みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(104~107p)

2020-12-31 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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となる、つまり、ほぼ間違いなくちゑに対してであるとなることは自明だろう。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。いやそうではないと言う人もある(〈註十八〉)かもしれないが、もしそうだとすれば〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露に対して当て擦った詩となるから、賢治は異常に執念深くて腑甲斐無い男だということになるし、賢治が大変世話になった露に対していわば「恩を仇で返す」ということになるから、流石にそれはなかろう。
 したがって、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていた賢治がちゑからそれを拒絶されて、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさまして近づけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさまして近づけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
 よっておのずから、次の
  〈仮説7〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルでないということをまず実証せねばならない(さもないと、いわば排中律に反するようなことになるからだ)。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説7〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、高瀬露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。

 さて、私はここで根源的なことを自問せねばならない。それは天沢退二郎氏が憂慮しているように、
   もともと詩というものには虚構が付き物だから詩は安易に実生活に還元(〈註十九〉)できない。
ということをだ。このことは意識しているつもりでも案外忘れがちだ。かつての私などは特に賢治に関する場合にはそうだった。しかし、賢治作品と雖も安易に還元できないのであって、当該の詩を元にして事実を論じたいというのであれば、まずは裏付けを取ったり、検証したりしてからの話であることは当然のことだ。もちろんそれは、作品と事実の間には非可逆性があるからだ。
 ところが、それらの当然なすべきことを手抜きするとどんなまずいことが起こったか。それを教えてくれるのがこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕だ。裏付けも取らず検証もせず、しかも人権意識が希薄な場合、還元さえも飛び越えて自分勝手に解釈してそれを「事実」だと決めつけ、結果、人を傷つけてしまった、と。もう少し具体的に(詳しくは〝第二章 本当の高瀬露〟で述べるが)言うと、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕というたった一篇の詩によって、賢治をあれこれと助けてくれた一人の女性をとんでもない〈悪女〉と決めつけて濡れ衣を着せてしまった、と。しかも、そうされる客観的根拠は全くないというのにも拘わらずである。そこで私は恐れる。賢治はヒューマニストであったはずなのに、そのような賢治を研究しようとしている人達にはその欠片さえもないのではないか、とか、この時代になっても人権意識があまりにも薄いのではないか、というような誹りを受けかねないことをだ。
 なお、最後に声を大にして次のことを言っておきたい。それはこの詩のモデルがちゑであっても、
 伊藤ちゑという人はスラム街の貧しい子女のために献身するなどのストイックな生き方をし、あるいは、身寄りのない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたというようなとても優しい心の持ち主でもあり、まさに「聖女」のような高潔な実践活動家でり、崇敬すべき人物であった。
(さらなる詳細は、拙論「聖女の如き高瀬露」(上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』所収)を参照されたい)
 以上、ここまで主だったものを七点、結果的には「賢治神話」を七点検証したということになった。
  第一章 本統の宮澤賢治
 3.「賢治研究」の更なる発展のために
 そこで正直に言えば、私の検証結果の方が実は真実ではなかろうか、ということを訴える機会と場があればな、と思わないでもない。とはいえ、私の検証結果は賢治の「年譜」や「定説」そして「通説」とは異なるものが多いし、たとい「仮説検証型研究」という手法で検証できたからといってそれが100%正しいと言えるのかと訝る人も多かろうから、今直ぐにはそれは無理だろうということは充分承知している。
 そしてそんなことよりも何よりも、私自身がまずは真実を識りたい、本統(本当)の賢治を知りたいという一念だったから、自然科学者の端くれとして、「仮説検証型研究」等によって幾つかの真実等を明らかにできたことだけで自己満足できたし、それで十分な約10年間だった。しかも結果的にではあるが、「羅須地人協会時代」の賢治は「己に対してはとてもストイックで、貧しい農民のために献身した」と以前の私は思い込んでいたのだが、一連の実証的な考察結果から導かれる賢治はそれとは違っていて、それこそ「不羈奔放」だったとした方が遥かにふさわしい面もあったのだということも識ることができ、《創られた賢治から愛すべき本統の賢治に》より近づいたということで私自身はとても嬉しかった。賢治にも結構人間味があって、以前よりも遥かに身近に感じられるようになったのだった。
 ところが2年程前にある式辞を知ってからは、このままではいけないと私は考え方を少しずつ改め始めた。その式辞とは、平成27年3月の東京大学教養学部学位記伝達式における学部長石井洋二郎氏の式辞のことであり、その中で同氏は、あの有名な「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」というエピソードを検証してみたところ、
 早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
という思いもよらぬ結果となったことを紹介していた。私は愕然とした。それこそ「この幻」を信じてきたからだ。そして石井氏は続けて、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
〈共に「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式 

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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