《『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ社)
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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
《註》
〈註一34p〉この「猫村」はもちろん「根子村」の間違いであり、地元の関がこの村名を間違うはずもない。しかもこの「猫村」の筆跡は武治の筆跡でもないと子息の裕氏は言っているので、この聞き取りの際、第三の人物が最初の部分を記録したと判断できる。
〈註二40p〉このことは、上京時期に関しての武治の措辞が最初は「確か」であり、次の段階では、「どう考えても」であることからも窺える。
〈註三41p〉「定説」といえども所詮一つの仮説に過ぎないのだから、反例が一つあればそれだけで即刻棄却せねばならない。
〈註四48p〉昭和3年1月22日付『岩手日報』によれば、昭和2年当時の5年平均反当収量は 1.9609石である。
〈註五67p〉福井規矩三発行の『岩手県気象年報』に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温をグラフ化してみると次頁の《図1 花巻の稲作期間気温》のようになるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えず、これは福井の誤認であったことが一目瞭然である。
そもそも大正15年も昭和3年も共にヒデリ傾向の年であり、しかもこの両年のデータと昭和2年のそれとを比べてみれば昭和2年の夏はその中では一番気温の高いことがわかるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候」ということはあり得ない。言い換えれば、福井自身発行の著書が福井の先の証言は彼の単なる記憶違いであったということを教えている。
〈註六67p〉次頁の《図2 岩手県米実収高》は岩手県産米の大正11年~昭和6年の実収高(『岩手日報』(大正15,1,28、昭和2,1,25、同3,1,22、同7,1,23より)であり、昭和2年の反収は約1.93石だから、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」などということも決してあり得ない。
〈註七67p〉《表7 昭和2年稻作期間豊凶氣溫》は盛岡測候所が、昭和2年9月7日付『岩手日報』に発表したものであり、「繁殖期間(つゞき)」においても、「出穂期間」においても偏差平均が高いから、昭和2年の夏は例年よりも気温が高かったことになる。したがって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えそうにない。
当時福井規矩三は盛岡測候所の所長だったのだから、なおさらのこと間違うわけはないと私は思うのだが、福井は《表7 昭和2年稻作期間豊凶氣溫》等を確認せぬままに、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」と「測候所と宮澤君」に書いてしまったことになりそうだ。
〈註八70p〉例えば『岩手県の百年』によれば、
大正末期から「早生大野」と「陸羽一三二号」が台頭し、昭和期にはいって「陸羽一三二号」が過半数から昭和十年代の七割前後と、完全に首位の座を奪ったかたちとなった。これは収量の安定性、品質良好によるもので、おりしも硫安などの化学肥料の導入にも対応していた。しかし、肥料に適合する品種改良という、逆転した対応をせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった。反面、耐冷性・耐病性が弱く、またもや冷害・大凶作をよぶことになった。(『岩手県農業史』、『岩手県近代百年史』) <『岩手県の百年』(長江好道等著、山川出版)124p>
〈註九70p〉大島丈志氏によれば、
陸羽一三二号は、近代化学肥料によって育成されたため、多肥性の品種であり、多くの購入肥料=金肥の投下が必要であった。…(筆者略)…これらの肥料の購入は自給自足的であった農村を急速に商品経済に組み込むこととなった。しかし、肥料商から金肥を買い、金肥を投下して豊作となっても、米価の下落で、豊作貧乏となり、肥料購入費が負債となることによって小作などの貧しい農家は困窮することになった。<『宮沢賢治の農業と文学』(大島丈志著、蒼丘書林)223p>
ということで、殆どこの指摘のとおりだと私も思う。 ただし、最後の「小作などの貧しい農家は困窮することになった」についてははたして如何なものだろうか。それは、私には次のように考えられるからだ。
もともと、お金がなければ購入できない金肥を必要とする賢治の稲作指導法は、困窮していた貧しい自小作や小作等のいわば小農にとってはそもそもふさわしいものではなかっただけでなく、出来高の半分以上も「搾取されるような」当時の小作料であれば、
小作する農家はこの農法に意欲が湧かなかったことは当然であろう。そして注意すべきは、当時米価は年々急激に下がっていったから、金肥を購入して陸羽一三二号に頼って増産を図ろうとした中農がシェーレ現象に見舞われたであろうということである。そのせいで、その頃に中農から自小作あるいは小作になっていった例も少なくないはずだ。実際上掲の《図3》から、年々「自作」の割合は漸減し、逆に「自小作+小作」の割合が漸増していることが読み取れるので、そのことが裏付けられる。
したがって、この稲作方法によって最も困窮することになったのはもともとそうだった「小作などの貧しい農家」ではなく、それまで比較的恵まれていた中農ともいえる自作農家だったのではなかろうか。
〈註十79p〉昭和七年419 六月一日〔森佐一あて〕書簡下書には、
いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやり
ました。母のさとから宣伝されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることを気付きませんでした。気付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやったのでやっとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほうたうの生活へ物を云ふことじつに生意気です。<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)399p~>
と書かれているから、「いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました」に注目すれば、この書簡の日付は昭和7年6月1日だから、大雑把に言えば、賢治は昭和4年6月~昭和7年6月の3年間玄米食を摂っていたということになる。ということは当然、「羅須地人協会時代」の賢治は玄米食をしていなかったという蓋然性が頗る高い。まして、同時代に玄米食をしていたとすれば、「玄米食によることに気付きませんでした」ということはあり得ないからである。
〈註十一95p〉この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
〈註十二95p〉伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が最近独り歩きしつつあるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。昭和3年より前の年の秋である。
〈註十三100p〉森荘已池によれば、
「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接に指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104p>
ということである。
〈註十四101p〉現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した))。
〈註十五102p〉ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節がある。
皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157p>
〈註十六102p〉同じく、2月17日付森宛ちゑ書簡中に、
ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
とある。<同164p>
〈註十七103p〉高瀬露絡みの幾つかの賢治の奇矯な行為としては、
・「本日不在」の札を門口に貼つた。
・顔に墨を塗つて露と会つた。
・座敷の奥の押入の中に隱れていた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著)73p~>
・「私はレプラです」(と露に言った。) <同92p~>
ということが述べられている。
〈註十八104p〉〔聖女のさまして近づけるもの〕の中に、
乞ひて弟子の礼とれる
とあるからということで、この「弟子」とは羅須地人協会に出入りした者であり、その点からもこのモデルは露だという人もあるようだがそれは安易である。いかな賢治の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕と雖も、安直には還元できない。もしこの弟子が露のことを指すというのであれば、それは裏付けされた場合とか、検証できた場合に初めて論ずる意味がある。まして、詩に書かれていることを元にして安易に推測し、それをそのまま事実とすることなどは問題外であろう。
〈註十九105p〉「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民の献身者としての生き甲斐やよろこびが明るくうたいあげられているように見える。しかし、「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の底の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したとみえる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。<『新編 宮沢賢治賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414p~>
〈註二十111p〉内田康子とは高瀬露の仮名であることが知られている。
〈註二十一129p〉そもそもこの「新発見の書簡252c」という表記からしておかしいのであり、ここはあくまでも「新発見の書簡下書252c」とすべきものだと私は思う。なぜならば、それは相手に届いたものではなく、いわゆる反古に過ぎないはずだからだ。
〈註二十二132p〉例えば境忠一は、
賢治が高瀬露にあてた事がはっきりしている下書きの中から問題の点だけをしぼってここに紹介してみたい。 <『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社)156p>
あるいは澤口たまみ氏は、
けれども露とのつき合いは、それだけでは終わりませんでした。昭和四年には手紙のやりとりがあり、そのなかには結婚についての記述もあります。
書簡集に紹介されているのは賢治の手紙のみで、いずれも下書きですが、以下に一部を抜粋してみましょう。
「お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます」
露はクリスチャンでしたが、このときは「法華経を信仰する」と言って、何とか賢治と会おうとしていたようです。<『宮沢賢治 愛のうた』(澤口たまみ著、もりおか文庫)269p~>
というように断じている。
しかし、米田利昭は冷静で、
ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。(愛について語っているのだから男性ということはない。当時男は愛などは口にしなかった。)それに高瀬はクリスチャンなのに、ここは<法華をご信仰>とある。以上疑問として提示しておく。<『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)223p>
と疑問を投げかけている。
〈註二十三135p〉上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』 所収の拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
現在、岩手県内の書店で販売されております。
なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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