭和32年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を發表した。又上京してエスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席してフィンランド公使と農村問題について話し合った。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、詩「裝景手記」を書いた。
肥料設計はこの頃までに約二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に詩「イーハトヴの氷霧」を發表した。
上京して詩「自動車群夜となる」を創作した。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た。
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」を發表した。
三月、『聖燈』に詩「稲作挿話」を發表した。
<『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日再版発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(7) 昭和41年発行
大正十五年(一九二六) 三十歳
十二月四日 上京して神田錦町三丁目十九番地上州屋に間借りした。
上京の目的は、エスペラントの学習、セロ、オルガン、タイプライターの習得であった。
十二月十二日 神田上州屋より父あて書簡。
 ――今日午後からタイピスト学校で友達となつたシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。
昭和二年(一九二七)  三十一歳
六月 裝景手記
   月末までに肥料設計は二千をこえた。
九月 『銅鑼』第十二号に「イーハトヴの氷霧」を発表。
昭和三年(一九二八)  三十二歳
二月 『銅鑼』第十三号に詩「氷質の冗談」を発表。
三月 花巻の人梅野健三氏編集の『聖燈』に詩「稲作挿話」を発表。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和44年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を掲載。
月初めに上京、二十五日間ほどの間に、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席、フィンランド公使と農村問題、言語の問題について話し合ったり、セロの個人授業を受けたりした。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、「裝景手記」を書く。
肥料設計はこの頃までに二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に「イーハトヴの氷霧」を發表。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥(<*>)料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」
を發表。
三月、『聖燈』(發行所花巻町)に詩「稲作挿話」を發表。
<『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
<* 筆者註> 
  肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
とあるが、旧字体で記載されてあることから推してここは以前のものをそのまま使ったと思われる。
(9) 昭和52年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
<『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成13年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 ……………○現
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 本日付発行の「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
二月九日 湯本村伊藤庄右衛門の依頼をうけ、農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
     <「新校本年譜」(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より)>
以上
 「宮澤賢治年譜」の変化
 このように並べてみると、まず第一に言えることは、関登久也の『宮澤賢治物語』が昭和31年に『岩手日報』に連載される以前の「宮澤賢治年譜」のいずれにおいても、昭和2年の賢治については
  ・九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
と記されていたのだが、この新聞連載の時期をほぼ境としてこの事項が消滅していったという不思議である。つまりこの連載を境として、以降、賢治は「宮澤賢治年譜」上では昭和2年には上京していなかったことになっていったということである。
 その第二は、同じくそれまでは昭和3年の1月においては
  ・過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
とあったのが、ほぼ時を同じくして消え去ってしまったことである。
 先に私が「二つの事項に着目して抜き出して」といった「二つ」とはこれらの二つの事項のことであったのである。
 したがって、ここまでを振り返って見てみれば、
 関登久也の『宮澤賢治物語』が新聞連載された頃を境として、それまで通説になっていた「賢治年譜」が大きく書き変えられ、澤里の証言が当てはまらないような新たな「賢治年譜」が作られていった。
という見方ができることになる。
 なお注意深く見てみれば、先の【表6】の中の「(6) 昭和32年発行」がその境目であり、過渡期とも言えそうだ。なぜならばそれまでは次の二つの事項「上京、詩「自動車群夜となる」を創作す」及び「漸次身體が衰弱してきた」についてはそれぞれ「九月」「一月」と月が限定されて明記してあったのに、(6)ではそれらが明記されず、それ以降のものは事項そのものまでが消え去っているからである。
 ということは、この「昭和32年」とはもしかすると何か重大なことが起こっていた年なのだろうか。それまでの流れが大きく変化していったのは何故なんだろうか……。
 この不可思議な経緯こそが、私がつぶやいた「いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」の意味である。したがってこれらのことに鑑みれば、大正15年12月2日の「現通説」は歴史的事実に基づいていないのではなかろうかという指摘を実は澤里の証言自体がしており、その検証をせねばならぬという問題提起がそれこそ澤里によってなされているという見方もできよう。
 沈黙する澤里に
 一方その澤里についてだが、『チェロと宮沢賢治』の中に次のようなことが述べられている。
 遠野市芸術文化協会の会長、登坂慶子さんは幼いころから、向かい側に住む学校の先生の先生の家に遊びに行って、よく話を聞かされた。
 この先生の話は「ミヤザワケンジという先生がいてなあ」というもので、登坂さんはミヤザワケンジは先生の先生程度にしか思っていなかった。が、そのミヤザワケンジが東京にチェロを習いに行ったとき、自分が花巻駅までチェロをかついでいった、という先生の話をいまでも覚えている。そのうち向かいの先生が結婚して、あまり遊びに行かなくなったが、ミヤザワケンジという人はいつの間にか世の中で有名人になっていた。そうなると向かい側の先生はどういわけか、ミヤザワケンジのことを口にすることがなくなった。再びミヤザワケンジの話をするようになったのは、晩年になってからである。
 この先生こそ賢治の愛弟子、沢里家に養子に迎えられた沢里武治なのだ。…(中略)…
 沢里が晩年になって再び賢治のことを話すようになったのは、実弟清六さんの許しを得てからという律儀さだった。それまでは神様のように尊敬していた賢治のことを自分には語る資格がない、傷つけてはいけないと思っていたようだ。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)
239p~より>
 この登坂さんという方は私も存じ上げており、聡明なご婦人である。その方の澤里武治に関する証言を知り、澤里の身の処し方の意味がわかったような気がした。また同時に、上掲の後半部分の横田氏の見解になるほどと私は合点がいった。
 そういえば、以前に澤里武治の長男裕氏の証言
 近しい人に対しては別として、父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。一方、家庭内では興が乗ると賢治の真似をし、身振り手振りよろしく賢治の声色を真似て詩を詠ったものだったが。
があることを述べたが、このこととも符合する。たしかに、ある時期から澤里は賢治のことに関しては沈黙するようになったということが言えそうだ。ただし家の中ではそうでもなかったようだが。
 なおこの澤里の沈黙に関しては、後程、第八章の中の「緘黙する澤里」で再考したい。

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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