《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。
白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。
では今回は、やはり『宮澤賢治追悼』所収の、黄瀛の追想「南京より」からである。
そこには、次のようなことなどが書かれている。
一九二九年の春、…… 私だけ電車で花巻まで引つかへして宮澤君を訪ねた。案じてゐるやうに初めての花巻で、しかも夜道のため、宮澤君の家がわからなかつた。
人力車にのつて小一時間の後、大きな金物屋が彼の家であつた。お父樣がこられてこの珍しい軍服を迎へて驚いたやうな表情をされた。店にあるおおきな電線圖が私の目に今も思ひ出す。私は五分間だけといふ条件つきで宮澤君と面会した。
その時既に宮澤君は何度かの病氣で、危篤から少しよくなつた時だといふことをきゝ乍ら……私はすぐ歸らうと思つたら、弟さん(?)が出てきて、本人が是非とほせといふからと云ふので、宮澤君の病室へはいつた。私達は二人の想像している個々の二人を先づ話したやうだ。五分間がすぐ立つのを気にして私が立とうとしたら、彼は何度も引きとめて私達は結局半時間も話したやうだ。それも詩の話より宗教の話が多かつた。
私は宮澤君をうす暗い病室でにらめ乍ら、その實はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかつた。
宮澤君の生理的に不健康な姿に正対して、私はそのあとで何を話したか覺えてゐない。
<『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)50p~>人力車にのつて小一時間の後、大きな金物屋が彼の家であつた。お父樣がこられてこの珍しい軍服を迎へて驚いたやうな表情をされた。店にあるおおきな電線圖が私の目に今も思ひ出す。私は五分間だけといふ条件つきで宮澤君と面会した。
その時既に宮澤君は何度かの病氣で、危篤から少しよくなつた時だといふことをきゝ乍ら……私はすぐ歸らうと思つたら、弟さん(?)が出てきて、本人が是非とほせといふからと云ふので、宮澤君の病室へはいつた。私達は二人の想像している個々の二人を先づ話したやうだ。五分間がすぐ立つのを気にして私が立とうとしたら、彼は何度も引きとめて私達は結局半時間も話したやうだ。それも詩の話より宗教の話が多かつた。
私は宮澤君をうす暗い病室でにらめ乍ら、その實はわからない大宗教の話をきいた。とつとつと話す口吻は少し私には恐ろしかつた。
宮澤君の生理的に不健康な姿に正対して、私はそのあとで何を話したか覺えてゐない。
というわけで、昭和4年に黄瀛は病臥していた賢治を訪ねて来たということであり、しかもこの時が初対面だったようだから、賢治の作品がいかに黄瀛を惹き付けていたかということが容易に推し量れる。同時に、初対面の遠来の客に対して賢治は「大宗教」など宗教の話を大分したようだから、いかにも賢治らしい。しかし、黄瀛の方は「私はそのあとで何を話したか覺えてゐない」ということだから、賢治と黄瀛は対比的であり、それぞれの人柄を彷彿とさせる。
そして気づいたことが、『宮澤賢治追悼』に追悼を寄せた方たちは、あまり賢治の人となり等は知らない、あまり賢治とは交流はなかったということになりそうだということである。そして思い出したのがかつての投稿〝『宮澤賢治追悼』との比較〟や〝詩誌「次郎」が急遽『宮澤賢治追悼』に〟における米村みゆき氏の見方である。同氏は著書『宮沢賢治を創った男たち』の中で、『宮澤賢治追悼号』などについて、
これらの書物は、賢治の追悼集・研究雑誌と謳われていながら、いずれも内実は、執筆者は故人についてよく知らないままで書いていた。さらにほとんどの執筆者はその文章の中で草野心平に紹介されたと明かす。
〈『宮沢賢治を創った男たち』(米村みゆき著、青弓社)199p〉と述べ、
本来は死者の知己である者たちがその死を悼み悲しんで筆をとるべき追悼集で、不知の者たちに死者を紹介し執筆させているのはどうだろうか。
〈同200p〉と疑問を投げかけていたことを。
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《ご案内》
来る12月16日付で、新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))
を発売予定です。
【目次】
【序章 門外漢で非専門家ですが】
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