みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(100~103p)

2020-12-30 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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 そして前掲書によれば、その7月7日に森荘已池を前にして賢治は、
   私は(伊藤ちゑと)結婚するかもしれません――                   〈同104p〉
とほのめかし(〈註十三〉)、
 (ちゑが)自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね     〈同106p〉
とも言っていたという。そしてその一方で、前掲したように、
 禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです 
と悔いていたということだから、この頃の賢治は独身主義を棄て、ちゑと結婚しよう思っていたという蓋然性が高い。よって、賢治は独身主義だったと巷間言われているようだがこの当時の賢治はどうもそうとは言い切れなさそうだ。
 そしてそれは、佐藤隆房も昭和6年のこととして『宮澤賢治』の中で同様なことを、
 賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年は二七、八になる人なんですよ。」
 釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「何でも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないんですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐたといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~〉
と記述していることからも裏付けられる(もちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている)。
 では、一方のちゑは賢治との結婚について当時どのように考えていたのだろうか。まずは、前掲(95p)の10月29日付藤原嘉藤治宛ちゑ書簡により、昭和3年6月の大島訪問以前の秋に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったと判断できるわけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ(〈註十四〉)』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは、前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知らなかったことによる誤解だった。
 次に、前掲の引用文に従えば、当時の賢治はかつてのような賢治ではなくなってしまったことを彼自身が森荘已池に対して言っていたということになるし、佐藤竜一氏も主張しているように、この時の上京は「逃避行」であった(『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p)と見ることもできるから、もはやかつてのような輝きは当時の賢治からは失われていたということが十分に考えられる。
 となると、そのような状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたという蓋然性が低くない。それは、先の「きつい一言」から端的に、あるいは、スラム街の貧しい子女のために献身していたという当時のちゑの生き方を知った今となれば、充分あり得たことだと考えられるからだ。
 またそれ故に、昭和16年1月29日付森宛露の書簡中に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」とちゑは書き記した(〈註十五〉)と解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶した(〈註十六〉)のはちゑの矜恃だったのだ、と解釈できる。つまるところ、当時のちゑは賢治との結婚を拒絶していたと言える。

 さてこれで、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとしては、露のみならず「聖女のさまし」た女性として別にちゑがいることがわかった。そしてその一方で、賢治周縁の女性でしかもクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、
 〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとして考えられる人物は高瀬露か伊藤ちゑの二人であり、この二人しかいない。
ということを肯んじてもらえるはずだ。では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかを次に考えてみたいのだが、結論を先に言ってしまえば、
 「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは限りなくちゑである。
となる。なぜならばそれは以下のような理由からだ。
 これまでのことを簡単に振り返って見れば、
・賢治は昭和6年の7月頃伊藤ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
・それに対して高瀬露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に「下根子桜」から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に云われている。
から、
  ・ちゑ:賢治が「結婚するかも知れません」と言っていたというちゑに対して、その約2ヶ月半後に、
  ・露:「レプラ(〈註十七〉)」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、例の「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当て擦って詠むのかというと、それは
   ちゑ ≫ 露  (「A≫B」とは「AはBより非常に大きい」という意味)

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