みちのくの山野草

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3083 『賢治随聞』の「あとがき」(#3)

2013-01-22 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
 さて、乗りかかった舟だからもう少し調べてみたい。
何を「削った」のか
 そこで、まずは『宮沢賢治素描』(関登久也著、眞日本社)の目次を見てみよう。





 一方の『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)の目次を見てみよう。

 そして、これらと『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)の中身とを比べてみた。
 ざっと通読してみた限りにおいては、「削った」ものは
『宮澤賢治素描』においては
・饗應
・知己
・報恩寺
・寒修業
・掲示板
・禮拝
・絶筆
・祖父への歌
・幼兒
・地質調査
・心理憶測
・庭造り(半分)
・祭禮
・利他
・霊
・立腹
・靈
であろうか。一方の『續 宮澤賢治素描』においては
・没書
・菓子製造
が「削った」ものであろう。

 例えば、前者から削られたうちの一つ「靈」は次のような内容
 賢治は人一倍優秀な頭脳と且つ鋭い神経と直感力を持つてゐました。凡人の眼には見えない、空間にうようよゐる悪靈善靈をしばしば肉眼にはつきりと見ることのできる人でありました。…(略)…さういふ常人には見ることの出来ない様々な靈界のものを賢治はあきらかに見聞きしてゐるのです。その羅須地人協会時代にさういふものを見ております。夜中賢治がただ一人居る家から、身顫ひするやうな賢治の叫びを近くの家の人が聞いて居りますが、後で聞くと白装束の男が布團の上に重石のやうに乗ツかつたとか、枕上に髪を振り乱した女の形相ものすごいのが立つたとか、しばしばさういふことがあつたやうであります。…(略)…
          <『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)183p~より>
であり、同じく後者から削られた「没書」は次のようなものである。
 農林を終へ、土質の調査なども完了して、ひとまず自宅に落ちついた頃は、賢治の讀書創作に没頭した年時代であります。やはりその頃童話や童謡の雑誌に「金の星」といふのが東京から出て居りました。賢治はその「金の星」に投稿してゐた様子だつた、と。その当時、店に手傳つてゐた一少年がこの間話して居りました。その投稿が何べんも没書になるので賢治は「今度はいいだらう。今度はいいだらう。」と屡々投稿し、一二度は掲載されたこともあつたやうだと申してゐました。掲載された時の賢治は例のあの柔和な面持ちに滿面の喜びを湛へ、大變喜んでゐたと申します。…(略)…
          <『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)115pより>
改稿の必要性はたしてありや
 さて、M氏は「改稿」の理由と仕方を
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った。…(中略)…仮名を使った数人の人名は、本名にもどした。たとえば大本教の出口王仁三郎や、昭和十年の座談会出席者三名のK・C・Mなどである。また、賢治を神格化した表現は、二、三のこしておおかたこれを削った。その二、三は、「詩の神様」とか「同僚が賢治を神様と呼んだ」とかいう形容詞で、これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
と述べている訳だが、私が通読して比べてみた結果は以下のとおり。
○「重複」について
 確かに、『宮澤賢治素描』と『續 宮澤賢治素描』には重複する箇所はあったが、それはもともと始めから二冊構成になっているものだから、それほど違和感はなかった。
○「整理、配列」について
 『賢治随聞』においては、大部組み替えられている。それほど組み替える必要も正直なかろうと思えた。
○「明らかな二、三の重要なあやまり」について
 これについては何のことか分からずじまいであった。
○「こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った」について
 たしかに前掲のようにいくつか削られたものがある。しかし、例えばその中の「立腹」は既に『イーハトーヴォ 創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)に高橋慶吾自身が載せているものであり、このような理由には該当しないような気もするので削った理由がいま一つ分からない。また、湯口村の遊坐俊次郎の証言「饗應」「知己」はなかなかいい話なのでこれも同様である。
○「仮名」について
 折角、関登久也が当事者に配慮して仮名にしたのであろう「邪教」や「法論」であったが、それらは『賢治随聞』では本名になっている。関登久也の対応の方がベターではなかろうか。
 一方、例の座談会の出席者三名のK・C・Mについてだが、M氏は本名に戻したと言っている訳だから、M氏は当初からこの三名が誰であったかを知っていたということをいみじくも私達に教えてくれていることになる。これは注目に値することであり、今後覚えておかねばならぬことである。
○「賢治を神格化した表現」について
 M氏は『二、三をのこしておおかた削った』と言っているが、『賢治随聞』になくて『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』にあったそのような関登久也自身の記述は見つからなかった(私が見落としてしまったのだろうか)。

 ちなみに、『二、三をのこし』とM氏がかたっているような箇所だが、私がざっと『賢治随聞』を通読して気付いた部分だけでも
65p:遊坐さんは、「宮沢先生は特別だ、あの人は神様なんだからどうにもしようがあるまい」と言って遊坐さんも賢治へご馳走することはあきらめているようでした。
73p:小原さんはその高等農林を卒業し、いま福島県の方へ赴任しておられますが、宮沢賢治を神のごとくに尊崇し…
77p:そのときのことを回顧して兄の倉蔵さんが「宮沢賢治先生は神様みたいな人だったから、酒も飲まないだろうと思っていたのに、その日は酒も飲んだし、煙草も吸ったし…」
87p:私の実母などは賢さんといえば人間ではなく、神仏に近い人だと信じていたくらいで…
の計4箇所あった。案外『のこし』ている。一方、はこれらの「神格化した表現」はすべて取材された側のものであり、取材した関登久也自身がそのような表現をしている箇所は見あたらなかった。

 う~む…こうやって調べてみると、わざわざ改稿する必要がはたしてあったのだろうかと私は疑問に思ってしまう。それよりは、『宮澤賢治素描』と『續 宮澤賢治素描』をそのまま再版するか、『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)をそのまま再版した方がはるかに良かったのではなかろうか、他人の著作をここまで改稿したりせずに。当時、このような改稿は僭越な行為であると周りから非難されたりしたことはなかったのだろうかと私はついつい心配してしまう。

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