みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第一章 杜撰(テキスト形式)

2024-03-03 14:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰
《用語について》
・〈悪女・高瀬露〉:〈悪女〉にされた高瀬露のこと。
・「羅須地人協会時代」:宮澤賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住んでいた二年四カ月
・「旧校本年譜」:『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の「賢治年譜」
・『新校本年譜』:『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)
・ 帰花:花巻に帰ること。
・「定説❎」:『新校本年譜』の大正15年12月2日の次の記載のこと。
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。───❎
・「定説★」:『新校本年譜』の昭和8年9月20日の次の記載のこと。
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであったが何時間にも思われるほど長く感じられ、その人が帰るといそいで賢治を二階へ抱えあげた。───★
・〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟:「新発見」の賢治書簡下書252c群及び「推定群⑴~⑺」の公表のこと。
・【仮説】自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。ここから理論的に導きだした結果が観察や実験で検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。 〈『広辞苑第二版』〉
〈註〉引用文はゴシック体にしてある。
〈表紙〉 三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)
 白い片栗はまるで、宮澤賢治、高瀬露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。そして、
「曲学阿世の徒にだけはなるな、跪くのは真実の前にだけだ」と檄を飛ばされた気がした。
  はじめに
 先頃、現在使われている小学六年生用の国語教科書をたまたま目にした。するとそこには、
 そして、一九三三年(昭和八年)九月二十一日が来る。 
 前の晩、急性肺炎を起こした賢治は、呼吸ができないほど苦しんでいた。なのに、夜七時ごろ、来客があった。見知らぬ人だったけれど、「肥料のことで教えてもらいたいことがある。」 と言う。すると賢治は、着物を着がえて出ていき、一時間以上も、ていねいに教えてあげた。    〈『国語⑥創造』(光村図書出版、令和3年、122p〉
というように、巷間言われている宮澤賢治終焉前日の面談がありありと描かれていることを知った。そしてまた、私も小学生の頃にこんなことを教わったような記憶が蘇る。とはいえ、その頃とは異なり私は訝った。このようなことを今でも相変わらず、それも小学校で、純真な子どもたちに教えていることがはたしてこのままでいいのだろうかと。
 かつての私は、賢治に関してはかなりバイアスがかかっていて良心的に解釈していた。ところが、ここ十数年ほど賢治に関することを検証し続けてきた結果、それは危ういということを気付かされた。巷間言われている賢治に関することで、常識的におかしいと思ったところはほぼ皆おかしかったからだ。そこで、「見知らぬ人」に対して「呼吸ができないほど苦しんでいた」賢治が「一時間以上も、ていねいに教えてあげ」たということは常識的にはあり得ないし、この面談の内容が事実であったということを実証している人も見つからないから、この面談もその一つの例なのかなと不安になる。賢治は「貧しい農民(当時の農民の多くは貧しかったのだ)のために己の命まで犠牲にして尽くした」人であったと思わせてしまうようなこの面談を、未だ判断力が十分には育っていない純真な子どもたちに事実であったかの如くに教えていることに問題はないのだろうか、と。
 一方で、今年(令和5年)は賢治没後90年だ。それに気付いて私は、人物の評価は没後百年には定まると誰かが言っていたことを思い出し、「もしそうであったとするならば、あと10年で宮澤賢治像は確固たるものになってしまうのか」、と焦りながら独りごちた。
 というのは、現在の「賢治年譜」等には幾つかの問題点があり、別けても、賢治が血縁以外の女性の中で最も世話になったはずの高瀬露が、あろうことか「とんでもない悪女」にされているという現実は人権問題だから看過出来ないので、私は昨年の一月十五日、筑摩書房に宛てて次頁に掲載したような《『筑摩書房』宛のお願い文書》をお届けした。そして、拙著『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』もお届けし、それも読んでいただき、特にその第一章の「六 おわりに」で私は次のように、
 一方でこの「252c等の公表」によって、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があった、ということも実は公開されてしまったと言える。しかもこのことは、今となっては覆水盆に返らずだ。だから私は、この上、「恩を仇で返す」ような賢治であってはほしくない。
 というのは、巷間、露はとんでもない悪女だとされ続けているわけだから、この実態が続けば、賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが露であったというのに、賢治は露に対して「恩を仇で返した」と歴史から裁かれかねないからだ。しかし、この悪女が濡れ衣であったならば、賢治は露に対して「恩を仇で返した」、と誹られることは避けられるし、しかもそれは濡れ衣であったということを私たちは実証出来ているから、賢治と露のために筑摩に問う。
 せめて、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定出来たのかという、我々読者が納得出来るそれらの典拠を情報開示していただけないか、と。願わくば、『事故のてんまつ』の場合と同様に、「252c等の公表」についても「総括見解」を公にしていただけないか、と。
お願いをしたので、その対応等を期待していた。
 だが、その後筑摩書房からは未だ梨の礫だ(田舎の老いぼれがこのようなお願いをしても無視されるのは当たり前かな)。そこで私は、ステップは踏んだのだから許されるだろうと思って、今度はこの小冊子を出版することにした。というのは、この『筑摩書房』宛の文書では、他のことと違って人権問題は喫緊の課題だから(実はこのこと以外にも『校本宮澤賢治全集』には杜撰な点が幾つかあるが、それらのことについては遠慮して申し上げなかった)このことに絞って訴えた。しかし、何一つ連絡がないので、こうなったならばもう遠慮などせずにそれらのことも公に訴えようと決意し、この冊子を出版し、いわば遺言としたいと思った次第だ。

《『筑摩書房』宛のお願い文書》
2022年1月15日
株式会社筑摩書房
代表者 喜入 冬子 様
 突然のお手紙を差し上げる失礼をお許しください。
 私は岩手の花巻市に住まう鈴木守と申しまして、ここ十数年ほど、高瀬露という女性が着せられた濡れ衣を晴らすことに主に取り組んで参りました。そして、その不条理を世に訴えて、高瀬露の名誉と尊厳を取り戻すための最後の著書としてこの度出版しましたのが、この冊子『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』です。
 実際これまでの出版等によって、高瀬露は〈悪女〉などではなく、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉は全くの濡れ衣だと賛同して下さる方々も少しずつ増えて参りました(『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』をご覧になっていただければ、ご領会いただけると思います)。
 しかしながら、一度拡散してしまった〈悪女伝説〉を完全に払拭することが容易でないことは歴史の教えてくれるところでもあります。がしかし、これは人権問題ですから私には等閑視できませんし、喫緊の課題だとも思っております。そこで今後は、著書ではなく別な方途を通じてその払拭のために粘り強く今後も取り組んで参ります。
 つきましては、この冊子をご高覧いただき、この質問状に対するご回答を賜りたくお願い申し上げる次第です。なお、それがご無理な場合には、4月末頃までにその旨だけで結構ですのでお知らせいただけないでしょうか。
 末筆ながら、御社のますますのご発展をお祈りしております。
鈴木 守
〒025―0068 花巻市下幅21の11
〈追伸〉
 参考資料といたしまして、
 『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)
 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』
     (森義真、上田哲、鈴木守共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)
も同封いたしました。

 もちろん、賢治に関して非専門家の私がこのような冊子『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』を出版したからといって、この課題がすんなりと解決出来るとは思っていない。がしかし、だからといって見て見ぬ振りは出来ない。このまま看過していたのでは、これらがそのまま近々「事実」や「真実」となってしまう虞(おそれ)があるからだ。そこで、そうなることを避けたいという思いからこの冊子を出版することにした。
 それからこの出版にはもう一つの理由がある。詳しくは後述するが、今から約半世紀以上も前にある方が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
という意味のことを嘆いた。当時まさにその賢治を最も尊敬していた私にはとてもショックだった。その方の嘆きが、私にこの冊子を出版をさせたもう一つの大きな理由だ。

  第一章 杜撰
 さて、宮澤賢治に関して、ある研究者がある論考で、
 賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。当時の筆者もまたその一人であった。
と危惧していた。私は「まさに」と頷いた。たしかに、「旧校本年譜」や『新校本年譜』に記載されている事柄はそうとは限らないのに、皆「事実」であると多くの方々は信じ込んでいるようだ。それは例えば、以下のようなことからも示唆される。
  ㈠ あらゆることを疑い
 不思議なことに、「昭和2年の賢治と稲作」に関する論考において、少なからぬ賢治研究者等がその典拠も明示せずに、しかも断定的な表現を用いてそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(筆者註:昭和2年)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。                   〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。                         〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。                        〈『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。〈『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
  〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。                    〈『宮澤賢治論』(桜楓社)89p〉
というような事柄を述べている。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の大凶作となった」という断定にしばしば遭遇する。
 しかし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることが出来ることに気付いていた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定〝(a)~(f)〟はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それゆえ、私はその「典拠」を推測するしかないのだが、
「旧校本年譜」には、昭和2年のこととして、
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮澤君」によると、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」───●
という。
と記載されている(『新校本年譜』も同様)し、確かに福井は「測候所と宮澤君」という追想において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。         〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
と証言していたから、これか、この孫引きが「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはずだ。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったからなおさらに、この証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 しかし、『阿部晁の家政日誌』に記載されている花巻の天候のみならず、それこそ福井自身が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)や『岩手日報』の県米実収高の記事、そして「昭和2年稲作期間豊凶氣温」(盛岡測候所発表、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)等の一次情報によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを容易に知ることが出来る。つまり、同測候所長のこの証言〝●〟は事実誤認だったのだ(詳しくは拙著『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)の65p~、〝㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」〟をご覧いただきたい)。
 そこで思い出すのは、石井洋二郎氏の鳴らす次の警鐘、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞〉
だ。しかも、私も岩手大学の学生の頃、先生方から『疑うことが学問の始まりだ』と口を酸っぱくして言われていたから、これは全ての場合の基本だと心掛けていたので、この警鐘には襟を正す。
 逆の言い方をすれば、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」はこの福井の証言〝●〟を毫も疑わず、まして検証もせず、裏付けも取っていなかったということになる。しかし、はたしてこんなことでいいのだろうか。門外漢で非専門家の私でさえも気付くのだから、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」であれば、当然一度は疑ってみるという基本に則っていたはずだし、そうすれば容易にこの〝●〟が事実誤認だと分かっただろうに、残念だ。要するに、同年譜は前掲の警鐘を蔑ろにしていたということであり、基本に則っていなかったということであり、延いては、筑摩書房はちょっと杜撰なところがあると言われても致し方なかろう。
 そして、本章の先頭で引用した、「賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう」ことが危惧される。実際、「それを「説」ではなく「事実」として受け取っ」た結果、先の〝(a)~(f)〟のような断定表現が為されたということを否定できない。
 そこで正直に言わせてもらうと、『校本』の年譜と雖も間違いがあり、その記載を鵜呑みには出来ず、先に引用した石井洋二郎氏の警鐘「あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」は我々読者自身にも必須だということを改めて思い知らされる。
 それから、もう一つ気になることは、この福井の証言〝●〟が筑摩書房の「賢治年譜」に初めて記載されたのは昭和52年出版の「旧校本年譜」においてであり、それ以前の『宮澤賢治全集第十二巻』(昭和44年)にも『宮澤賢治全集第十一巻』(昭和32年)にも記載されてはいない
 というわけで、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」という評が危ぶまれることになってしまったのだが、実は似たような事は他にもある。
  ㈡ 一次情報に立ち返る
 その一つは、先に出版した拙著『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(ツーワンライフ出版、令和3年)でも論じたことだが、『新校本年譜』における、大正15年12月2日の次の記載「❎」(以後、「定説❎」と表記する)、つまり現在定説になっている、次の記載に関してである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。───❎
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。    〈『新校本年譜』325p~〉
 なんと、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」が、「……要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、まるで他人事のような言い回しで、その根拠も理由も明示せずに、「関『随聞』二一五頁の記述」内容を一方的に「訂正」したことになる。
 はてさて、他人の記述内容を、その理由等も明示せずに一方的に書き変えるということがはたして許されるものなのだろうか。こんなことをしたならば、「出版社が、何と牽強付会(けんきようふかい)なことをなさるものよ」と、眉を顰(ひそ)める人だっているだろう。その一方で、このような処理の仕方は大問題だということを指摘している賢治研究者等を、私の管見ゆえか、残念ながら未だ誰一人として見つけられずにいる。なんとも不可解な世界だと、門外漢で非専門家の私はため息をつく。
 そこで、なにはともあれ、「関『随聞』二一五頁の記述」をまずは確認してみよう。それはこのようなものだ。
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロを持ってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。                     〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
 つまり、『新校本年譜』は結果的に、この「沢里武治氏聞書」が「定説❎」の「典拠」であるとし、ただし、この上京は大正15年12月2日のことである、とその理由等も明示せずに「訂正」したということになる。当然、賢治のことを知っている人は首を傾げる。「三か月間」どころか、それから一か月も経たない12月末に賢治は帰花したし、明けて昭和2年1月10日には羅須地人協会の講義等を行ったと同年譜ではなっているからだ。
 もう少し丁寧に説明すると、「典拠」としていることになる「沢里武治氏聞書」の中で、「三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました」と沢里は証言しているわけだから、賢治は大正15年12月2日~昭和2年3月1日の「三か月間」滞京していたことになるはずだ。がしかし、「定説❎」はそのことには全く触れていないのである。しかも、『新校本年譜』からその当時の賢治の動静を拾い上げた次頁の、《表1 賢治の動静(大正15年12月1日~昭和2年3月1日)》に「三か月間」の滞京を当て嵌めることが出来ないから、典拠としていることになる「関『随聞』二一五頁の記述」それ自体が、なんと、「定説❎」の反例になっているのである。もちろん、定説と雖も所詮仮説の一つだから、反例がある仮説はすぐに棄却されねばならないのに、だ。
 ところでその一方で、「典拠」としている「沢里武治氏聞書」の年次を「訂正」せず、素直にそのまま「昭和二年十一月ころ」を適用すればどうなるのかというと、次頁の《表2 賢治の動静(昭和2年11月1日~昭和3年3月13日)》にはこの「三か月間」がすんなりと当て嵌まる空白期間、昭和2年11月4日~昭和3年2月8日がある。なんともはや、「訂正」をすれば当て嵌まらないのに、「訂正」しない方がすんなりと当て嵌まるのだ。
《表1 賢治の動静(大正15年12月1日~昭和2年3月1日)》
月 日 動    静
12▼▼▼ 1▼ 2▼ 3▼ 29 11/22付案内による定期の集りが開催されたと見られる▼沢里武治一人に見送られ、セロを持ち、花巻駅から上京▼着京▼離京(?)
▼  1▼▼▼▼ 1▼ 5▼ 7▼ 10▼ 20▼ 30▼ 31 一年の計:本年中セロ1週1頁 オルガン1週1課▼中野新佐久往訪、伊藤熊蔵同竹蔵等来訪▼中館武左エ門 田中縫次郎、照井謹二郎等来訪▼〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる▼羅須地人協会講義▼羅須地人協会講義▼『岩手日報』に『農村文化の創造に努む』の記事
2▼ 10▼ 20▼ 28 羅須地人協会講義▼羅須地人協会講義▼羅須地人協会講義
3 1
《表2 賢治の動静(昭和2年11月1日~昭和3年3月13日)》
月 日 動    静  
▼11▼ 1~3▼ 菊花品評会の審査▼
▼12▼
  1▼
▼ 2▼ 9▼ 初旬 15▼ 2月 湯本小学校で農事講演会に出席、講演▼労農党へ「謄写版一式と二十円」寄付(?)▼堀籠文之進の長男を見舞う▼梅野健造来訪
3 13 堀籠文之進へ岩手師範入学者の報告
 要するに、「定説❎」の注釈である「*65」のような年次の「訂正」の仕方は無茶だということを、この《表1》と《表2》は教えてくれている。そしてもちろん、『新校本年譜』の担当者がこの「無茶」に気付いていなかったはずがない。それは、「定説❎」の中に、「少なくとも三か月は滞在する」の文言が完全に消え去っていることが逆に、はしなくも示唆していると私には見えるからだ。杜撰だ。
 かくの如く、「定説❎」は成り立ち得ないということが、門外漢で非専門家の私でさえも分かるのに、賢治研究者の誰一人としてこのことに対して異議申し立てをしていないことも、私には不可解だ。そもそも、「一次情報に立ち返る」という基本に則っていればこんな杜撰なことは起こらないはずなのに。
 ちなみに、「関『随聞』二一五頁の記述」の一次情報(資料)は何であろうか。そこで、関『随聞』、すなわち 『賢治随聞』(角川書店、昭和45年2月20日発行)における、「沢里武治氏聞書」に相当するものを、時代を遡って探してみた。すると、
⑴ 「沢里武治氏聞書」(『賢治随聞』角川書店、昭和45年2月20日発行)215p~)
⑵ 「沢里武治氏からきいた話」(『宮沢賢治物語』岩手日報社、昭和32年8月20日発行)217p~)
⑶ 「セロ㈠、㈡」(『宮澤賢治物語』(『岩手日報』昭和31年2月22日~23日連載)
⑷ 「澤里武治氏聞書」(『續 宮澤賢治素描』眞日本社、昭和23年2月5日発行)60p~)
となっていた。よって、「沢里武治氏聞書」の初出は『續 宮澤賢治素描』においてであり、この〝⑷「澤里武治氏聞書」〟が一次情報だったのだ。そしてそれは、具体的には次のような証言だ。
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花卷驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…筆者略…滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~〉
 従って、一次情報であるこちらの「澤里武治氏聞書」と先の《表1》と《表2》とを併せて考えれば、「定説❎」は棄却して、新たに、
 みぞれの降る、昭和2年の11月頃の寒い日、セロを持ち上京するため花卷駅へゆく。教え子の澤里武治がひとり見送る。「澤里君、セロを持って上京して来る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する。…筆者略…とにかく俺は、やる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」と言い、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。そして、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました」と沢里は証言している。
という内容に修訂せねばならないということを私は容易に領会する。
 なお、「羅須地人協会時代」の賢治の上京について、柳原昌悦が、
「一般には沢里一人ということになっているが、あの時は俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていないことだけれども」
ということを菊池忠二氏(柳原と菊池氏は向中野学園勤務時、同僚であった)に教えてくれたということを、菊池氏から筆者の私(鈴木)は平成23年11月26日に教わっている。では、柳原が言うところの「あの時」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば、「定説❎」、すなわち、「セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」となっている、大正15年12月2日であることは直ぐに分かる。つまり、現在の定説では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に、実は少なくとも柳原が沢里と一緒に賢治を見送っていた、ということを同僚の菊池氏に対して柳原自身が証言していたことになる。なお私が知る限りだが、この時(大正15年12月2日)に賢治が「セロを持って上京した」ということは、沢里も柳原もそれ以外の誰も証言していない。
 よって、大正15年12月2日の「賢治年譜」は、
 沢里武治、柳原昌悦に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。
という修正も必要であると私は言いたい。
 要するに、「最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜」は、一次情報(一次資料)どころかなんとその真逆とも言える、いわば四次情報の「関『随聞』二一五頁の記述」、すなわち前掲した〝⑴の「沢里武治氏聞書」〟を「典拠」としていたということになる。これでは、時代が下れば下るほど典拠としては不確かになるのは常だから、「『校本』の年譜」の注釈「*65」のような年次の「訂正」の仕方は、「典拠などが不確かである」と、つまり杜撰であると非難されても致し方がなかろう。
 さて、先の〝㈠ あらゆることを疑い〟という項で私は、
「一次情報に立ち返る」という基本に則っていればこんな杜撰なことは起こらないはずなのに。
と述べ、その基本を蔑ろにした「手抜き」に落胆したのだが、こちらの今度の杜撰は「手抜き」よりももっと深刻で、一次情報どころかその逆の、いわば「四次情報」を持ち出していることに鑑みれば、『校本』の年譜」には何らかの意図的な「狙いがあった」と思われても致し方がなかろう。
 なお、これらの私の主張、いわば「賢治の昭和二年上京説」は、拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」というシリーズに当たる。するとその投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」について入沢康夫氏から強力な支持を得ているものと認識している。そしてまた、この件に関しては入沢氏のご期待に沿おうとして、平成25年に『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』と題して自費出版した。
 なお、『新校本年譜』における、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、まるで他人事のような言い回しで、その典拠も明示せずに、「関『随聞』二一五頁の記述」内容を一方的に「訂正」したのは、実質的には『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年発行)、つまり「旧校本年譜」で初めて、そして既に行われていたということは、拙著で明らかにしているところである(詳しくは、拙著『筑摩書房様へ公開質問状「賢治年譜」等に異議あり』の32p~36pをご覧いただきたい)。言い換えれば、この「訂正」が筑摩書房の本に初めて登場したのもまたあの昭和52年のことであったということになる。
 そこで一言。「大正一五年のことと改めることになっている」という「訂正」はあまりにも杜撰なことだが、それもまた昭和52年に行われていたことが分かったから、これは意図的であったと言うべきなのだろうか。
  ㈢ 自分の頭と足で検証
 さらに、これもまたおかしいぞと思ったのは「旧校本年譜」の大正15年7月25日の項の次の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。          〈『校本全集第十四巻』〉
を知った時だった。ショックだった。賢治が下根子桜に住んでいた時代、いわゆる「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったというのが通説のはずだが、そこに「寝泊まりしていた千葉恭」とあるのだから、少なくとも下根子桜に移り住んだその年の夏に、ある人物が賢治と一緒に暮らし続けていたということになる。となれば、「羅須地人協会時代」は「独居自炊」という通説は危ぶまれるからだ。
 そして、そもそもこの千葉恭とは如何なる人物だったのだろうか。そんな人物が下根子桜の宮澤家別宅に寄寓していたことなど全く知らなかった私の頭の中はしばし混乱した。そこで、千葉恭なる人物のことをもっと知りたいと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに「寝泊り」していたのかも、その出身地さえも含めて、千葉自身のことに関してはあの膨大な『校本宮澤賢治全集』のどの巻にも殆ど何も書かれていなかった。
 その一方で、賢治関連の資料や論考の中で、千葉が行った講演の内容や彼の著した追想等がしばしば登場していることを知った。例えば、千葉の講演そのものである、「羅須地人協会時代の賢治」では、
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一しよに生活してまいりましたのは私自身百姓に生れ純粹に百姓としての一つの道を生きようと思つたからでした。そんな意味で直接賢治の指導をうけたのは或は私一人であるかもしれません。     〈『イーハトーヴォ復刊第2号』(宮澤賢治の会、昭和30年)〉
と千葉は述べていた。しかしながらそれらのどの資料の中にも、千葉が下根子桜の宮澤家別宅でいつ頃から暮らし始めたのかも、いつまで賢治と一緒に暮らしていたのかというその期間についても、ずばり直ぐに確定出来るものは一つも見つからなかった。そして、その論考の中にも同様にだ。
 しかしながらその後、幸運なことに、千葉恭の三男である滿夫氏に私はとうとう会うことが出来(平成22年12月15日等)、長男の益夫氏にも会うことが出来(平成23年6月16日等)て、多くの証言を得た(具体的には『本統の賢治と本当の露』の10p~11pをご覧いただきたい)。
 しかしながら、「下根子桜」で恭が賢治と一緒に生活していた期間等は二人の子息の証言によっても明らかに出来なかった。ところがあることが切っ掛けで、確かなルートから、恭が「穀物検査所」を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ、
大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
昭和7年3月31日 穀物検査所宮守派出所に正式に復職
というものであった。
 一方、千葉は、
 その中に賢治は何を思つたか知りませんが、学校を止めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難となつて来たのでしよう。私のところに『君もこないか』という誘いがまいり、それから一しよに自炊生活を始めるようになりました。〈『イーハトーヴォ復刊第2号』、宮澤賢治の会)〉
と述べていたし、三男の滿夫氏は、
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。      〈『本統の賢治と本当の露』10p〉
と教えてくれたから、宮澤家別宅寄寓の始まりは「穀物検査所」を辞めた大正15年6月22日頃であったとほぼ判断出来るだろう。
 また、その寄寓期間についてだが、千葉恭自身は、
 先生との親交も一ヶ年にして一應終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサ〳〵してとう〳〵役所を去ることになりました。私は役人はだめだ! 自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。   〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)9p〉
と述べているから、「昭和四年」に問題はあるものの、恭の宮澤家別宅寄寓期間は長くとも一年以内であろう。
 するとこの時に思い出すのが恭の、
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。                                    〈『四次元7号』(宮澤賢治友の会)8p〉
とか、
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会をみていく場合つねに私を叱咤するようになつてまいりました。      〈『イーハトーヴォ復刊第2号』、宮澤賢治の会)〉
という、いずれも松田甚次郎に関する証言である。よって、恭は甚次郎を下根子桜の別宅内で目の当たりにしていたとほぼ判断出来そうである。
 一方周知のように、甚次郎は昭和2年3月8日に下根子桜の賢治の許を初めて訪れ、同年8月8日に二度目で最後の賢治宅訪問をしている。よって、千葉恭の宮澤家別宅寄寓期間について次のような、
〈仮説❶〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8カ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
が定立出来るし、その反例もないことが確認出来るから検証出来たことになる。
 従って、本当のところは、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないということになる。だから、どうやら千葉の宮澤家別宅寄寓等ついては、一部意図的に隠されてきた蓋然性が高いし、新たな事実も幾つか明らかに出来たので、これらのことに関して実証的かつ詳細に論じた拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』を平成23年に自費出版し、入沢康夫氏に謹呈した。すると入沢氏から、平成23年12月27日付けで、
 これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。それにしても、貴兄もお書きになっておりますが、当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね。               (傍点筆者)
というご返事を頂き、身に余る評価を賜った。
 そしてまた、まさに入沢氏の指摘どおりで、なぜ「言及していないのか」私も不思議に思った(なおその後、この「不思議ですね」については、ある程度解明出来たのでこのことについては『本統の賢治と本当の露』の16p~25pで報告してあるのでご覧いただきたい)。
 ただしその一方で、入沢氏の「これまでほとんど無視されていた千葉恭氏」というその「無視されていた」理由を私は解明出来ずにいたのだが、そのことも最近少しずつ見え始めてきたような気もする。それは、前項の最後(本書14p)で私は、
 この「訂正」が筑摩書房の本に初めて登場したのもまたあの昭和52年のことであったということになる。
と述べたがそれだ。おそらく、「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞するようになったまさにその頃ではなかったのかと直感したからだ。
 そこで早速、幾つかの著書の「賢治年譜」等の大正15年分から関連した記載を拾い上げてみたならば、主立ったものを掲げると次のようになった。
   【「独居自炊」に関する主な著書の「賢治年譜」等における大正15年の記載一覧】
(1)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)の「宮澤賢治略歴」
四月 花卷町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。
(2)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋版)の「年譜」
 四月、花卷町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(3)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山房)の「宮澤賢治年譜」
 四月、花卷町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)
(4)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)の「宮澤賢治略年譜」
 四月、花卷町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。
(5)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)の「宮澤賢治略年譜)」
 四月、花卷町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。
(6)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)の「宮澤賢治年譜」
 四月 花卷町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(7)『昭和文学全集14宮澤賢治集』(昭和28年発行、角川書店)の小倉豊文の「解説」
大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花卷郊外に獨居自炊の生活を始めた。
(8)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)の「年譜」
 四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(9)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)の「宮沢賢治年譜」
 四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(10)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年、筑摩書房)の「年譜」
 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
(11)『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(平成13年)
 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
 このように並べてみると修辞の仕方の変化に関してまず気付くことが二つ。それは、「主立ったもの」以外のものも含めてのことだが、
 まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という修辞はしていないから、実は「羅須地人協会時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識は早い段階ではなかったのではないかということである。つまり、長期間賢治と一緒に、それも結構早期の段階から「下根子桜」で寝食を共にしていた人物(千葉恭)がいたことは周知の事実だったのではなかろうか、ということである。
 そして二つ目は、『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では「四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した」のように〝自炊〟だけであったのに、筑摩書房はあの「昭和52年」から「独居自炊」という修辞を使い始めたということだ。そして、その後は殆ど皆が「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞するようになったということである。
 そして一方で知ったのが、高村光太郎がまさにそのものずばりのタイトルの『獨居自炊』という随筆集を昭和26年6月に出版していたことだ。そしてこの随筆集の巻頭を飾るのが、
    獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ爲ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
…筆者略…
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―        〈『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)〉
という随筆であった。よって、これは昭和17年4月13日にしたためたもののようで、光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。もちろん当時光太郎は花巻に疎開して自己流謫、太田村山口で「独居自炊」生活をしていたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのはごく自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推測した、
 この昭和26年出版の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』が、前掲した「修辞の仕方の変化」の切っ掛けだったのではなかろうか。
と。というのは、前掲の【「独居自炊」に関する主な著書の「賢治年譜」等における大正15年の記載一覧】における「独居自炊」の初出が昭和28年であったから、出版時期といい、そのタイトルといいほぼピッタリだからである。
 どうやら、当初は賢治の「羅須地人協会時代」の修辞としては使われていなかった「独居自炊」であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆集『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「羅須地人協会時代」に対しても「独居自炊」という四文字で修辞されるようになっていったのではなかろうかと推測出来る。他ならぬ高村光太郎のそれであればなおさらに。そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて使ったからではなかろうか。ただし、しばらくはこの四文字「独居自炊」は定着しなかった。ところが「昭和52年」に筑摩書房が『校本宮澤賢治全集第十四巻』所収の「賢治年譜」の大正15年の項で、「四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る」と記載したものだから、それ以降、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったということになったと言えそうだ。しかし、もともとそう呼ばれていたわけではないし、この四文字の「独居自炊」を真っ先に使ったのは高村光太郎であったから、これを「羅須地人協会時代」の修辞のために使った人は、「換骨奪胎では」と揶揄されるかも知れないという不安、あるいは良心の呵責を抱いたに違いないし、後ろめたさを感じたのではなかろうか。
 なぜなら、この人は、『校本宮澤賢治全集第十四巻』には大正15年のこととして、
   四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
と記載しながらも、同巻の大正15年7月25日の項には、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
と記載しているので、その矛盾にもちろん気付いていたはずだからだ。ついては、その対策を講ずるために苦慮したであろうことも想像に難くない。
 そこで私は、あっ、だから「これまでほとんど無視されていた千葉恭氏」ということになるのかと膝を打った。それゆえに、千葉恭については、
 いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関してはあの膨大な『校本宮澤賢治全集』のどの巻にも殆ど何も書かれていなかった。
のではなかろうか、と。そしてまた、入沢康夫氏のあの疑問、
   当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね。
についても、同じような理由からであったと説明がつくのではなかろうか。
 つまり、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」とは言い切れないのに、なぜそう言われ続けてきたのかというと、
 「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞したいがために、それを否定する存在である千葉恭を無視することによって、賢治周辺から遠ざけた。
からそうできたのだ、と私には思えた。
 こうして、少なからずあれこれと賢治を助けてくれた千葉恭であったのに、千葉はいつの間にか無視されていったということが否定できないことに私は気付いた。それは、石井氏の言う「自分の頭と足で検証してみる」ことによってこのことを明らかに出来たわけだが、そのようなことを行うべきは今頃でもなく、しかも門外漢で非専門家の私ではなかろうに、とぼやいてしまう。
 とは思いつつも、賢治にとって重要な人物のはずの千葉恭について入沢康夫氏から、
 これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。
というように、拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』に対して身に余るお褒めの言葉を頂いたことはとても嬉しいし、ありがたい。だがしかし、門外漢で非専門家の私に対して、入沢康夫氏にこうまで言わせてしまうような『賢治学界』って、一体どうなっているのだろうかと私は途方に暮れてしまう。「独居自炊」とは言い切れないのに、千葉恭をなおざりにしてきた同学界ってこのままでいいのだろうか、「いい加減だ」と誹られたりすることはないだろうかと、老いぼれた私は不安が募るばかりだ。
  ㈣ 杜撰が招いた冤罪
 では、今度は〈高瀬露悪女伝説〉に関して論じてみたい。というのは、宮澤賢治が生前、血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露であるというのに、あろうことか、その露はとんでもない〈悪女〉にされていて、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布しているという実態があるからだ。しかし、少し調べてみただけでも露はとてもそうとは言えなさそうであることに私は気付く。だからもしかするとこの〈高瀬露悪女伝説〉は濡れ衣の可能性があり、もしそうであるとするならばそれは人権問題だから、他のこととは違ってそれが重視される今の時代は特に放っておくわけにはいかない。
 例えば、賢治の主治医だったとも言われている佐藤隆房は、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子(筆者註:高瀬露のこと)さんといふ、たゞ一人の女性がありました。…筆者略…
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい會員が来て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
と、集つてくる男の人達にいひました。        〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)175p〉
と述べていて、これに基づけば、露は賢治にとっては〈悪女〉どころかその逆だからである。さらに、『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』によれば、
 この歌の原曲は…筆者略…「いづれのときかは」で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
〈『新校本 宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』(筑摩書房)225p〉
ということだから、賢治は露から讃美歌を教わっていたということを、賢治の弟清六は証言していたことになる。また清六は、
 私とロシア人は二階へ上ってゆきました。
二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさん(筆者註:高瀬露のこと)という婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…筆者略…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。 〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)236p〉
ということも証言している。よって、これらの証言等から、賢治は露からとても世話になっていたということや、当時、賢治と露はオープンで親しい関係にあった、ということが導かれる。
 しかも、露は一九二一年(一九歳の時)に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの一一年間は花巻バプテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の一九五一年にカトリック遠野教会で洗礼を受け直し、「五〇年の長きにわたって信仰の生涯を歩み通した」クリスチャンであった(『宮沢賢治とクリスチャン 花巻編』(雜賀信行著、雜賀編集工房)143~147p)、という。
 従ってこれらのことに鑑みれば、露が〈悪女〉であるとは常識的には考えにくい。
 そこで私はまず、関連する論考等を探し廻ったのだが、この伝説に関して学究的に取り組んでいる賢治研究者の論考等はなかなか見つからなかった。そしてやっと見つかったのが、上田哲の「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」という論文だった(以降、「〈悪女〉にされた高瀬露」のことを〈悪女・高瀬露〉と表記する)。上田は、新たな証言や客観的資料等を発掘してこの〈悪女・高瀬露〉を再検証してみたところそれは冤罪的伝説であったということで、一九九六年に『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)上にそのことを発表したのが同論文である(この件に関する論文の嚆矢であり、しかもほぼ唯一のものだ。現在に至っても、このことに関する他の研究者の本格的な論考等は見つからない。なお、この論文は未完に終わっている)。
 さて、上田哲は同論文で、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。多くの本や論考にも取上げられ周知のことなので詳しい記述は必要でないように思われるが、この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
〈『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)89p〉
と述べているので私は、「なるほど」と呟く。さらに上田は同論文で、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…筆者略…一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており   〈同89p〉
とも述べていたので、私も実際当該の「文篇」を渉猟してみたところたしかにそのとおりだった。
 ところが、「下敷」になっているその『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述内容には、信憑性が危ぶまれる箇所が少なくないことを知った。
 例えば、高瀬露が〈悪女〉であるとされた一つの原因となっているあの「ライスカレー事件」だが、『宮澤賢治と三人の女性』における同事件の記述には、拙著『本統の賢治と本当の露』の122pでも論じているように、「森の虚構や創作が含まれていそうだ」。そのことは私のみならず、佐藤通雅氏も「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる」と指摘している(『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)83p)ように、事実とは言い難いからだ。
 あるいはこんなことも知った。「旧校本年譜」では、森荘已池が一九二七年の秋の日に下根子を訪ね、その際道で高瀬露とすれ違ったということになっている(『校本全集第十四巻』622p)のだが、それは、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃路に入つて行くと稻田のつきるところから …筆者略…              〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)74p〉
と森は書いているものの、
   「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という論理で、「旧校本年譜」はこの訪問を一九二七年のことであると決めつけたということをだ。そこで私はこの安直な論理に唖然とする。それはまず、賢治が下根子の宮澤家別宅に住んでいたのは大正15年(一九二六年)もあるわけで、そうとは限らないからだ。そして石井洋二郎氏が「あらゆることを疑い」と言っているように、そもそもこの「下根子訪問」自体がなかったかも知れず、しかも「旧校本年譜」はその訪問があったということを確認したとは言い添えていない。そしてその懸念のとおり、私が検証したところ、森のこの「下根子訪問」は捏造であったことが明らかになった(詳しくは、拙著『本統の賢治と本当の露』の第二章の〝5.捏造だった森の「下根子桜訪問」〟をご覧いただきたい)。よって、
  ・「下敷」そのものもかなり不確かである。
ことが分かった。となれば、これと先ほどの、
  ・露が〈悪女〉であるとは常識的には考えにくい。
とを併せて判断しただけでも、
  〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣の可能性がきわめて大である。
ということが導かれる。
 一方で上田も言及しているように、賢治の周辺に〈悪女〉がいたという風説は戦前から一部の人たちに知られてはいた。しかし、その〈悪女〉の名が高瀬露であるということまでは殆ど知られていなかった。なぜなら、この〈悪女〉に関して著作を公にした森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』等も、儀府成一の『宮沢賢治 その愛と性』も、その女性の名前は明示しておらず、「彼女」「女の人」「Tさん」などという表現、あるいは仮(か)名(めい)の「内村康江」とかを用いているからだ。
 ところが、上田が同論文で、「この女性の本名が明らかにされたのは校本全集第十四巻……」と述べていることから示唆されるように、『校本全集第十四巻』上で突如、その〈悪女〉の名は「高瀬露」であると思わせるような、恣意的な公表がなされてしまった。具体的には次のようにである。
 昭和52年に出版された同巻は「補遺」において、
 新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので、高瀬あてと推定し、新たに「252a」の番号を与える。                            〈『校本全集第十四巻』28p〉
と述べて、「新発見」の賢治書簡下書252c等を公表した。そして、
   本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが、             〈同34p〉
と断定し、この「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の書簡下書と合わせて約23通を「昭和4年と推定される〔日付不明 高瀬露あて〕書簡下書」として一括りにして公表したのだ。
 ところが、これら一連の書簡下書群の最もベースとなる書簡下書252cについて、同巻は「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と断定してはいるものの、その典拠を何ら明記していない。ここでもまた杜撰なのだ。その裏付けがあるということも、検証した結果だということもまた付言していない。従って、「内容的に高瀬あてであることが判然としているが」といくら述べられていても、「内容的に」というような漠とした表現では、読者にとっては「客観的に見て判然としていない」ことだけがせいぜい判然としているだけだ。
 にもかかわらず同巻はさらに推定を重ね、しかも一般人である「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「推定は困難であるが」と前置きしておきながらも、「この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか(傍点筆者)」などというような投げやりで、はしなくも、いい加減だという印象を与えるような表現を用いて、「困難」なはずのものにも拘わらず、
⑴、高瀬より来信(高瀬が法華を信仰していること、賢治に会いたいこと、を伝える)         
⑵、本書簡(252a)(法華信仰の貫徹を望むとともに、病気で会えないといい、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。」として、愛を断念するようほのめかす。ただし、「すっかり治って物もはき〳〵云へるやうになりましたらお目にかゝります。」とも書く)
⑶、高瀬より来信(南部という人の紹介で、高瀬に結婚の話がもちあがっていること、高瀬としてはその相手は必ずしも望ましくないことを述べ、暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)…筆者略…
⑸、賢治より発信(下書も現存せず。いろいろの理由をあげて、賢治自身が「やくざな者」で高瀬と結婚するには不適格であるとして、求愛を拒む)  
などと、スキャンダラスな表現も用いながら推定した。さらに続けて、⑹、⑺という「推定」も書き連ね、結局延延と推定を繰り返した推定群⑴~⑺を同巻で公表した(『校本全集第十四巻』28p~)。それにしても、筑摩書房ともあろう出版社が、「次のようにでもなろうか」というレベルのものを文字にして公表するなどということは私にはまったく考えられないことである。
 しかも、これらの「推定群⑴~⑺」は、クリスチャンであった高瀬露が信仰を変えて法華信者になってまでして賢治に想いを寄せ、一方賢治はそれを拒むという内容になっている。それ故、この「推定群⑴~⑺」を読んだ人たちは、そこまでもして賢治に取り入ろうとした露はきわめて好ましからざる女性であったという印象を持つであろうことは容易に想像できるので、これらの「推定群」を文字にして公表することは筑摩書房ほどの出版社であれば、きわめて慎重になるはずだ。信仰に関わるし、人権が絡むからであり、世間からの信頼が厚い良心的出版社だからなおのことである。
 それはもちろん、このような「推定群」をそのような出版社が活字にすれば世の常で、出版時点ではあくまでも推定であったはずの〔昭和4年露宛賢治書簡下書〕がいつのまにか断定調の「昭和4年露宛賢治書簡下書」に変身したり、はては「下書」の文言がどこかへ吹っ飛んでしまって「昭和4年露宛賢治書簡」となったりしてしまう虞もあるからである。そして同様に、「推定群⑴~⑺」の内容も、延いては、「露は賢治にとってきわめて好ましからざる女性であった」ということまでもが独り歩きしてしまうこともまた、である。
 そして実際、この〝「新発見」の賢治書簡下書252c群及び「推定群⑴~⑺」の公表〟(以後、この公表のことを〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟と略記する)後、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる無名の〈悪女伝説〉が、濡れ衣の可能性が高いのにもかかわらず実名を用いた〈悪女・高瀬露〉に変身して、一気に全国に流布してしまったということを否定出来ない。ちょうど先に紹介した、
 賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。 
という危惧と同様で、「高瀬露」の名前が登場するこれらの「推定」が『校本全集第十四巻』に公表されたことで、「推定」を「事実」として受け取った人も少なくなかったであろうことに依って、賢治の周辺に〈悪女〉がいたという風説の〈無名の悪女伝説〉が、〈高瀬露悪女伝説〉に変身して一気に全国に広まっていったという蓋然性が高い。
 実際、二〇〇七年(平成19年)に出版されたある本では、
 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、はたまた、二〇一〇年(平成22年)に出版された別の本でも、
 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
というようにである。
 一方で、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。   〈『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)177p〉
と境忠一との対談で語っていたし、天沢退二郞氏も、
 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。
〈『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415p〉
と述べていたから、この二人は共に、高瀬露が亡くなったので公表したと言っているようなものだ。よって、「新発見」の書簡252cとは言い難いことを知った私は、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟によって露は結果的に濡れ衣を着せられたと言わざるを得ないと今まで考えていた(が、それも間違いだと気付いた。今回のここまでの考察によって事態はもっと深刻だったのだと、考え方を変えつつあるからだ)。
 それにしても、なぜ『校本全集第十四巻』は、「新発見」とは言い難いのに「新発見の書簡252c」とセンセーショナルな表現をし、さらに、「推定は困難であるが」と言いながらも、その推定を延々と繰り返した「推定群⑴~⑺」を公表したのか。良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩書房が、なぜこのような杜撰(典拠などが不確かで、いい加減)だと見えてしまうようなことをしてしまったのかと、私は釈然としなかった。そしてこのようなことに依って、結果的に〈悪女・高瀬露〉という濡れ衣を着せられてしまったのだと私には思えてならない。しかも、森義真氏も次のようなことを講演会で話して下さったから、私はこれはやはり濡れ衣であるということをさらに確信したのであった。
 というのは、森氏は、令和2年3月20日に矢巾町国民保養センターにおいて行った『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』という講演会において、
 そうしたところに、上田さんが発表した。しかし、世間・世の中ではやっぱり〈悪女〉説がすぐ覆るわけではなくて、今でもまだそういう〈悪女〉伝説を信じている人が多くいるんじゃないのかなと。しかしそこにまた石を投げて〈悪女〉ではないと波紋を広げようとしているのが鈴木守さんで、この『宮澤賢治と高瀬露』という冊子と、『本統の賢治と本当の露』という本を読んでいただければ、鈴木さんの主張もはっきりと〈悪女〉ではないということです。はっきり申し上げてそうです。
とか、
 時間がまいりましたので結論を言います。冒頭に申し上げましたように、「高瀬露=〈悪女〉」というこれは本当に濡れ衣だと私は言いたい。それについては上田哲さんがまず問題提起をし、それを踏まえて鈴木守さんが主張している。それに私は大いに賛同します、ということです。
〈『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(露草協会編、ツーワンライフ出版)8p~〉
と話して下さったからだ。
 そして、この度のこの考察を通じて私は、露は「濡れ衣を着せられた」というよりは冤罪だという考え方に変わりつつある。〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布させてしまったことは濡れ衣を着せるよりももっと罪深いことであり、これは犯罪なのだと。杜撰が招いた冤罪であると。では何故そのような冤罪が起こったのかというと、その大きな原因は、その当時の筑摩書房が「腐りきっていた」からだということを、なんと、筑摩書房の社史が私に示唆してくれた。だから逆に、ある意味、筑摩書房は自恃と自戒がある、矜恃があると知って安堵もした。

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