みちのくの山野草

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4265 気付かぬ振りをしていた可能性

2014-12-20 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
<『白亞校百年史 寫真』(盛岡一高)65pより抜粋>
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
盛岡中学社会科学研究会
鈴木 ところで、上掲の写真は先に投稿した『白亞校百年史 寫真』の65pの一枚を抜粋したものであり、
 大正12年ごろから結成され、昭和初期の軍事色濃い世相に密かに抵抗していた社会科学研究会.
というキャプションが付してある。そして、その隣の左頁には
 大正から昭和へ
 昭和と改元されると、次第に軍事色が強まってきた。昭和3年、県内で陸軍特別演習が行われ、盛中生も親閲行進に加わるなど、学舎にも軍事色の影がひたひたと押し寄せていた。しかし、一方では、盛中社会科学研究会が非合法の形で活動するなど、軍事色に抵抗するグループもみられた。
という説明が述べてある。
吉田 このことに関しては、『啄木 賢治 光太郎』でも、
 学連系の社会科学研究会は、大正十五年初夏、盛岡中学内でひそかに発足した。中心は柔道部主将の五年生、和山勝治。深夜の下宿を会合場所にし、山川均の「資本主義のからくり」を入門書にしたこの研究会は、この年の秋まで全盛中を席巻した。
   盛中社会科学研究会
 当時、盛岡中学三年生だった鈴木恭平は、大正十五年夏、二年上級の渡辺勘吉(元参議院議員)を知り、彼から「資本主義のからくり」を手渡された。
     …(投稿者略)…
 これが非合法の社会科学研究会だった。発足当時のメンバーは、和山を中心に渡辺勘吉、上田重彦(石上玄一郎)、川口孝志、栃内一矢、佐藤彬らが顔を連ね、のち平賀忠一郎、中川一市、戸田俊郎ら四年生も顔を出すようになった。
     …(投稿者略)…
 テキストは山川「資本主義のからくり」が入門、続いて山川・田所輝明「マルクス主義経済」ブハーリン「史的唯物論」レーニン「帝国主義」エンゲルス「空想より科学へ」と教程が組まれており、国鉄盛岡工事局に勤めていた佐藤好文や川村尚三らが講師として顔を出すこともあった。
            <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社 盛岡支局)29p~より>
などと述べられていて、前掲の写真の中に和山や渡辺、そして石上が写っているかどうかはさておき、同会にはそうそうたるメンバーが参加し、かつ活動していたであろうことがわかる。なお、例の賢治と交換授業をしたという川村尚三が同会に講師としてやって来ていたことも僕からすれば目を引くことだ。
鈴木 そうなんだ、川村が行っていたのか。一方その頃、県下に吹き荒れた「アカ狩り」によって盛岡中学の英語教師平井直衛(金田一京助の弟)がその職を奪われたということもあったわけだが、当時陸軍大臣板垣征四郎、海軍大臣及川古志郎、そして海軍大臣・総理大臣を務めた米内光政等は盛岡中学の出身校だというのにもかかわらず、戦時中でも盛岡中学は敵性語の英語の授業をし続けたという。
荒木 そおそお、俺も聞いたことがある。気骨があると言えばいいのか、剛直であると言えばいいのか、はたまた己の信念や理念を枉げないと言うべきかは俺にはよくわからんが、いずれにせよ盛岡中学というところは凄いところであったようだし、そこの生徒もなかなかやるじゃないか。

その頃賢治は
鈴木 さて、ではその頃の賢治の社会的意識や政治的意識・活動はどうだったのだろうか。どうやら、賢治は「盛岡中学校校友会」から依頼されて「生徒諸君に寄せる」や「サキノハカという黒い花」を詠んでいたということのようだが、『校本全集 第六巻』(778p)によれば、「生徒諸君に寄せる」は昭和2年「盛岡中学校校友会雑誌」への寄稿を求められて着手したが、ついに完成に至らなかったと見られ、同校友会誌には「奏鳴四一九」「銀河鉄道の一月」の二編が発表されたという。実際に『新校本年譜』を見てみると、昭和2年12月21日の項に、
 盛岡中学校の「校友会雑誌」四一号(一九二七年集)に森佐一の仲介により「冬二篇」として<銀河鉄道の一月>と<奏鳴四一九>を発表。
ともある。
吉田 おそらく「サキノハカといふ黒い花」という用語は「アナーキズム」を暗示しており、当時その無政府主義者の大物大杉栄が惨殺されるような時代だったが、少なくとも賢治は心情的には無政府主義についてシンパシーを抱いていたはずだ。
鈴木 そうそうそう思う。実際、森荘已池が下根子桜を訪れた際に、
 突然彼が言い出した。
 非ユークリッド幾何学とか幽霊、草花の種子、または無政府主義、ベートーヴェンという風に、彼の話題は奔流のように流れるのが常であったから…
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)85pより>
と賢治が言ったとも証言をしている。
吉田 はたまたこの『陸軍特別大演習』を前にして県下で吹き荒れた凄まじい「アカ狩り」に対して、その頃労農党のシンパでもあったとみられる賢治はどう対応していたか。おそらく、川村尚三とは交換授業をしたり、「牧民会」の会員でもあったりした賢治だから官憲の手が賢治に伸びなかったということはなかろう。
荒木 したがって、そのような状況下にあった賢治を、
 「アカ狩り」大弾圧を受ける危険性があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
と判断し、そのことを
 「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
と評する大内秀明氏の見方は、俺は今まで考えてもいなかったことであり、目から鱗だったよ。

気付かぬ振りをしていた可能性
鈴木 さて、この時の『陸軍特別大演習』が花巻を皮切りとして行われたこと、大演習が行われた日居城野には立派な『御野立所祈念塔』が建立されたこと、そして立派な『陸軍特別大演習記念写真帖』が出版されていたし、この度カラー刷りの『陸軍大演習記念郵便はがき』が売りに出されていたということを知れば、先にも言ったとおり、「大正から昭和」の時代を生きた岩手の人たち、とりわけ花巻や盛岡の人たちが少なくともこの『大演習』とそれに伴う『すさまじい「アカ狩り」』のことを知らなかった訳はまずあり得ないだろうということが導き出される。あるいはそうでないその後に生まれた人たちでさえも、私たちと同じように少し調べればそのことに気付くはずだ。
吉田 ところが現実には、僕たちが
 昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。
と主張し、検証する以前にこのようなことに関する論考を発表した人は、たぶん誰一人いなかったはずだから、不思議といえば不思議なことだ。
荒木 もっとはっきり言えば、それは知ってはいたのだが事情があって真実は言えなかっただけのことであり、それに気付かなかったということではなくて、その真相は、意識的に無視して来たと考えた方が妥当だということだべ。
吉田 有り体に言えば、気付かぬ振りをしていたという可能性が遙かに大だということか。いやもっと正確に言えば、「旧校本年譜」では昭和3年9月23日付高橋(澤里)武治あて返書に関わって、
    演習(盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた)が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
               <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)635pより>
ということにしてとぼけ、『陸軍特別大演習』に関連していることは十分に認識していたが、気付かぬ振りをしていたということがその真相かもしれんな。
鈴木 しかし、こうしてかつての「盛岡中学社会科学研究会」のメンバーの写真が公にされる時代なのだから、あるいは『啄木 賢治 光太郎』にはこうして個人名が公にされる時代だし、なおかつこの人たちの活動は褒められこそすれ非難などされるような時代ではもはやないのだから、実は賢治がそのような「蟄居・謹慎」をしていたとしても、大内先生が
 「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
と仰るとおりでいいのではなかろうか。今回この2枚の「陸軍特別大演習」の記念郵便はがきにたまたま出会った私はつくづくそう思った。
荒木 そうだよな、「ありのままの賢治」をそろそろ時代は受け容れるべき時がやって来たということだろう。まさしく「ありのままに」だ。そうすれば、賢治はもっともっと多くの人々から愛される存在となるはずだし、かつそれは自明のこと。…なはずだ。

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3 コメント

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先ほど拝受いたしました (大内秀明様(鈴木))
2014-12-22 19:14:16
大内 秀明 様
 この度は御高著『土着社会主義の水脈を求めて』をご恵贈賜り大変ありがとうございました。先ほど拝受いたしました。
 年末のご多忙な折りに、本当にありがとうございました。これから早速拝読させていただきたく存じます。
                                                              鈴木 守
 
   
返信する
いつもありがとうございます (大内様(鈴木))
2014-12-21 11:17:30
大内 秀明 様
 お早うございます。
 花巻は、今年は根雪も早く、連日のように寒いのですが、御地は如何でしょうか。

 いつもいろいろとご教示賜りありがとうございます。
 また、この度は大内様の著書から引用させていただきましたことに、改めて御礼を申し上げます。

 さて、どうも私の場合、人間賢治のことを考える際に「聖人・君子宮澤賢治」がいつも頭の隅にちらついていて、そこから完全に抜け出せないでおります。そのために、大内様のように
  『そのため父母の計らいもあって』
あるいは、
  『「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。』
というような見方を私は今までできずにおりました。それゆえ、大内様からこのような見方を教わって、私は目を覚まさせられました。
 そして同時に、私の友人から教わったことを今改めて思い出しております。それは、賢治の甥の一人にその友人が『賢治さんってどんな人だったんですか』というような意味のことを無理矢理訊き出したところ、その甥は『普通のおじさんですよ』と答えたということをです。
 そのような視点で人間賢治を見れば、私自身は、今まで見えて来なかったものが見えてくるということをいま感じ始めております。

 それから賢治とアナキズムの関連ですが、私には難しい対象なのでその探究は諦めております。ただし例えば、交換授業を一通り終わった際に賢治は川村尚三に『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言ったということですが、「これはダメ」の「これ」とはあくまでも「ボルシェビズム」のことであり、「アナキズム」がダメだと言ったわけではなかろうなどと妄想をしております。当時の川村尚三はボルシェビキだったと私には思えると同時に、賢治は基本的には心情的なアナキストだと思えてなりません。

 また、現在『宮澤賢治と高瀬露』というものを性懲りもなく自費出版しようとしておりその準備中ですが、これはあくまでも一人の人間が冤罪とも言えるような扱いを受けて来て、今も受け続け、このままだと未来永劫それが言い続けられそうであることに対する問題提起であり、私も「女性問題は不得手」でしてとても賢治の「女性問題」そのものには迫ることはできません。唯一点、謂われ無き「悪女伝説」が捏造され、理不尽な扱いを受けている高瀬露だが、実は露は悪女でないどころか、その逆の聖女の如き人だったということを実証した(つもりの)ものです。

 この出版が終われば、もはや私が賢治に関して調べたいというものはもう殆どないのですが、あるとすれば例えばそれは、「塚の根肥料相談所」が開設されたのがはたして昭和3年3月15日だったのかということです。もちろん、この問題提起は既に伊藤光弥氏がなさっておられることでして、私は伊藤氏の主張に賛同しているだけですが、その裏付けを見つけたいと思っております。
 具体的には、その期日を検証するために、

 柳原好地村村長、世話をした照井源三郎、教え子菊池信一、関良介、川村與左衛門、板垣亮一

の日記等を探そうとしているのですが見つかりません。特に、菊池信一が当時日記を書いていたということは伊藤新吉が証言していたはずですが、菊池信一のご遺族等から伺ってもその日記は今はないということです。板垣亮一も日記を付けていた可能性が頗る高いのですが、菊池同様ないということです。
 今後機会があれば、まだ確認していない残った二人関良介、川村與左衛門の当時の日記を探してみたいものだと思っております。

 さて、菊池信一の随想「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」の出だしの一文、
   羅須地人協會の生まれた翌年の昭和三年三月三十日。
において
   「羅須地人協會の生まれた翌年」が正しいのでしょうか、はたまた「昭和三年」が正しいのでしょうか。
そしてその裏付けを知りたいです。

 それでは、日に日に寒さも増し来るものと思いますので、どうぞご自愛下さい。
                                 鈴木 守
返信する
愛すべき賢治 (大内秀明)
2014-12-20 19:39:55
鈴木守様 小生、女性問題は不得手で、ご無沙汰しました。再び、関心のテリトリーをお取り上げ頂き、興味深く拝読しておりましたところ、拙論が話題になり恐縮しております。有難うございます。賢治精神を受け継ぐ同志的共感を深めております。
 盛岡中学の社研の話、初めて知りました。それにつけても陸軍大演習は、事前の赤狩りが目的で、賢治たちも被害者だったと思います。それだけ岩手の運動が大きな影響力を持っていたのでしょう。
 賢治とアナキズムの関連、非常に重要です。その点を含め、私家本の内容も入れましたが、今般共著『土着社会主義の水脈を求めて』社会評論社刊を上梓しました。謹呈しますので、ご笑覧下さい。お礼まで。
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