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「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎

2024-01-10 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎
 さて賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」を受けた甚次郎は、昭和2年3月に盛岡高等農林学校を卒業し、故郷に帰ってその「訓へ」どおりに小作人となり、農村劇を上演し続けたという。いわば「賢治精神」を甚次郎は実践しようと心に決め、その実践をし続けたとも言える。具体的には、前掲の『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾―』や松田甚次郎の『𡈽に叫ぶ』(羽田書店)によれば、前述したことと一部重複するが、おおよそ以下のとおりである。
 実は、甚次郎の生家は稲舟村(現新庄市)鳥越一二〇戸集落の中で一番の大地主であった。しかも甚次郎はその惣領息子であったから、本来ならば小作人になるなどということはまずあり得ない立場にあった。しかし、息子甚次郎の強い願いを入れて父甚五郎は水利が劣悪な六反歩の田圃を小作貸借契約し、甚次郎は自宅から数百メートル離れた場所に三坪の小さい小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った。
 そしてその後、甚次郎が取り組んだ主なものを箇条書きにしてみると次のようになる。
・自給肥料を増産し金肥を全廃
土を肥やし、自給自足の小作生活を送るための必然でもあり、下肥のみならず川ごみや鋸屑などの廃物も集めて作った堆肥を使った。(賢治の稲作指導は金肥に対応して作られた陸羽132号による増収であったが、甚次郎の場合は金肥を全廃した自給肥料によるそれであった。これは昨今の持続可能な稲作にも通ずるところがあると筆者の私は思っている。「賢治精神」には沿っているが方法論はそのまま賢治の真似をしているわけではなくて、甚次郎の場合には小作人の実態に即して工夫していて現実的であった、とも言えよう)。
・村をあげての麹・醤油・味噌・澱粉作り
 日々の農家生活で現金支出を最も多く要したのが調味料であり、それを自給するために麹室や醤油タンクを作ったりして、村をあげて麹・醤油・味噌・澱粉を自分達で作った。
・ホームスパン作り
 折角羊を飼育して剪毛までしているのだからということで、被服の自給を図るために甚次郎は古自転車を利用して「松田式紡毛機」を造り、ホームスパンの織物も作った。
・「鳥越倶楽部」の発足
 賢治から「訓へ」られたもう一つ、「農村劇」をやるために創設した会であり、当初は「休日に色々話し合ったり、そこいらを見物したりする、楽しい会を作ろうではないかと」同級生たちなどに話しかけて昭和2年4月25日に十数名で立ち上げたという(甚次郎はこの年の3月に賢治に初めて会い、その年度末に盛岡高等農林学校を卒業して鳥越に帰郷したのだから、甚次郎の実践は着々と進められていったことがこれで了解できる)。
・農村劇「水涸れ」の初公演
 次に、甚次郎はこの倶楽部の皆に「お盆か村祭りの時、芝居をやってみないか」と提案し、「水掛の労苦」をテーマにした農村劇の脚本を書き、昭和3年8月8日に再び「下根子桜」に賢治を訪れ、野外演劇のノウハウを教わり、劇の題名も「水涸れ」と命名してもらった。
 そして、同年9月10日村社の八幡神社の境内に土舞台を作って上演した。
・農村劇による農村文化運動
 そしてその後も甚次郎は農村劇を上演し続け(<注五>)、農村文化の向上のために活動に尽力した。
・「鳥越隣保館(農繁期託児所)」の建設
 前述したような活動が認められて、昭和8年に「有栖川宮記念更正資金」を受領。それを機に、鳥越に会館建設を企て、同年10月に落成。「鳥越隣保館」と命名し、そこで農繁期の託児を始めた。
・農村婦人愛護運動
 甚次郎は昭和6年住井すゑと会って農村婦人問題に関心を持ち始め、住井も同7年に鳥越を訪れて「新しき農村婦人」という題の講演をしているし、奥むめおも同様鳥越で講演をしてるという。さらには、住井の紹介で増子あさが鳥越にやって来て「産婆先生」と皆に慕われながら、農村婦人愛護運動に献身した。
・「最上共働村塾」設立
 昭和7年8月14日、2週間の予定で「誰が先生で、誰が生徒ということもなしに自治共働でやるのだ」という村塾を開始。そして、この塾の名を「最上共働村塾」と命名、その後は毎年期間が11ヶ月間の村塾が続けられていった。
これらのこと以外にも甚次郎の実践は目覚ましいものがあったと伝えられているがそれは割愛する。ここまで掲げた事項の具体的な内容からして、甚次郎が賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)を実践し続けたことはもはや確かなことであったと判断できたからだ。まさに、
   松田甚次郎は「賢治精神」を実践し続けた。
と言えるようだ。ただし、甚次郎のこれらの実践やこれら以外の彼の実践が皆「賢治精神」に沿ったそれであったかというと議論の余地がありそうだから、もっと正確に言えば、
 少なくとも、松田甚次郎は「賢治精神」を実践しようと努力し続けた。
となるのかもしれないが。
 さりながら、「賢治精神」といえばそれこそ「農民芸術概論綱要」で高らかに謳い上げたことと言い換えていいのであろうが、残念ながらそこには方法論がほぼ提示されていないようだし、その実践も賢治の場合にはあまり見られず長続きもしなかったので、甚次郎の継続的で徹底した実践ぶりに(もちろんその実践に問題点がないわけではないが)素直に頭が下がる。
 そして、甚次郎はこれらの実践をまとめて昭和13年に本を出版した。それが他ならぬ『𡈽に叫ぶ』であり、これが一躍大ベストセラーになったというわけである。するとおのずから、このベストセラーの読者の多くは、巻頭に揚げている「恩師宮澤賢治先生」とは一体どんな人物なのだろうかと興味と関心を抱いたはずだ。しかも、甚次郎は昭和14年に今度は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)を出版し、これまたベストセラーとなって増刷が繰り返されたので、賢治とその作品がこれを機に全国の多くの人々に知られるようになっていったのは当然の帰結であった。
 とりわけ、この『宮澤賢治名作選』を手にしたことが切っ掛けで、賢治研究家になった高名な作家も少なくないはずだ。例えば、吉本隆明とか西田良子氏などのように。よって、賢治の受容などを始めとして、甚次郎の果たした役割と貢献度は計り知れないものがあると私は確信しているのだが、どうしてだろうか、現状は「今では殆ど忘れ去られてしまった松田甚次郎」になってしまっている。そう簡単に井戸を掘った人の恩を忘れてしまってよいものなのだろうか。
 
〈注五:本文13p〉「松田甚次郎の行った農村劇公演等のリスト」
昭和2年9月10日 │農村劇「水涸れ」
昭和4年 │農村劇「酒造り」
昭和5年9月15日 │農村劇(移民劇)
昭和6年9月 │農村劇「壁が崩れた」
昭和7年2月 │農村劇「国境の夜」
昭和8年2月 │農村劇「佐倉宗吾」
昭和9年 │農村喜劇「結婚後の一日」
昭和10年12月 │「ベニスの商人」
  〃  暮 │選挙粛正劇「ある村の出来事」
昭和11年4月 │農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」
昭和12年1月10日│「農村劇と映画の夕」公開
   (実家の都合により塾一時閉鎖)
昭和13年 │農村劇「永遠の師父」
昭和14年8月15日│農村劇「双子星」
昭和17年2月 │農村劇「勇士愛」
昭和18年3月21日│「種山ヶ原」「一握の種子」
(昭和18年8月4日│松田甚次郎逝去(享年35歳))
     <『𡈽に叫ぶ』及び『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より抜粋)>

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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