みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(108~111p)

2021-01-01 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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と戒め、警鐘を鳴らしていた。
 私はこの式辞を知って、賢治に関する「定説」や「通説」そして「年譜」の幾つかにおいてまさに石井氏の指摘どおりのことが起こっていると首肯し、共鳴した。確かにこれらの中にはあやふやな情報を裏付けも取らず、あるいは検証もせぬままに、それが真実であるかの如くに断定調で活字にして世に送り出されたものなどが少なからずあることを、ここ約10年間の検証作業等を通じて私は痛感してきたからだ。
 例えば、〝2.「賢治神話」検証七点の㈣〟における、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」はあやふやな情報なのだが、当時の盛岡測候所長の証言であるという「真実の衣を着せられて」その証言が「賢治年譜」に載せられてしまうとたちまち「世間に流布して」しまい、「もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります」ということがまさに起こっているように、だ。
 さらに石井氏は続けて、
 本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。
と懸念している。そして確かにそのとおりで、〝2.「賢治神話」検証七点の㈣〟でも引例したように、
・昭和二年は非常な寒い氣候……未曾有の大凶作となった。
・一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
というような、先の測候所長の事実誤認の証言を露ほども疑わずに、鵜呑みしたかの如き記述が今でも横溢している。
 さりながら、この実態を今更嘆いてばかりいてもしようがない、そのような批判精神を今後作動させればよいだけの話だ、ということもまた私は石井氏から気付かされた。そこでこれからは、自己満足という殻に閉じこもってばかりいないで、間違っていることは間違っていると世にもっと訴えるべきだと私は考えを改めることにした。
 そしてこのことは、実はこの式辞を知って、今までの私のアプローチの仕方は間違っていないから自信を持っていいのだと確信できたことにもよる。それは、石井氏は同式辞を、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
と締めくくっているのだが、次のようなことから、この「本質」と私のアプローチの仕方は通底していると認識できたからだ。
 以前から私は、「学問は疑うことから始まる」と認識していたので、一般に「賢治に関する論考」等においては、裏付けも取らず、検証もせず、その上典拠を明示せずにいともたやすく断定表現をしている個所が多過ぎるのではなかろうかということを懸念していた。そこで私は、自分で直接原典に当たり、実際自分の足で現地に出かけて行って自分の目で見、そこで直接関係者から取材等をしたりした上で、自分の手と頭で考えるというアプローチを心掛けてきた。そしてその結果、前掲の〝㈠~㈦〟などのような賢治に関してのあやかしや、知られざる真実や新たな真実を、延いては本統の賢治を明らかにできた。
 とはいえ、私の主張が全て正しいと言い張るつもりは毛頭ない。それは、私が定立した仮説が検証できたといっても所詮仮説に過ぎないからだ。しかしながら、私の場合の検証は定性的な段階に留まらずにできるだけ定量的な検証もしたものだ。だから当然、反例が提示されれば私は即その仮説を棄却するが、されなければしない。しかも、例えば、『新校本年譜』には例の「三か月間の滞京」を始めとして幾つかの反例が現にあり、一方でそれに対応する私の立てた仮説には反例が存在しないから、同年譜は修訂が不可避だというものもある。だから、はたして自己満足だけでいいのだろうかという疑問も実はあった
 そんな折、前掲の石井氏の式辞を知ったことにより、私は今までのような考え方を改め、「賢治研究」の更なる発展のために、おかしいところはやはりおかしいと粘り強く主張し続けることにした、という次第だ。それはもちろん、私たちがそのような事を怠れば「賢治研究」のこれからの発展はあまり望めない、ということは歴史が教えてくれているところでもあるからであり、もしかすると、「創られた偽りの宮澤賢治像」が未来永劫「宮澤賢治」になってしまう虞もあるからだ。
 これでやっと、恩師岩田教授の「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」という嘆きに幾何かは応えることができたかなと、私はひとまず安堵している。そしてまた、賢治の甥という岩田教授の立場からすれば緘黙せざるを得なかったという辛さも多少理解できたつもりでもある。さぞかし、一人の自然科学者として、知っている事実や真実を枉げざるを得なかったことに忸怩たる想いだったことでしょう。
  第二章 本当の高瀬露
 さて、ここまでの私の一連の検証結果は現「賢治年譜」等とは大分異なっていたり、果ては正反対だったりということで、そう簡単には世の中から受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。そこには構造的な問題が横たわっていそうだからである。そこで、第一章の〝2.「賢治神話」検証七点〟等の真偽についてどう決着がつくかはまだまだ時間を要するだろうから歴史の判断を俟つしかないと思っている。しかし、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉がもし捏造されたものであったとするならば、この件だけはそうはいかない。それは人権に関わる重大な問題であり、同〝2.〟の㈠~㈥等とは根本的に違うからである。そして懸念していたとおりで、この伝説は捏造されたものであることを私は実証してしまった。本章ではそのことをこれから報告することによって、本当の高瀬露を明らかにしてゆきたい。

 1.あやかし〈悪女・高瀬露〉
 巷間、〈高瀬露悪女伝説〉なるものが流布している。しかし、この伝説はある程度調べてみれば信憑性の危ういことが容易に判る。それはまず、賢治の主治医だったとも言われているという佐藤隆房が、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子(〈註二十〉)さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だん

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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