みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「思ひ出」(宮沢清六)

2021-11-25 12:00:00 | 一から出直す
《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。

 少なくとも私は、賢治好きの友人の影響もあって、中学生の頃は既に賢治が大好きになっていた。そして、賢治のことも賢治作品も実はよく分かっていなかったのに、若い頃の私は、尊敬する人物は誰ですかと問われれば、
 微分的で破滅的な生き方をした啄木と違って、積分的で求道的な生き方をした、貧しい農民のために献身したストイックな賢治です。
などと、粋がって答えていたものだ。
 ところが、十数年前から賢治に関する事柄を実際に検証し続けた来たところ、私は文学については門外漢であって、賢治に関しては非専門家ではあるのだが、現「賢治年譜」等の中には常識的に考えておかしいことが少なからずあるということをそれほど苦労もせずに知った。しかも、実際に検証してみるとそれらの殆どはやはり皆おかしかった。そこで、私のかつての賢治に対する評価は様変わりしてしまった。私のそれまでの賢治像は創られたものをそのまま信じてきたがゆえのバイアスの掛かったものであり、それはリセットせねばならないし、検証結果については受け入れざるを得なくなったからだ。そこでここからは、バイアスが取り外された目で賢治に関する資料等を見直すことによって一から出直してみたい。

 ついてはまず手始めに、昭和9年1月発行の『宮澤賢治追悼』を読み直し、賢治に関連する重要な記述等を拾い上げてみる。
・「思ひ出」 宮沢清六
『こんな時節外れに櫻の木など移したつて生きるもんか』お父さんがそういはれたのがあなたの思ふ壺でした。
『そだら賭けをやりませう。』お父さんはまたやられるなと思つて私は笑ひ出したいのを我慢するに骨が折れたのです。
 春になつたらその櫻の木は、昨年よりもつと澤山花をつけ、その頃はもう注文したオルガンは來てしまつて、羅須地人協會のものになつてゐました。
 そのオルガンもやがて賣られて、レコードになつたり浮世繪になつたり、その浮世繪を贈られた人からハムになつて戻つてきたりして、隨分長く潤ほされたものです。
『あれは随分うまぐいつたハツパだつたな。櫻の木へ夜こつそり肥料したりしたもな。』後は大笑ひでした。
              〈『宮澤賢治追悼』(次郎社、昭和9年1月)〉

 このエピソードについてはある程度覚えていたが、羅須地人協会時代のことであり、(この清六の追想は明快には言ってはいないいもののおそらく)櫻の移植に賭けをし、賢治はその賭に勝ってオルガンを手に入れてということまでは、しかもズルをしてということまでは覚えてはいなかった。そして、賢治も案外私たちと同じようなところもあるのだと、改めて認識した。

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《ご案内》
 来る12月16日付で、新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))
        
を発売予定です。
【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】

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