みちのくの山野草

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「農業関係者が見た賢治の農業」

2022-03-14 12:00:00 | 一から出直す
《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。

 では今回もまた、佐々木多喜雄氏の論考『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-』からであり、その中の項「⑷ 農業関係者が見た賢治の農業」からである。ちなみに、その構成は、
 ⑷ 農業関係者が見た賢治の農業
  1)「宮沢農学」、「賢治の農業理論」は存在したか
  2)「賢治農法」は存在したか
  3)農業技術者、科学者としての賢治をどうみるか
  4)賢治の農業実態ををどうみていたか-小まとめに代えて-
  5)自立生活から見た賢治
となっている。
 さて同氏はこの冒頭で、
 賢治の晩年は農業に関係していたのに、それ以前は中央文壇を志向していたが故に、前述したように文壇人が賢治の農業に触れたものは多くあっても、農業を専門分野とする農業関係者の立場から、賢治の農業の実際に即してコメントしたものは極めて少ない。
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)44p〉
と嘆いている(たしかにそうであり、私もそのようなものをずっと探していた。そしてやっと辿り着いたのが、まさにこの佐々木多喜雄氏の論考『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-』である)。

 ちなみに、前回投稿したように、佐々木氏は賢治の農業実態について、
 戦後からかなり時を経て、賢治研究が盛んになった近代から現代に至っても、それ以前のものに拠っているいるのか、事実から遙かに遠い認識が示されている例も少なくないのである。…(投稿者略)…
 以上から、中央文壇関係者による賢治の農業実態についての見方や認識は、前述した賢治の農業実態からすると、他からの伝聞や賢治作品のメモをそのまま事実とした故に生じた、本当の姿からは遠くかけ離れた、架空の虚像であると言っても過言ではないであろう。
と論じていて(投稿者の私もまさにその通りだと思っている)、当然「中央文壇関係者による賢治の農業実態」に基づいたのでは正しく推論ができないと判断したから、佐々木氏は今度はもっと精確で妥当だと思われる「農業関係者が見た賢治の農業」について調べてみようとしたのだと私は理解した。

 ではまず、「1)「宮沢農学」、「賢治の農業理論」は存在したか」についてである。
 ここでは同氏は、「農業関係者」の一人である、「農民詩人」の真壁仁が賢治に関して用いている「宮沢農学」対して、
 真の意味での賢治の農業実態を知らずに「宮沢農学」を用いているので、それについて説明のしようが無いのである。
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)44p〉
と見解を述べている。
 次に同氏はもう一人の「農業関係者」である藤根を取り上げ、
 藤根〔増子1992による〕は、…賢治の農業理論を分かっている人間は岩手県の農業技術者の中にもほとんどいない、と「賢治の農業理論」という語句を使っている。
と述べている(ここに出てくる「藤根」とは、この論考の続きを読んでみると藤根研一氏のことを指すようだ)。しかしこの藤根の「賢治の農業理論」に対して佐々木氏は、
 特に藤根は農業技術者として、この種の用語の使用に当たっては、より厳格に対応すべきではなかったかと考えられる。
と要望していた。
 そして最後に、これら二人の「農業関係者」に対して、
 早くの真壁の「賢治農学」は賢治「農聖伝説」の始まりの一つであり、後年に至っての藤根の「賢治の農業理論」は「農聖伝説」の踏襲と言えよう。
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)46p〉
と佐々木氏はまとめていた。つまり、佐々木氏のような農業の専門家から見れば、中央文壇関係者のみならず真壁や藤根のような「農業関係者」でさえも、賢治の農業に関しては正しく捉えていないとということで、このように指摘していたということになろう。

 次は、「2)「賢治農法」は存在したか」についてである。
 ここでは同氏は「(佐藤1992)」を取り上げ、1982年10月8日の『河北新報』の記事の中の、
 「基準を踏まえ“稲と対話”しながら稲作をする」賢治農法は、
とか、
 宮沢清六さん(賢治研究家)は、賢治農法の復活で、
という表現があるということを紹介し、その上で、農業専門家である佐々木氏は、“稲と対話”などは昔から疾うに言われてきたことであり賢治が編み出したことではないと警鐘を鳴らし、
 「賢治農法」なるものは存在していないと言えよう。
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)46p〉
と評していた(この「佐藤」という人は、宮城県に住んでいると推定できるからおそらく佐藤成氏のことであろう)。やはりこのようなことを言い切ることができるのは農業の専門家にして初めてできるのだということを私は直感した。そしてもちろん、その説得力が半端でないということを感じた。

 今度は、「3)農業技術者、科学者としての賢治をどうみるか」についてである。
 佐々木氏はここでまた真壁を取り上げ、賢治のことを
 科学者として稀なる博識と叡智とを身につけ、教育家、指導者として、多くの学徒と農民の信頼を集め…、農科学的に冷害超克の未来図設計に挺身した個人の大実践の姿は…
と真壁は評価しているが、そこには問題があり、
 農業人真壁による一部科学人を含めての農業技術者としての賢治への見方は、事実の把握誤認と、過剰と言える賛辞が多く、これは賢治の信奉者である上に、賢治についての知識が、教え子による賢治追想とか、農業を知らない文学人による賢治の農業実態に関する知識によるものが多いことによると考えられる。
というような、贔屓の引き倒しをしていた虞があるということを危惧していた。  
 そして次に佐々木氏はまた藤根の言説を取り上げ、
 (賢治は)農業と農村の改良のために生涯の情熱のすべてを賭けて戦い尽くした
とか、はたまた
 (賢治は)この国を指導教育する者の側に不在であり続けたこの国の哲学的な不幸に対して、その現状を農民の側から農民と共に変革したという、創造的感性に満ちあふれる農業技師としての熱い思いが濃厚にあったし
というように藤根は賢治のことを評価しているということを紹介し、
 農業技師というものは、どんな過酷な厳しい風土の中でも、確固たる技術と哲学を持ち、有用な存在として農民とともに戦う存在でなければならない
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)46p〉
と藤根は主張していたことなども紹介していた。そしてその上で佐々木氏は、
 ともに戦った存在ではなかったし、現状を農民の側から農民とともに変革したこともなかった。
と藤根の見方をきっぱりと否定していた。それは私の知っている限りでは妥当な断定であり、同論考の冒頭の方で佐々木氏が「(藤根は)賢治に深くのめり込みすぎと思われる」と語っている通りだと私も思わざるをを得ない。
 それからまた、藤根が、
 7月上旬の段階で稲の不作を見抜き警戒しうる技術眼を持ちえたのである。
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)48p〉
と語っていたことに対しては、
 これは1931年(昭6)7月10日付きの岩手日報夕刊に掲載された賢治提供による花巻地方の稲作予想の記事<*1>を指しているものと思われる。
と見通した上で、この稲作予想の記事は7月時点で昭和6年の作柄が芳しくないであろうことを賢治は予測しているのだが、
 低温による7月上・中旬の茎数不足が減収を予想される一つの要因であることは、当時からも言われていることであり、賢治が初めて指摘したことでもない。しかも、その後の天気次第で作柄が回復することは充分に有り得ることなのである。
と、佐々木氏は農業の専門家としての自信故にだろう、冷静に語っていた。
 そしてこの佐々木氏の冷静な見方はまさにその通りだったことが、昭和6年の稗貫郡の水稲の実収高からも裏付けられる。もちろん、周知のとおり同年の岩手県は冷害だったのだが、稗貫の稲作だけは冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均とほぼ同じだから、〝平年作〟と言ってもいいからだ<*2>。言い換えれば、賢治は「7月上旬の段階で稲の不作を見抜き警戒しうる技術眼を持ちえた」わけではない(というよりは、より技術眼を持っていたのは「その後の天気次第で作柄が回復することは充分に有り得ることなのである」と見通していた佐々木多喜雄氏の方だったのである)。
 ということだから、
 賢治の農業技術者としての藤根の評価は、自身が農業技術者故にであろうか、賢治の良いとこ取りばかり多すぎて、賢治の生身の、真の姿を見極めようとする立場からは、かけ離れたものであって、
             〈『北農 第75巻第3号』(北農会2008.7)50p〉
という、佐々木氏の藤根評はますます説得力を増すばかりだ。
 さらに同氏は、地学者の宮城、気象学者の卜蔵らの言説に関しても言及し、
 学者としての宮城および卜蔵の、科学者としての賢治のとらえ方は、前述の真壁や藤根の農業技術者としての賢治の見方と同様
と見ていた。

 では次に、「4)賢治の農業実態ををどうみていたか-小まとめに代えて-」についてである。
 同氏は冒頭で、
 項目名が「農業関係者から見た賢治の農業」であったにもかかわらず、これまで記述した内容は、農業技術者と科学者としての件についてのものであった。それは農業関係者によって賢治の農業実態に触れたものが無かったからに他ならない。これこそが、賢治の農業実態からくることなのである。
             〈同52p〉
と評し(後に佐々木氏はこのことを、「3年足らずの短期間に過ぎない賢治の農業実態の真の姿は、生業としての農業とは言えず」と言い換えて評している)ていた。そこで私は、佐々木氏の「それは農業関係者によって賢治の農業実態に触れたものが無かったからに他ならない。これこそが、賢治の農業実態からくることなのである」という指摘に、鋭いと感心しながら、同時に同氏のこの辛辣さは、あまりにも杜撰な私たちの姿勢を告発しているのかもしれないと、私は冷や汗が出た。

<*1:投稿者註> 具体的には、

              <昭和6年7月10日付『岩手日報』>
というように紙上に載っていて、その記事内容は以下の通りである。
 本年稲作は平年作以下か 宮澤元花農教諭予想を発表 花巻地方の分蘖状況
花巻豊沢町元花巻農学校教諭宮澤賢治氏は、農事の実際的研究家として知られてゐるが宮澤氏は過去数年間にわたり、七月初旬の花巻地方における水稲の分蘖状態に就いて仔細な研究をつゞけてゐる、宮澤氏は七日水稲の生育分蘖に就て左の如く発表した
 七月初旬における花巻地方の稲作は六本乃至十本の分蘖を見たが例年十本乃至十七八本に比較するとき非常な相違で発育も不良でありこゝ一週間以後にはこの倍の十二本乃至二十本まで分蘖するが、例年より分蘖の程度が少なく、若し、七月二十日以後にこれ以上分蘖した所でそれは出穂結実の可能性はなく早くも平年作以下の減収と観測してゐる、殊に昨今の朝夕の冷気が稲作以上頗る有害であると
<*2:投稿者註>

               <『岩手県災異年表 凶冷調査資料 第2号』より>

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