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《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)
さて、『岩手日報』に昭和31年1月1日~6月30日連載された『宮澤賢治物語』(関登久也著)は、ほどなくして単行本化されて、昭和32年8月20日に岩手日報社から発行された。そして、その際の、あの「沢里武治氏聞書」に相当する部分である「沢里武治氏からきいた話」は下掲のとおりであった。
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セロ
沢里武治氏からきいた話
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において知人となりしインド人ミ(ママ)ーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりましたが、先生は、
「風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。」
再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。
間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
「ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。」
そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
私はここまで読んできて、とても違和感を感じた。先の新聞連載の場合の「宮澤賢治物語(49)」においては感じなかったそれが、である。それは特に、出だしで意味が通じないからである。
そこでまずは、もう一度以下にその「宮澤賢治物語(49)」を掲げ、見比べてみよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/24/6b48237b4cf4f31aea24e8f4f1714569.jpg)
宮澤賢治物語(49)
セロ(一)
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(ママ)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。
その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが、先生は、
『風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。』
再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。』
そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
そして私は、このせいでだなと気付いた。新聞連載の「宮澤賢治物語」が単行本化されて『宮澤賢治物語』となったら、ある箇所が書き変えられていたからだ、と。
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